結婚前夜―クナジェスィ―③
音楽はやはりハレムの外、園庭で演奏されているようだった。
わたしに音楽の教養は無い。
歌と踊りだけは、リュー・リュー夫人のもとみっちり特訓を積んだけど、やっぱり持って生まれたセンスはないようで。時々盛大に音を外してしまうし、他人の演奏の巧拙もよく分からなかった。
それでも、音楽を聴くのは好きだ。特にお祝いの曲は明るくてテンポが良くて、なんだかわくわくさせられる。遠く、聴こえてくる音楽もそんな感じだった。
「……そういえば、明日の式では新郎の世話役たちが演奏するんだっけ。その練習をしているのかしら」
園庭へ近づくたび音はどんどん大きくなり、やがて楽団の姿が見えてきた。正装の男性が六人、指揮者もなく、輪になって楽器を弾いている。
「――おお、ついに音が揃った。今のは良かったなあ」
じゃかじゃかじゃんっ! と陽気と弦を掻き鳴らし、年長の男性が明るく言った。
「これなら本番で、新郎新婦をコケさせずに済むだろう。さあもう一度最初から、通しで行くぞ」
指揮者もいないので、「はい、せーの」でユルっと始まる。
イプスの音楽らしい、知らない曲だったけどやはり結婚式で演奏するようだ。優雅なメロディーと穏やかなリズムが心地いい。
彼らが持っている楽器も、イプス特有のものだろうか? 洋梨を半分に切ったようなボディからしてリュートの仲間だと思うけど、ネックの部分が異様に長い。いやただ単にわたしが知らないだけで、西洋にも当たり前に流通してるのかも……。
少しだけ見物させてもらいたいな。でも彼らの邪魔をしないよう、こっそり物陰から聞き耳を立てるだけにしておこう。
そう決めて、物陰から顔を半分覗かせた瞬間、わたしは思わず悲鳴を上げた。
その声を聞きつけ、楽団は手を止めてこちらを向く。ああやっぱり間違いない、演奏している六人の中に、見覚えのある中年男、我が父の姿があったのだ!
「おっ……お父様⁉」
父は、わたしの追及になんだかすごく、面倒くさそうな顔をした。何も答えず、楽器を置いて立ち去ろうとする。彼を止めたのは年長の男性だった。
「どうしたグレゴール、諦めるのか? 大丈夫、あなたには才能がある。『サズ』のマスターまであともう一息だぞ!」
彼の言葉はもちろんイプス語だったけど、言いたいことは父にも伝わったらしい。フンと鼻を鳴らし、再び座った。すると世話役たちも再び楽器を構え、「せーの」で始めようとする。わたしは慌てて割って入った。
「待って待って、どういう状況? どうしてお父様が、世話役のみなさんと一緒に演奏練習しているのです⁉」
「……別に。大した意味はない。ただメンバーが足りず困っているからと、呼ばれて入っただけのこと」
不機嫌そうに吐き捨てられても、それで納得できるわけがない。わたしはなおも食い下がり、父を問い詰めた。
だって本当に意味が分からない。父をこの船旅に連れてきたのは、わたしたちの婚姻を邪魔する悪しき者から父を保護することで、つつがなく式を終えるため。この結婚式において、父の役目は婚姻証明書にサインするだけでいい。
勉強嫌いの父にはイプス語でのスピーチや来客のホストなど頼めるわけがなく、下手に動かれたらトラブルの種になる。何の仕事もしなくていい、式当日まで何不自由なく、ごゆっくりと過ごしてくださいと、豪華な部屋と食事を提供した。それなのに――まさかこんな騒動を起こすなんて!
「部屋でじっとしていてと言ったでしょう? 世話役のみなさんに迷惑をかけちゃ駄目じゃないですか!」
厳しく叱りつけるわたし。すると、父は眉を縦に吊り上げ、怒鳴り返してきた。
「――じっとして、などいられるかっ! 何にもない部屋で何にもせず、誰とも話さずに一週間だぞ!」
大音量の怒号に鼓膜がびりびりする。父は本気で腹に据えかねていたらしい、楽器を隣の男に押し付けて、わたしにつかつか歩み寄ってきた。思わずのけぞるわたし。
「えっ、ええと」
「おまえたちは式の準備で色々忙しくしている間、私が何をしていたと思う? 寝ていた! ずっと寝ていたっ! 何が何不自由ない生活だ、壁と天井の模様ばかりが煌びやかで、寝床と卓以外に無い部屋でどうしろと? 自由にできるのは枕くらい、朝から晩まで遊び相手はずたぼろだけ、それだってさほどの時間も潰せない! 相手は猫だからな! 大体寝てる!」
「あっ、あっ……ご、ごめんなさい?」
「飯を運んでくる連中に何か頼もうにも言葉が通じず、無駄に広くて落ち着かず、脱走しようにも道が分からず! せめておまえから本を借りようと思っても、ハレムの前で女連中に蹴りだされた! なんだあれは! この私が、人生で初めて本を読む気になったのに!」
「あっそれは、ハレムは男子禁制だから……すいませんごめんなさい」
「――それで、いよいよやることがないので散歩をしていたら、ここで楽団に出会った。私が願うまでもなく楽器を渡されたから、弾いてみた。それだけだっ!」
「ああはい、納得しましたすみません……ちょっと気遣いが足りなかったです……」
わたしは素直に謝罪した。
そのようすに、父は一応、留飲を下げたらしい。「ふん!」と盛大に鼻を鳴らしながら背を向けて、楽団の輪に戻っていった。
「……本当に、ごめんなさい……」
もう一度、心からの謝罪をする。
……わたしは、父シャデラン男爵に対し、忘れることのできない確執がある。父娘としても貴族としても、わたしは未だ父を許してなどいない。好きか嫌いかで言えば、きっぱりと嫌いである。
でも、どんな扱いをしてもいいわけじゃない。罪の償いとは関係のないところで、人を粗末に扱うのはただの虐めだ。失敗した。自分たちのことで頭が一杯だった……と、わたしは悔い改めた。
しょんぼりしているわたしを見て、世話役の年長者は気を利かせたらしい。「もう練習は十分だ」と切り上げて、楽器を片付け始める。父とわたしを二人きりにし、話をするよう促している……と、察したけれど、そうできるわけもなく。
不機嫌な父と、無言のわたしだけが並んで座っているだけの、静かな夜になってしまった。
……どうしよう。
わたしは父と、穏やかな『会話』をした記憶が、半生まるごとさかのぼっても一度もない。物心ついた頃から父はわたしに冷たくて、何かを問うても「母上に言え」と、祖母の部屋へ押し込まれた。十二をすぎた頃からは、醜い、役立たずだと罵倒された覚えしかない。
……あれは、わたしを『ずたぼろ』にするための演技、嘘だったと明らかになったけれど……。では真実、父がわたしをどう思っていたのかは、いまいちわかっていない。
母は祖母とアナスタジアに固執して、わたしのことを嫌っていた。父は……。
俯き、考え込むわたしの、鼓膜を音楽が震わせた。驚いて顔を上げると、父が隣で演奏をしていた。
サズと呼ばれていた、イプサンドロスの楽器。柔らかな音色が、夜の閑をもやわらげた気がした。
「お父様、演奏がとてもお上手なんですね」
わたしは素直にそう褒めた。話によれば、父がこの楽器に触れたのは今夜が初めてのはず。それでここまで弾けるのはすごいことだろう。だが、父はフンと鼻を鳴らした。
「弦の本数と硬さに違いがあるが、ディルツにあるリュートと基本は同じだ。少し慣れれば誰にだって弾ける」
「そもそもわたしはリュートが弾けないもの。お父様には音楽の才能があるのね」
「おまえに才能が無いだけだ」
うっ、音痴の自覚はあるけど、きっぱり言われたらちょっとショック。もう何も言えなくなったわたしに、父は続けてぼそりと呟いた。
「ほかにあるのだから、それでいいだろう。これしか無い私よりも恵まれている」
…………。
わたしは少しの時間、無言で演奏を聴き……呟いた。
「持っているもの、指折り数えてみたら案外、同じくらいの数になるかもしれませんよ」
聞こえなかったのか、無視をしたのか、父は返事をくれなかった。
……芸術は、貴族の教養の一つだ。父は領地経営者としては落第したけれど……。
ほかの生き方をしていれば、ちゃんとした大人、と呼ばれていたのかもしれない。
だけど父は領主の嫡男として生まれた。そうでなければ――もしかしたら、優しい父親になれたのかもしれない。わたしの個性、長所を素直に認めて、褒めて伸ばしてくれたのかもしれない。
生まれた家が、子を育てていく環境が違っていれば、親子の関係は別の形になったかもしれない。女傑のサーシャと落ちこぼれの一人息子も、同じように、もしかしたら。
目を閉じて、サズの音色に聞きほれながら、わたしはぼんやりとそんなことを考えていた。
――親と子は、別の生き物。ひとそれぞれに生き方がある。
もって生まれた才能、気質、向いている職業が違う。
人はみな平等で、同じだけ頑張れば同じだけ結果が出るなんて、嘘だと思う。わたしはどれだけ頑張っても、お姉様のような金髪にはなれない。青い瞳にも、可愛らしい顔立ちにも、護ってやりたくなるような小柄な女の子にも変身することはできなかった。
それでもわたしは今、幸せだ。あの人がわたしに手を差し伸べてくれたから。
わたしは選ぶことができた。生き方を、生きる場所を、自分で選択することができたのだ。
――生き方の選択肢――それは、ただ金銭の施しよりもずっと貴重で、人間がみんな持っておくべき大事なものだわ。
『クナの夜』はまだまだ続く。わたしがイプスにいられる時間は、残りわずかだ。
その時間でできること。このわたしに残せること――。
考えて、考えて、考える。
そうしてやっと思いついたのは、とんでもなくスケールが大きくて、たくさんの人間を巻き込むもので。
口に出すのもはばかられるほど、無謀で、身の程知らずで。
……だけど、もしかしたら何もかも解決するかもしれない、奇策だった。
――夜が明けて、結婚式本番の朝。わたしは君主邸を訪問した。
イプスの結婚式は夜、そのため本来新郎新婦が顔を合わせるのは夕方ごろ、ドレスアップも済んでからである。それでもわたしは早朝からキュロス様に会いに来た。
平常、世話役たちと一緒に朝食を摂っているはずの彼は、なぜか一人だった。ティーテーブルの上で、チャイダンルックに茶葉を入れている。
「やあマリー、来たか」
足を組みなおし、彼はわたしに向き直る。何もかもわかっている、といった風に微笑んで。
「君の話を、ぜひ聞かせてくれ」




