奴隷の矜持
その夜、奴隷市場を見学したいと言うカエデさんに、オグランは驚き、それから苦笑した。
「今の時代、そんなのあるわけないじゃん」
――と。これは真実だった。
イプサンドロス帝国は滅び、厳しい身分制度も崩壊してはや五十年。王宮に居た奴隷たちも解散し、各々、自分の故郷へと帰って行った。ほとんどはもう墓の中だ。
だが彼女は「ないはずがない」の一点張り。そして見物して、話を聞きたいと懇願してくる。オグランはしばらく首を傾げていたが、途中でふと、これはオイシイ話かもと考えた。このお嬢様、奴隷を買ってこき使うつもりはなく、ただ話が聞きたいだけだと主張するのだ。ただ話すだけなら誰にでもできる……。
オグランは交渉した。
「悪いけども、話す、ってのも労働だぜお嬢さん。労働にはちゃんと対価を払わないと」
「まあ、心づけくらいはするつもりだよ」
「そうじゃなくて、ちゃんと身請けしなきゃ」
「奴隷を買えってこと? ……私は旅の途中だよ、知人の結婚式が終われば故郷に帰るの。手荷物は増やしたくない」
「だったらその時に『返品』すればいい。イプサンドロスで結婚するなら、何日間かは準備にかかるはず。その間じっくり話も聞けるだろ?」
オグランの熱心な説得に、カエデさんは納得し、彼の案内に従った。
彼女を連れて行ったのは、華やかな港町から徒歩で数刻。旧市街地……王朝と共に滅びた廃墟街だった。港町は実入りがいいが、家賃が高い。『屋根と窓のある家』に住めない人々、主に孤児や定職のない若者たちが身を寄せ合って暮らしている。
オグランはまだ十四歳だけど、誰よりも仕事の口があり、自立していた。七つの時に亡くなった両親は知識階級で、学習の機会に恵まれていたからだろう。だが多くの子どもは読み書きもできないまま、その日暮らしを余儀なくされる。大人になっても、数字の計算ができなかった。
オグランはそんな彼らに、できるだけ稼ぎのいい仕事口を紹介していた。その日の食事のみならず、明日のぶんまで得られるように。
「オイラ、あのお嬢様をすぐに連れて行きはしなかったよ。お嬢様の言う、奴隷購入の予算が破格すぎた。いったい何をさせるつもりだと思ったからさ。もし危ないことをさせるつもりなら、紹介なんかしなかった」
「……話を聞きたいだけ……カエデさんは、奴隷から何を聞こうとしたのかしら?」
「それオイラも聞いたけど、よくわかんなかったんだよ。なんか――奴隷としての矜持とか、主人をどう思っているのかとか。もし、もう仕えなくていいって言われたら嬉しいか悲しいか、とか」
キュロス様が不機嫌そうに眉をしかめ、腕を組んだ。
「なんだ、その質問。そんなこと聞いてどうするつもりなんだ」
「そう聞いても『あんたに関係ないでしょ』って怒られた。でも紹介したやつ……ガルスって名前なんだけど、そういう主従関係で雇われたことなんかないからさ。適当に、奴隷みたいに酷い扱いされた経験で回答してたよ。思い出すだけで反吐が出るとか、殺してやりたいとか」
「……その時の、カエデさんの反応は?」
「特に何も。『ふうん』とか頷きながら、ほかにも色々と聞いてた。けど飽きたのか、一日もせずに何も話さなくなってたな」
「…………そう」
カエデさんの心境を察して、わたしは目を伏せた。
キュロス様は、気付いていないのかな。わたしのようにふさぎ込むことはなく、オグランの話を促していた。
「それで、用済みだってすぐに解放せず、この四日間連れ歩いてたのか?」
「うん。まあちょっとした用事とか荷物持ちとか言いつけられてたけど、そんなもんだった。それより三食美味しいもの食べさせてもらって、宿もお嬢様と同じグレードの部屋で、こんなにオイシイ仕事は初めてだって喜んでたよ。それで――」
オグランは途中、言葉を詰まらせた。ゆっくり、一度深呼吸をして、大きく息を吐く。
「……四人で楽しく過ごしているところを、別の仲間に見られた。夜中にオイラたちの部屋を訪ねてきて、いったい何の仕事をしているんだって聞かれて。事情を説明したら、強盗計画を提案されたんだ。人気のないところに呼び出して、三人がかりで……って」
「おまえ、さっき自分は共犯じゃないって言ったじゃないか」
「だからっ、オイラは断ったんだよ! もうひとりまで乗り気になっていたけど、止めたんだ。絶対に捕まる、死刑になる、分の悪い犯罪だからやめておこうって必死で二人を説得した。あのふたりもそれで、わかったよって納得してくれて――だけど――それが嘘だったみたいで……」
オグランはそこまで話して、また言葉を止めた。奥歯を噛み締め、じっと……拳を握って黙り込んでしまう。
「……馬鹿なんだ、あいつら」
わたしたちもただ見守って、続きを待つ。オグランが再び口を開いたのは、ずいぶん時間が経ってからだった。
「……あいつら馬鹿だから。だから、こんなことをしてでも稼がないと、死んじゃうんだ……」




