青い瞳のサムライ
わたしは、アンジェロさんという人間のことをあまりよく知らない。遠い東の国、ミズホからの旅人で、カエデさんの従者――というくらい。
年齢も、ちゃんと聞いたことは無かった。ただわたしよりも十以上、キュロス様よりもさらに年上だというくらい。
キュロス様に睨まれても、彼は表情を変えなかった。
まばらに無精ひげの伸びた顎をさすって、ふわふわと笑うばかり。
「……男として、でござるか。よくわかりませんな」
「おまえはカエデを止めてやらねばならなかった。奴隷を買うなんてのはもちろん、夜のイプスをうろついたり、危険だとわかっていたはずだ」
「そうですな」
「なぜ止めなかった? いやそれで言うならルハーブ島での行動もだ。産業スパイでライバルの経営者に近づいたり、バルトアンデルス号に忍び込んだり、一歩間違えたら犯罪どころか命すら失いかねない、危険な行動ばかりだ。彼女のことを思うなら、力ずくででも止めてやるべきだっただろう」
「それを言うならミズホを出る時に、でござるな」
あっけらかんと言うアンジェロさん。
キュロス様の目がさらに鋭くなる。
「おまえはそれができたのか?」
「もちろん、やろうと思えば。カエデ様は才気あふれるお方であるが、肉体はそこいらの女子と何も変わらない。どれだけ抵抗しようとも、米俵のように担ぎ上げれば終いでござる。そのまま親方様のもとへ運び、座敷牢にでも閉じ込めれば、いかに狡猾なカエデ様とて脱出できるものではない」
「ではなぜみすみすと、カエデを海に出したんだ」
アンジェロさんは、今度こそはっきりと嘲笑した。聞き分けのない子どもに諭すように、ゆっくりと穏やかに、社会の常識を説くように話す。
「キュロス殿。主従関係に、性別は関係ないでござる」
「…………」
「拙者は男ではなく家来。カエデ様は女性ではなく我が主。拙者は、主の命令や選択に逆らいはしません。たとえそれが間違っていても」
「……彼女が危険な目に遭うとわかっていてもか」
「それもまた、カエデ様の選択にござる。このアンジェロは、カエデ様が往く路を影のように追従し、障害があれば身を挺してでも御護りする。ただそれだけでござる。 今までも、これからも」
青い瞳の侍は、そう言って自分の胸に拳を押し当てた。
彼の心臓は、カエデさんに捧げられている。だけどカエデさんは、彼の心は触れることができない――そう感じさせられた。
キュロス様は明らかに不満そうだった。きっと彼は自分自身の従者と、アンジェロさんを比べているのだ。グラナド城のみんなは、無条件でキュロス様を肯定なんかしない。キュロス様が暴走したらみんなで囲んで説教をして、それで聞かなければスリッパで引っ叩いてタックルで倒し縄でグルグル巻きにしてでも、キュロス様を諌めてくれるだろう。
彼らは従者であるより前に、キュロス様を慕っているから。キュロス様の家族だから。
本当にキュロス様に幸福になって欲しいから、 時には彼に逆らってでも彼のために全力を尽くす。それが、彼の中にある主従関係のモデルケースだった。
わたしも、彼らの関係が大好きだ。理想的だと思う――けど、あくまで理想だ。一般的に、従者は主に絶対服従。アンジェロさんの考え方が多数派だろうとわたしも思う。
今、キュロス様がしているのは理想の押し付けだ。
それはキュロス様も薄々わかっているのだろう。アンジェロさんにきっぱりと拒絶されて、もう何も言えなくなっていた。固く拳を握りしめながらも退くしかない。……そう、この主従関係に、わたしたちは無関係な部外者なのだから。
だけど……。
「アンジェロさん、ひとつだけ、わたしからも聞いていいですか。カエデさんの友人として」
「どうぞ」
「もしカエデさんが、もう自分に仕えなくていい……主従関係は解消すると言ったなら。あなたは、カエデさんのそばを離れてしまうのですか?」
「そうしろと、カエデ様が命ぜられたならば」
わたしの質問に、アンジェロさんは一瞬の迷いもしなかった。当たり前のように、ずっと昔から決めていたように即答する。わたしはズキンと痛む胸を押さえ、たまりかねて、ふたつ目の質問をしてしまった。
「あなたはどうして、カエデさんと一緒にいるの?」
この問いにも、アンジェロさんは簡単に答える。
「そうしろと、カエデ様に命じられましたゆえ」
もう何も言えない。自分のことのように悲しくて、酷く切ない。
……駄目だ、アンジェロさんは何も悪くないのに、彼を憎んでしまいそう。
わたしは立ち上がった。
「お答え頂きありがとうございます。ごめんなさいもうわたし行きますね。カエデさんを探さなくちゃ」
二人の返事を聞かずに医療室を飛び出していく。そして、カエデさんを見つけた。探すまでもなかった。
扉を開けてすぐのそばに、カエデさんは立っていた。壁にもたれかかり、天井を見上げてじっとしている。
「……カエデさん……」
「ああ……マリーさん」
彼女は微笑んだ。
「ごめんね。私、忘れ物……あなたに渡すものがあって」
明るく話しながら、袖のあたりをゴソゴソ探す。すると、手のひらに乗るくらいの小袋が出てきた。わたしに手渡しながら、笑い続けている。
「これ……結婚式の時、必ず着けて……仕事の契約なんだから、絶対だよ」
「カ、カエデさん、あの。アンジェロさんはきっと言葉通りの意味だけじゃなくて」
「じゃあよろしくねおやすみ、結婚おめでとう」
早口でまくしたて、カエデさんは踵を返した。小さな背中が遠のいて、さらに小さくなっていく。
わたしは小袋の口を開き、手のひらに中身を出してみた。
真珠のアクセサリーだった。いずれも天然真珠なのだろう、ブレスレットとネックレス。少しだけ形がいびつだけれど、怖いくらいに美しく輝く、大粒だった。
「きれい……」
呟いて、顔を上げる。と、視界に何かきらりと光るものが映り込んだ。カエデさんの走り去ったあとに、ポツリポツリ、足跡みたいに落ちている。まさか彼女、ほかに持っていた真珠を落としていったのだろうか――拾ってあげようと屈んで、光粒の正体を理解した。
涙の粒だ。
「カエデさん!」
わたしは顔を上げ、全力疾走でカエデさんを追いかけた。
ひとりになんてしてやるものか!
本人が邪魔だと嫌がっても抱きしめて、一晩中、一緒に泣いてやるんだから!
◇◇◇
その日の夜。
わたしたちは再び住処を男女に分け、それぞれの寝室で眠りに着いた。
ハレムにはいくらでも部屋が余っていたはずだけど、カエデさんはわたしの部屋で一緒にいた。かと言って同衾するわけではなく、カエデさんはティーテーブルにランプを置いて、一人で延々と晩酌をしていた。
「男なんてっ、男なんてみんな馬鹿だ、ゴミクズだ!」
なんだかまたカエデさんらしくないことを言いながら、延々と手酌を煽っている。
「この私を振るなんて、自分のことどれだけいい男だと思ってんだってぇ話だよ。頭に来るね。調子に乗ってんじゃないよ三十路男。何が侍だ。肌荒れするからって月代剃れないくせに。臑毛は濃いくせに」
「……あの、カエデさん」
わたしは耳に指を入れたまま、囁くように懇願してみた。
「あの……そのお気持ちは、とてもよくわかりました……ので、そろそろ寝ませんか?」
「なによ、マリーさんがこの部屋に連れ込んだんでしょうが。責任取って、私が寝るまで付き合いなさい」
「ごめんなさいごめんなさい」
「ほんっとあいつ、あのクソ家来、ちっとも言うこと聞かないし。お菓子買って来てって言っただけでも、太るでござるよとか言って微動だにしないでさ。疲れたからおぶってって言っても、持病の腰痛がゴホゴホとか言って急にむせ始めてさ」
「明日……明日聞きますから……」
「行くアテもなく乞食になるところでさ。恩返しに一生おそばにお仕えしますとか言ってさ。だったらちゃんと仕えなさいよ! 自分で言ったんだよ! 一生そばにいなさいよー!」
「……その話、十七回目で……」
「あのキュロス・グラナドも余計なお世話だわ、何が男として許せないだあんたみたいなとっちゃん坊やに心配される謂われはないのよバカバカバーカ馬鹿野郎ぉ!」
「……ううううもぉ勘弁してくださいいぃぃ……」
「マリーさんも! あなたちょっと惚れた弱みってやつで、旦那に甘いよ!」
突然こちらに矛先が向いた。
カエデさんは、酒瓶を片手に大股でこちらに寄ってくると、わたしの枕元に立ち、そのまま前のめりに倒れ込んできた。
突然の衝撃でもがくわたし。なんだかもうめちゃくちゃ、やりたい放題である。
「結局、あの男は育ちがいいんだよね、綺麗事ばっかり言って嫌になる。ワイルドなのは見た目だけ、中身はとんだ甘々だよマリーさんもどこがいいのあんなお坊ちゃん」
「キュロス様にはいいところしかないです。甘いんじゃなくて、優しいだけですし。逞しくて頼もしくて、時々可笑しなことするのも可愛いですし……」
「何言ってんの腹立つなあ。なんで失恋した日に惚気聞かされなきゃいけないわけ」
「カエデさんが聞いてきたんじゃないですかぁ……」
彼女はわたしの枕元でぐちぐちと不平不満を垂れ流し、盛大なため息をついた。……お酒臭い。
そーっと手を伸ばし、ほっぺたに触れてみると真っ赤っかのホカホカである。これは……飲みすぎだな。
わたしは体を少し後ろにずらし、開いたスペースをポンポン叩いた。
「カエデさん、もう寝ましょう。ぐっすり眠ればきっと気持ちもすっきりしますよ。それだけ泣いたんだから」
「泣いてない!」
鼻水を顎まで垂らしながらカエデさんは絶叫した。わたしはハイハイと彼女を抱き寄せて、サイドテーブルからハンカチーフを取り、洟をかませて、枕を半分譲ってあげる。
ぎゅーっと抱きしめ、頭を撫でてあげると、彼女は泣くのをやめてボヤきはじめた。
「ちくしょうちくしょう。私の何が不満なのよ。こんなに可愛くていい女なのに」
「そうですね。アンジェロさんは見る目がないです」
「あんな宿六、婿にもらってやろうって女はこの私くらいしかいないでしょうに」
「本当、もったいないことしてます。アンジェロさんはバカです」
「ほんとバカ、バカバカバカ」
「バカですね、バカバカバカバカ……」
言葉の調子に合わせてポンポンと、カエデさんの背中を軽く叩いていく。彼女の声が少しずつ小さくなってきた。
ゆっくり深呼吸して、カエデさんは低い声で呟いた。
「ちくしょう。絶対いい女になってやる。もっともっと女磨いて、理性なんかぶっ飛ぶぐらいセクシー美女になってやる」
「カエデさんは今でも十分、素敵な女性です。……でも、頑張って」
わたしは彼女を慰めるよりも、鼓舞をした。そうしたほうが彼女はきっと早くに元気になれるだろうから。
「いっぱいいっぱい頑張って、そうしていつかあのひとを、ギャフンでござるって言わせちゃいましょう」
「ギャフンでござるって? ふっ、ふふ、ふふふ」
何かツボにハマったらしい、カエデさんは肩を震わせて笑った。クスクス笑い声としゃくり上げる泣き声とが混じり合う。そしてどちらもだんだん静かになっていった。
――夜が終わる。明日は結婚式前夜。そして式の後は、数日とおかずにわたしたちはこの国を出る。
次にもしまた来れるとしても何か月……何年後になるかわからない。だからそれまでに、わたしができること、やり残したことを思い起こしながら、わたしは目を閉じた。




