痛い思いと切ない想い
カエデさんともまだ二言と三言しか話をしていないという、目覚めたてホヤホヤのアンジェロさん。
しかしわたしたちが駆けつけた時にはもう、ベッドの上で半身を起こし、穏やかに微笑んでいた。血を失ったせいか、さすがに顔色は白っぽくなっていたけれど、青い瞳には生気が戻っていた。
わたしたちが部屋に入ると、すぐにニコッと笑って片手をあげる。
「やあキュロス殿にマリー殿。おはようでござる」
「アンジェロさん……よかった、気が付かれたんですね」
わたしは彼に近寄ろうとしたけれど、すぐそばにカエデさんがいて、壁のようになっていたので立ち止まった。ベッドから少し離れた、客用の椅子に腰かける。
普段、アンジェロさんとあまり仲がいいと言えないキュロス様も、安堵の表情をしていた。そんなわたしたちに、アンジェロさんは朗らかに笑い声をあげた。
「なんだか大げさでござるなあ。確かに出血のショックで失神はしたが、それも初めだけだったでござる。あとはただひたすら眠いので寝ていただけでござるよ」
「嘘つけ、まる一日引っ叩いても反応もなかったくせに。ああいうのは睡眠じゃなく昏睡というのだ」
「はっはっは、これは手厳しい。しかしまあ、これから傷を治すための体力は戻ったでござる。これからは飲んで食って血を増やすのに努めれば、二、三日のうちに舞のひとつも踊れよう」
「……踊れるのか、舞」
「練習に十日ばかり時間をちょうだいしたい」
「それって結局、何日後に観れるんだ?」
「ふざけてるんじゃないよ!」
和やかな会話を打ち破ったのは、カエデさんの悲鳴じみた叫びだった。
「アンジロウ、あんた目覚めて早々キュロスたちを呼んでくれって言うから、この私が呼びに行ってやったのに。それで話したかったのはそんなこと? 雑談なら、私とすればいいじゃないの」
「カエデさん」
カエデさんに伸ばした手は、野良猫みたいに引っ掻かれた。
反射的にしたのだろう。わたしが思わず悲鳴を上げると、「ごめん」と謝ってくれた。
「……心配してくれてありがとう、わざわざ呼びつけてごめんよ。だけどもう出て行ってくれる?」
理性的な言葉を、震える声で呟く。
「お願い、アンジロウと少し二人きりにして……」
そう言われたら、もちろん無理に居座るつもりはない。
わたし様は目配せをし、すぐに立ち去ろうとしたけれど、アンジェロさんがそれを引き止めた。
「いえ、拙者の話はこれからです。恐れ入りますがカエデ様、しばらく我々を三人きりにしていただけますか」
「な――私に出ていけって言うの? 何で」
「カエデ様には関係無い、内緒の話があるからでござるよ」
にっこり笑って言う。カエデさんは口をパクパクさせて絶句した。主がそんな状態なのを一瞥もせず、わたしとキュロス様に席を勧めたその上で話を始めない。カエデさんが出て行くのを待っているのだ。
――ドンッ! ……と、カエデさんが壁に拳を打ち付けた。
「どうして? アンジロウは、私のものなのに……」
アンジェロさんは答えない。苦笑いのようなものを浮かべて、カエデさんに頭を下げた。
「申し訳ありません、カエデ様。家来にもプライベートの時間というのはあるでござるよ」
カエデさんは無言でもう一度壁を殴りつけると、部屋を飛び出していった。
思わず追いかけようとしたけれど、アンジェロさんに止められた。彼の話したいこと……というのは切羽詰まったものらしい。カエデさんの足音が聞こえなくなると、すぐにわたしとキュロス様に向き合って。「まずは」と深く一礼した。
「お二人に心より感謝を申し上げる。キュロス殿が駆けつけてくださらなければ、拙者は命を落としていたかもしれぬし、最悪、カエデ様が攫われていたかもしれぬ。感謝をしてもしきれない」
自分が命を失うよりも、主が攫われることの方が最悪なのか。
「マリー様にも、感謝と謝罪を申し上げます。せっかくのハレの席に、水を差すような事件を持ち込んでしまいお詫びの言葉もない」
「とんでもないわ。それより身を屈めるのはやめて。そこ、傷口じゃないですか?」
「なんの、武士の辞書に『傷が痛む』という言葉はござらん」
「落丁本だろその辞書、回収した方がいいぞ」
キュロス様が容赦なく言い捨てた。
「前置きの社交辞令はいい。それより、俺たちに話したいこととはなんだ?」
「……単刀直入に申し上げます。この事件の犯人たちを追わないで頂きたい」
「えっ――?」
わたしは息を吞んだけど、キュロス様は何か察するところがあったようだ。特に驚いたようすもなく、ただ一応の確認というようすで理由を問う。アンジェロさんは目を細めて、優しく、絵本でも読むような口調で話を続けた。
「拙者を刺したのは奴隷……カエデ様が買って、三日間ほど連れ回した少年でござる。先に襲ってきた強盗もその仲間でござろう。どこでどうつながったのかまでは知らないが……」
「その通りだ。ガイドのオグランとも旧知の仲だった」
キュロス様がそう言っても、アンジェロさんは表情を変えなかった。
きっともう、その可能性を考えて――いや確信していたんだわ。アンジェロさんは誰よりも、この事件の全貌を理解しているみたいだった。
そのうえで彼らを許そうとしている。自分を刺した人間まで……どうして?
困惑しているわたしに、アンジェロさんは明るく笑った。
「奪われた荷物に関しては心配無用、貴殿らの結婚式に使うという、特製の真珠飾りは無事でござる。あれは別の包みに分けて、肌身に離さず隠し持っておりましたゆえ。きっと今はカエデ様がお持ちかと」
「そ、それよりアンジェロさんが――あなたは大怪我をしたんですよ。下手をすれば命すら危うかったのに!」
「はは、なんのこれしきかすり傷。ミズホで腹切りは日常茶飯事です」
包帯の上から腹をポンと叩き、「あイテでござる」とおどけるアンジェロさん。どこまで本気で言っているのか分からないけれど、「それならよかった」で済む話じゃない。わたしは身を乗り出して追及した。
「犯人が子どもだからですか? 彼らが可哀想だから、アンジェロさんは犯罪を許そうとしているの?」
「いいえ。奴隷売買は違法だから、でござる」
アンジェロさんはそう言った。
「拙者も外国の法律は詳しくない。ゆえにカエデ様が奴隷を買い取ってから、やっと情報収集を始めました。それによると、奴隷市場での人身売買が当たり前にあったのは戦前まで、現在そういった施設は取り潰され、もし商売をしている者がいれば、業者も購入者も裁かれる。もちろん名を変え、手を変え品を変えて似たようなものは現存するでしょうが、定期的に監査が入り、やはり厳しく処分されています」
「では犯人を捕まえて尋問したら、カエデが逮捕されてしまうから、と」
キュロス様の問いに、アンジェロさんはまたも首を振った。
「逮捕はされないでしょう。オグラン少年が案内してくれたのは、おそらく本物の奴隷市場ではなく、彼らもまたそうでない。カエデ様が雇ったのはあくまで小間使い、観光ガイドと荷物持ちでござる」
「だったらどうしてカエデを庇う?」
「カエデ様自身がそう思っているからです。真実はどうあれ、カエデ様は違法と理解して市場へ行き、奴隷を買った。悪いことだとわかっててやったのです。それなのに、被害者面をさせてはカエデ様の倫理観教育によろしくないでござるからなあ」
うんうん頷きながら話すアンジェロさん……そのようすは何と言うか……とても大人で。 カエデさんの忠実な家来というよりも、兄か。父親のように温かかった。
対して、キュロス様は明らかに機嫌を損ねた。普段は甘く垂れた緑の目で、ぎろりと鋭くにらみつける。ほとんど尋問するみたいに、アンジェロさんに詰め寄った。
「それでは、カエデには己の奴隷に反逆されたと誤解させておく、ということか。恐怖と罪悪感を持たせるために」
「その通りでござる。そして二度とこのようなバカなことをするまいと教訓にしてもらえれば、拙者が血を流した甲斐があったというもの」
……それは……アンジェロさんの犠牲が大きすぎる気がする。何より、カエデさんは絶対にそんなこと思わない。
だけど、彼の言葉からは覚悟がひしひしと伝わって来た。アンジェロさんは、安っぽい同情とか優しさとかじゃなく、信念を持っている。
「申し訳ござらぬキュロス殿。マリー殿にとっても彼らは新婚ウキウキ気分をぶち壊した憎き敵で、とっ捕まえて市中引き回しのうえ打首獄門にしたいところは山々でしょうが……」
ベッドの上で、彼は深々と頭を下げた。
「どうかこの小林杏侍郎の切腹に免じて、ご容赦いただけませんか。せめて結婚式が終わり、カエデ様がイプサンドロスを後にするまでは」
……殺されかけたアンジェロさんが、犯人を許してくれと懇願している。
部外者であるわたし達に、これ以上何が言えるというの?
わたしとキュロス様は無言で顔を見合わせ、頷いた。
「わかりました。世話役のひとたちにも口止めをしておきます」
「おお、ありがたいことこの上なし。心より感謝を申し上げ候」
アンジェロさんは心から満足そうに頷き、再び深々と頭を下げた。
これで、用事は終わりらしい。できることならもう少し、アンジェロさんの元気な声を聞いていたかったけど、まだお腹に穴が開いている彼に無理をさせるわけにはいかない。
それに……部屋を追い出されたカエデさんが心配だ。相当怒っていたものね。どこかで大暴れして旧王宮の貴重な壁画が瓦礫と化していたりして。
想像すると本当にありそうで、わたしはゾッとしながら立ち上がった。
「それでは長居するのも何なので、これで失礼いたしますね。代わりにカエデさんを呼んできます」
去りかけたところをキュロス様に「待て」と制された。
「アンジェロ、俺からひとつ言いたいことがある」
「ふむ、なんでござろう」
「おまえの行動は間違っている。男として、俺はおまえが許せない」
アンジェロさんは一瞬だけ、驚いたように目を丸くして、それからすぐに苦笑した。
暖かな微笑みではなく、嘲るような笑みだった。




