苦い思いと甘い思い
オグランは、彼らが逃げた先を知らない。宿舎に帰っている可能性は高かったけど、その場所へ案内することは拒否し続けた。わたしたちも無理に尋問はしなかった。アンジェロさんやカエデさんから話を聞けるようになればわかることなので。
その時までは監禁を、ということで、牢に入れることにした。ここは旧王宮、当然罪人を入れるための牢があるだろう――と思ったが。
「それらしい場所は封鎖されてて、入れなかった。ほかに外鍵をかけられる個室はここだけだったので、ここに入っといてくれ」
「こ、こんな、キラキラした牢獄があるかっ!」
宝物殿の中、金箔で輝く壁に囲まれて、オグランは悲痛な声をあげていた。
だって本当に、ここが一番ちょうどよかったんだもの……。
そうしてひとまずオグランを投獄したものの、これで手詰まりになってしまった。暗闇の中、キュロス様は相手の顔も見ていないのだ。オグランを拷問するわけにもいかないし、警察への証言は、ミズホの二人の回復を待つしかない。
……とはいえ、まんじりともせず時間を浪費するわけにはいかない。わたしたちにも、やらなければならないことがある。
すなわち、二日後に控えた結婚式だ。
「気分的にはアレだが、今更中止するわけにいかないからな……」
「……ここまで働いてくれた世話役のひとたちや、ケマル夫妻にも申し訳ないですしね。気分的にはアレですけど……」
キュロス様と二人、レースで造花を編みながら、ぼそぼそとひとりごとみたいな会話をする。
これは披露宴会場の飾りつけに使うもので、必要不可欠ではないがあればあるだけ良いという。本来、世話役の女性たちが手が空いた時にする雑務である。だけどわたしもキュロス様もやることがないので、お願いして仕事を分けてもらったのだ。
「……何もすることが無いと悪いこと考えちゃいますからね。……何かしてても考えちゃいますけど」
「それでも、マリーと一緒に過ごせるようになって嬉しいよ。……緊急事態だからな」
「わたしもそれ思ってました。怪我の功名ってやつですね。……怪我したのわたしじゃないですけど」
「まあ、あいつのことだ、すぐ元気はつらつになって、また鬱陶しくなるだろう。たぶん」
「そうですよね、きっとカエデさんもいつものように明るい彼女に戻るでしょう。たぶん」
……ため息の数だけ、造花の数が増えていく。
キュロス様はわたしよりも器用なので、正面にはもう高々と造花の山ができていた。
彼って、基本的に何でもよくできてしまうのよね。今、暇を持て余しているのもそのせいだ。花嫁と同じく花婿も、世話役の男性たちと相談しながら招待客のリストチェックとか、引き出物や食事の確認とか、式までにやるべきことが色々あったはずだった。だけど従来、数百人の従者を抱える城の主であり、王都周辺の治水と中央市場を管理している伯爵位、そして国一番の大商家をまとめ上げている貿易商がこのキュロス・グラナドという御人。持ち前の状況判断と決断力で、あっという間に完了させてしまったらしい。「やることがない。早く仕事がしたい」とぼやいていた。
わたしのほうも、式の準備は着々と進んでいる。ドレスもヴェールも決まったし、段取りもばっちり予習済み。あとは世話役の女性たちにお任せあれ、ということで、特にやることはもうなかった。
「はあ……」
二人のため息が重なった。
……ヨクナイ。これはヨクナイ。わたしはキュロス様に、いっそ思いっきり話し合ってみることを提案した。溜め込むよりは良いと思って。
彼も了承してくれたので、思いの丈をぶちまける。
「奴隷市場だなんて、びっくりしました。まさか現代も、そんなものが存在しているとは」
「あれはオグランの嘘だがな。しかし、貧しい人々……特に幼い子どもが、まさに前時代の奴隷のごとく、人権の無い暮らしをしているのは事実」
「イプスは身分制度が無い国なのに、どうしてこんなに貧富の差があるの? 幼いうちから働いて、食べるのに精いっぱいだなんてあんまりだわ」
「身分制が無いからこそ、だな。生まれた場所から移住もできなかった時代と違い、誰でも、どんな仕事もできるようになった。逆に言えば、経営者は各自の能力を見て、雇うかどうかを選べるようになった……そして、劣る人間は落ちぶれた」
「人は、それぞれ持って生まれた能力に上限があります。向き、不向きも。劣っているならば教育を授け、向いていないようならば合う仕事を斡旋してあげるとか、もう少し優しくあれないのでしょうか……」
「このあたりは、イプスが発展しているからこその暗部だな……働かざる者食うべからず、努力を評価されるからこそ、実力のない者は問答無用で迫害される。怠け者の自業自得とみなされるんだよ」
「……悲しいです。強盗だって、もしちゃんとした教育を受けられたなら、まともな仕事に就けたでしょうに……」
呟きながら、目元が潤んだのを慌てて拭う。
うー、なんだかわたし最近、涙腺が弱いのよね……情緒不安定というか、感傷的と言うか。前からだったかしら。
キュロス様も苦々しい表情で、また大きなため息を吐いた。造花の茎に、ピンクのリボンをぐるぐる巻きながら、
「貧しい夫婦は、子ができても育てられない。幼いうちから働かせるか、孤児院に預ける。その子が育って、やがて貧しい大人になる。……どこかで連鎖を断ち切れたらいいのだがな」
ちょきん、とハサミでリボンをカットする。
「……グラナド商会で、雇用してあげるわけにはいかないでしょうか」
「オグラン少年くらい賢く有能で、戦力になる子ならな」
キュロス様はきっぱりと言い切った。
「あの子ならこっちからお願いしたいくらいだ。ちょうど、俺がこの地に来るまでもなく、買い付けの目利きと交渉ができる人間を、イプスの支部に置けないかと考えていたところだし」
「全員は、無理ですよね」
「……グラナド城の、フットマンで良ければ、連れて帰ってやれる。だがきっと、彼らは来ないよ」
キュロス様は目を閉じ、嘆息した。
「少年たちにとってディルツは、言葉も知らない遠い国。恐ろしくて、船に乗ろうとしないだろう……」
「……ですよね……」
「それに、今いる子だけを削り取るように救っても、解決にはならない。この国の仕組みが変わらない限り、来年、再来年にまた同じ境遇の子が生まれるだけだ」
……ううう。難しい問題だなあ……。
アンジェロさんを傷つけた犯人のことを知り、真っ先に覚えたのは怒りよりも、悲しみだった。
罰を与えたいという気持ちもある。だがそれよりも、少年たちを助けたい。
これはきっと、わたしが善人だからではない。彼らに同情――いや同調しているのだ。自分に似ている、と。
幼いうちから一所懸命働いて……同じ年ごろのほかの子は、綺麗な格好で楽しそうに過ごしていた時。胸に渦巻くのは嫉妬ではなく諦め。憎しみではなく自責だった。
わたしが姉より汚れているのは、わたしが愛されていないから。愛されるに値しないずたぼろだから。わたしが醜く、役立たずで、見るに堪えない存在だから――そうしてどんどん自分のことが嫌いになった。
それが当たり前になった。逃げようなんて考えもしなかった。どこへ行っても、わたしがわたしである限り同じだと信じて疑いもしなかった。
目の前に差し出された手を、自ら拒否して逃げ出した。
幸せになることが怖かった。
それでもキュロス様は投げ出さず、手を伸ばし続けてくれた。そうして助けられた今――同じく、闇の中にいる子どもたちを憂う。
助け出してあげたい。あの頃のわたしに、キュロス様がしてくれたように。今度はわたしが他人を幸せにしたいと思う。
……異国の地にいる、数百人の子どもたちを救いたい……。
キュロス様は、わたしの考えていることに気付いていただろう。だけど甘やかしてはくれなかった。何も言わず、黙々と作業を続けている。わたしの願いは傲慢で、分不相応なワガママだからだ。キュロス様には護るべきものがある。わたしにもやるべきことがある。まずはそこから。善意だけでは人間を救えない。他人を助けたいなら、自分の足元を固めてからだわ。
わたしがやるべきこと――できることは、何かないのだろうか……。
思い悩んでいるうちに、いつのまにか手が止まっていたらしい。レースの上で強張った指を、キュロス様は軽く握って、悪戯みたいにくすぐった。
「ちょっと、休憩しようか。お茶でもどうだ?」
「……あ……そうですね。そうしましょう」
「チャイを淹れようか。ミオほど上手くないけど」
「ありがとうございます、頂きます」
思わずちょっと笑ってしまいながら頷いた。キュロス様、お茶を淹れてくれる時なぜか毎回その「ミオほど上手くない」を言うのよね。ご本人は気付いていないみたいけど、口癖なの? なんだろう、グラナド城に帰った時に、ミオやウォルフガングに聞いてみよう。
クスクス笑いを隠しながら、茶葉を薫らせるキュロス様をぼんやり眺める。その手付きに危なっかしいところはない。
完成したのは、シナモンとジンジャー、ミルクも入れた濃厚なチャイ。イプサンドロスの中でも南東部、キュロス様のルーツとなった地方の飲み方だ。チャイにもいろんな茶葉、飲み方があるけれど、わたしはこれが一番好きだった。
「美味しい……ミオが淹れてくれるのと同じくらい」
「そうか? 良かった」
キュロス様は嬉しそうにしていた。
一杯飲み干したところで、わたしは大事なことを思い出す。
「そうだキュロス様、お茶菓子はいかが? わたしバクラヴァを持ってるの!」
「バクラヴァ? それなら大好物だが……」
「良かった! 実はあのオグランから買ったのよ、港町のホテルで、翌日一緒に食べようと思って、そのまま機会を逃していたの。世話役にふるまうには数が足りなかったし」
「それは嬉しい。ではお代わりのチャイは砂糖抜きだな」
わたしが急いでハレムに戻り、バクラヴァを鞄ごと持って戻るまでに、キュロス様はお菓子用のプレートを並べていた。心なしか手付きがウキウキしている。わたしはさっそくバクラヴァを二つずつ並べる。
いくつものパイ生地を重ね、シロップに漬けたイプスのお菓子……わたしたちは顔を見合わせ、「せーの」でフォークを差し込んだ。
――パリパリッ。
んんっ、良い音!
冬場なら常温でも日持ちするあたりで想像していた通り、蜜でしっかりコーティングされており、硬い手ごたえ。さてそのお味は。
小さな一かけらなのにずっしり重い、蜜が滴るバクラヴァをフォークに乗せて……。
「んんっ……?」
一口で、脳天を突き抜ける衝撃!
パイ生地なのにサクッとはせずカリッと硬い。内部の層にも甘いシロップがひたひたに浸みこんでおり、粗みじんのナッツはピスタチオとクルミのミックス。こちらは蜂蜜に漬けこまれているらしく、柔らかく舌触り滑らかで、口の中でとろけるように消えていく。
こ、これはっ……!
「あッ、甘ぁあい……っ! けどっ」
「美味いっ!」
キュロス様が叫び、フォークを持っていないほうの手をバタバタさせた。わたしもコクコク頷いて悶絶する。
「ええ、本当に美味しいわ。ちょっと、かなり、びっくりするほど甘いけど」
「イプスのお菓子は大体全部甘い。バクラヴァは控えめで大人の味って言われてるくらいだぞ」
「こ、これで……⁉」
「ディルツのお菓子はシンプルなのが多いからなあ」
わたしが一口目の余韻、あるいはダメージを消化しきれていない間に、キュロス様は一つを完食、二つ目にフォークを刺していた。どうやら一口で食べているらしい。サイズ的には文字通り一口サイズなんだけど、わたしにはちょっと、甘すぎ……いえ本当に美味しいんだけれど、一口で消化できる甘味の上限というものが……!
「――うっ?」
それは突然やってきた。わたしは口元を押さえて席を立つ。部屋の隅にうずくまり、ハンカチーフを口に当て、なんとか吐き戻すのはこらえた。
わたしよりも驚いたのはキュロス様だ。よほど慌てたのか、バクラヴァの刺さったフォークを持ったままわたしの周りをグルグル回って、「どうした大丈夫か⁉」と大騒ぎする。
「だ、いじょうぶ……ちょっと、食べなれない甘さに、お腹がびっくりしたみたい……」
「そ、そんなことってあるのか? いや待て、そういえば少し瘦せたんじゃないかマリー。三日会ってないうちに、肩が薄くなったような気がするぞ⁉」
……そういえば……世話役たちとご飯を食べていて、時々なんだかフォークが進まない時があった。イプス料理が口に合わないのかと心配されたけど、そんなことは全然なく、どれも美味しいとは感じるので不思議である。
なんでだろう……?
ぼんやりしているわたしに対し、キュロス様は顔を青くして、本気で心配そうだった。
「イプサンドロスに来て痩せるなんて異常だぞ、俺なんて行きと帰りで服のサイズを分けて持ち込んでいるのに」
「あはは、それはキュロス様が食べすぎですね。大丈夫……ああむしろ、美味しすぎるから少しで満足してしまうのかも。わたし、長年粗食に慣れてますし」
「そうなのか? 満足しているならいいが、痩せてしまうなら心配だ。世話役に薬湯を作ってもらおうか。いっそ街へ戻ってちゃんとした医者にかかって……完治するまで式も延期して――」
わたしは首を振った。
大丈夫、これは、病気じゃない。なんとなくそんな確信があった。
「問題ありません。だから、大騒ぎしないで。予定通り結婚式をやりましょう。今度こそ、中断なんてさせてはいけない。やっと辿り着いた、またとない機会ですもの」
キュロス様はまだ心配そうな顔をしながらも、一応は納得したようで、ティーテーブルの席へと戻った。手に持ったままだった、バクラヴァに向かって大きく口を開け、
「――アンジロウが起きた‼」
突然、飛び込んできたカエデさんの絶叫に、空振りした歯が「がちん!」と鳴った。




