結婚前夜―クナジェスィ―①
翌日、わたしはキュロス様と共にオグランを解放しに行った。
牢――と今は呼んでいる宝物館の鍵を開けた時、オグランは最初、処刑されるとでも思ったらしい。
「最期に一度でいいから腹いっぱい食わせてくれないか」などと懇願して来た。
とりあえずその誤解だけは解き、理由として、被害者であるアンジェロさんの進言だと伝える。するとオグランは、黒い目をまん丸にして、千切れて落ちるんじゃないかと思うほどに大きく首を傾げた。
「腹に穴開けられといて、自分の保身でもなく主人のために犯人を許すって? 変わったおっさんだなあ」
「……自分もその日暮らしの子どもなのに、仲間に美味しい仕事回してたおまえさんも似たようなもんだろ」
キュロス様に言われても、「わかるようなわからんような」という顔をした。
「とりあえず、おまえも仲間たちも被害者様からの恩赦で無罪放免だ。良かったな。達者で暮らせ」
鉄錠を後ろ手に投げ捨て、すぐに背を向けるキュロス様。園庭を縦断して去っていく靴音が早い。オグランは、先ほどとは逆の方向に首を傾げた。
「なんかあの旦那、機嫌悪くね。どうしたの」
「……キュロス様は、とっても紳士なのです」
「なんだそれ」
「どんな理由であろうとも、女性が危険な目に遭うのは嫌で、そうさせた男が許せないのですよ」
「女性? 誰の話?」
「こっちの話だから気にしないで」
わたしは言った。実際あのふたりのことは、もう他人が気にしなくていいように思う。
昨夜あのあと、カエデさんはわたしより先に目を覚まし、部屋からいなくなっていた。心配になって王宮中を探し回ったら、なんと、アンジェロさんの部屋に戻っていたのだ。
わたしの部屋で、一晩中泣きはらしたせいでパンパンに腫れた瞼を無理やり閉じて、けが人のベッドに顔を埋め、突っ伏すように眠っていた。
そしてアンジェロさんはというと、涼しい顔で一人、朝ご飯を食べていた。第一声は「おはようでござる。イプスのごはんは美味しゅうござるな」。なんだか何もかもやる気がなくなって、わたしは部屋に戻って二度寝した。
「……それよりオグラン、あなたはこれからどうするの?」
オグラン少年は聡い。わたしの言葉にある含みを悟って、苦笑いをした。
「別に、今までと同じ暮らしだよ。お嬢様は、これから真面目に勉強してちゃんとした仕事に就けばいいのにって感じかい?」
「……あなただけなら可能でしょう」
「そんなつもりないってわかってて言ってるんだよな」
わたしは頷いた。
オグランは優秀だ。幼い頃に孤児になり、知識と知恵を絞って生き抜いてきた。だけど富を独占せず仲間たちに施すのは、余裕があるからじゃない、むしろ飢えの苦しみをよくよく知っているからだろう。
その辛さを知っているから。彼らの姿は、過去の自分だから。
――昔、あの時、助けてほしかった自分がそこにいるから。
オグランが救っているのは他人ではない、過去の自分だ。だから助けずにはいられない。今のわたしがそうであるのと同じように。
「……あなたたちを助けたい」
わたしは呟いた。オグランに伝えたのではなく、ただ自分の気持ちだけを呟いた。
「あなたたちを助けたい。だけど……その方法がわからない」
わたしは彼らを救いたい。だけどただ彼らに施しをして、一時的な保護をするだけでは駄目だ。ましてそれがキュロス様の財力に頼って行うのは違うと思う。これはわたしがやりたいことなのだから。
わたしがこれから、伯爵夫人としての職務をこなし、やがて得た資産で、今いる子どもたちみんなをディルツに呼び寄せるくらいはできるかもしれない。だけどまた子どもは生まれる。必要なのはパンではなく、小麦を育てる畑だ。このイプサンドロスに生まれてくる子どもたちを、未来永劫お腹いっぱいにできる大きな小麦畑――。
数日後にディルツに帰ってしまうわたしに、何ができる?
必死で思考を巡らせている間に、わたしは無表情になっていたらしい。オグランはわたしの真意を測りかねたのか、わたしの周りをぐるぐる回って表情を窺っていた。それもやがて諦めたのか、さっさと歩き始めた。
今朝は快晴。真冬とはいえ、園庭は冬の花が咲き乱れ、華やかだった。
旧王宮――イプサンドロス王朝が潰えたと同時に廃墟となった場所。時を同じくして、かつての首都も変遷した。
街から人が消え、建物は急速に劣化した。そうしてでき上がった廃墟街に、今は寄る辺のない少年少女、そのまま大人になってしまった人間が、身を寄せ合って暮らしている。
「そんなに同情しなくていいよ。今の暮らし、けっこう気に入ってるから」
歩きながら、オグランは言う。
「あんな穴だらけの街も、オイラにとっちゃ愛しの我が家。隙間風だって、みんな固まって毛布にくるまれば寒くもない。雨が降っても、穴の開いてないところに固まってれば濡れやしないし」
「……ハリケーンで、屋根が全部飛んだらどうするの。小さな地震でも落ちてくるわ」
「その時は――そうだなあ」
オグランは少し考えてから、にかっと笑った。
「みんなで一緒に粘土をこねて新しく、でぇっかい家を作るさあ」
自棄みたいな冗談、だけど本当に、彼らはそうするのだろう。それしか術がないから。
軽妙な足取りで、白壁の門を飛び出していく少年――笑顔で見送りながら、わたしは憂う。
「……新しく、でっかい家を、か……」
もし本当に屋根がなくなったなら、彼らは本当にそうするだろう。彼らは案外逞しい――そうするしか、生きるすべがないから。
人は、生きてさえいればいいわけじゃない。色んな生き方を選択しながら生きている。
わたしは彼らに、選択肢を与えたい。
……どうすればいいんだろう。
悩む。考える。検討する。
頭の中にある知識をすべて引っ張り出して検証する。
わたしができることはそれだけ、それがわたしの一番得意なことだから。




