【閑話】瑞穂の約束①
その日、私は泣いていた。
「おかあさん……おかあさん……!」
涙がとめどなく溢れ、頬を伝って、畳に落ちる。そうして私はもう二か月、亡母の部屋に閉じこもっていた。かすかな母の残り香に縋り、ひたすらずっと泣いていた。
……よくもまあこんなに涙が出続けるものだと、父も呆れていた。父にとって母は、子を産むためだけの女で、弟ができた時点で興味を失くしていた。だけど私にとっては唯一の母、一緒に暮らしたのはたったの七年間。まだまだ母が愛しくて、彼女の死を受け入れることすらできなかった。
「おかあさん……どうして逝ってしまったの? 私、おかあさんのこと大好きなのに。どうして私を置いて行ってしまったの。どうして……」
泣きじゃくる私の背中を、大きな手がポンと叩いた。
「もう泣かないでください、お嬢」
ポン、ポンと、赤ちゃんを寝かしつけるみたいにゆっくり叩く、温かな手。
「御母堂はお嬢を置いて行ったのではありません。少しだけ先の未来へ行って、お嬢を待っているだけです」
「……待ってる……?」
意味の分からない言葉に思わず涙を引っ込めて、振り返る。するとそこには、海の色をした優しい目があった。髪の色はお日様と同じ、きらきら光る黄金色。私よりも十ほど年上の、貴央院で働く下男だった。確か名前は……杏侍郎。
水浸しの目で見つめると、彼は「はい」と笑顔で頷いた。
「俺も、今のお嬢より幼い頃に両親を失くしてしまいました。少し寂しい気持ちはありますが、頼もしくもあるのです。いずれ俺もそこへ行った時、独りきりじゃない。一足先に到着していた両親が、俺のためにふかふかの布団とあったかい飯を用意していてくれる――と。そう考えると、寂しくも怖くもなくなるのですよ」
「……何を言ってるの?」
私は眉をひそめた。彼の言葉は、本当に意味が分からなかった。
私はまだ七つ――されどもう七つ。本当は、人の死を理解している。ただ行き場のない悲しみを消化できなかっただけだ。そんな御伽噺で慰められたいわけじゃない。
水浸しの目でぎろりと睨むと、彼は困ったように眉根を寄せた。
「ううむ、そう睨まれましても、これ以上に気の利いた言葉はありません。さっきも言った通り、俺が親を亡くしたのは物心か着くかどうかの幼い頃。死や別れを悲しむどころか顔も名前も曖昧で……」
杏侍郎は腕を組み、しばらくウーンと唸って考え込んでいた。そして不意に、ぽんと手を打つ。
「そうだ、こうしましょう。これからは俺があなたのおかあさんになります」
「……おかあさんに?」
ぱちくり、瞬きをする。とたんに大粒の涙がぼろぼろっと零れ落ちたけど、そんなことよりも彼の言葉が気になって仕方ない。身を乗り出した私の頬を、着物の袖で拭いながら、杏侍郎は頷いた。
「ええ、おかあさんです。亡き御母堂の代わりに、俺があなたの手を引いて、浜の散歩に付き合います」
「……おんぶ……疲れたら、おんぶもしてくれる?」
「もちろん。おんぶでも抱っこでも、高い高いでも、お馬さんごっこでも」
「お馬さんは、おとうさんの仕事だから要らない」
きっぱり言うと、彼は大きな声でハハハと笑った。
「承知しました。ならばお館様が都入りしている間に、俺が馬になりましょう。握り飯と香の物をこしらえて、川を下り峠を越えて、都まで参りましょう」
「都へ? 杏侍郎が私を、都へ連れて行ってくれるの?」
私が問うと、杏侍郎はふんわり笑って頷いた。青い瞳に私の顔が映っている。私は涙を引っ込めて、代わりに満面の笑みを浮かべた。杏侍郎の目、海の色をした優しい目に、泣き顔を映したくなかったのだ。
私が泣き止むと、杏侍郎も嬉しそうに大笑いして、私をぎゅっと抱きしめた。それから両脇の下に手を入れると、天井近くまで持ち上げた。そのままくるくる回ってくれる。
すごい、こんなに高い景色って初めて! 私はきゃあきゃあと歓声を上げて、はしゃいでしまった。
ひとしきり大騒ぎしたら、腹の虫がグウと鳴った。杏侍郎はすかさず厨房へ行き、お菓子を取ってきてくれた。私が好きな茶葉を聞き、急須に入れて持ってきてくれる。ちゃっかり自分のぶんも淹れた杏侍郎とふたり、亡母の部屋でくつろいだ。いつも食べているお菓子とお茶だけど、その日はとびきり美味しく感じた。
どうしてだろう、不思議だねと話すと、杏侍郎はさもありなんと頷いて、
「空腹は最高の調味料。それだけ、しばらくまともに食べておられなかったんでしょう」
「……そっか……」
私はすんなり納得して、杏侍郎が注いでくれたおかわりまで、ゆっくり味わいながら飲み干した。
お腹が温まると、とろりとした眠気が私を襲った。見るからにウトウトしていたのだろう、杏侍郎は押し入れを開き、布団を畳に敷いた。掛け布団をめくって、『中へどうぞ』と導く。私は吸い寄せられるように入っていった。
目を閉じて、深呼吸する。母の布団は、おかあさんの匂いがした。同時にほんのわずかに混じる他人の匂い。私は目を開いて、横を向いた。
杏侍郎がそばにいた。布団のすぐそば、畳に肘枕をついて寝そべっている。私はなんとなく、掛け布団をめくって『中へどうぞ』をしたけれど、彼は黙って首を振った。
仕方なく、私は再び目を閉じて……手だけを出し、彼の指を握った。
「……杏侍郎。さっきの、約束……やっぱり、いい。おかあさんもお馬さんも要らない」
「えっ、どうして?」
杏侍郎は理由を問うたが、それには答えなかった。代わりに新たな要望――いや、命令を出した。
「杏侍郎は、侍になって」
「……さ、さむらい⁉」
素っ頓狂な声を上げる杏侍郎。彼が驚くのは仕方ない。生まれた家で就ける職業が定められているこの国で、侍になるには相応の家に生まれるか、剣豪として都にまで名を轟かせるしか手段は無い。まして杏侍郎は異人の孤児、城勤めどころか、藩主の許可なくしてはこの土地から出ることもできない。
さすがに無理なものは無理と固辞する彼に、私も首を振った。
「どこかの御殿様になんて仕えないで。杏侍郎は、私の侍」
「お嬢の……?」
「そう。私だけに仕える侍。ずっと一緒にいて、私を護るの」
杏侍郎の指をきゅっと掴む。彼の指は思いのほか太く、力仕事で硬くなっていた。おかあさんとは違う――それが、初めての感情を私の中に生み出した。母代わりではない、父にも似ていない。友人と思えるほど知らない、だけどその手を離しがたい男。私が望むままそばにいて、不意にいなくなったりなんて絶対しない、私だけのひと――それが、幼子の語彙だと『侍』になったのだ。
杏侍郎はしばらく無言で、私の真意を量っているようだった。
……考えてみれば、この時の彼はまだ十代半ば、子どもの扱い方も、女心もろくに理解していなかったのだろう。それでも彼なりに解釈したらしい。添い寝を辞めて起き上がり、正座をして居住まいを正した。何かを決意した表情で、頭を下げる。
「畏まり申した。拙者、これより楓様の侍。唯一無二の家来として、あなた様に生涯お仕えつかまつり候」
……なんだか変な言葉で言う。
幼い頃に貴央院家に拾われて、ずっと下働きをしていた彼には、大した学がない。私以上にあやふやな印象のまま、侍の真似をしてみたのだろう。私は笑って、布団から跳ね起きた。
「本当? 本当に、ずっと私のそばにいてくれる?」
「本当に」
「本当に? 本当の本当に?」
「ええ、本当の本当の、本当に――今日から拙者は、楓様だけの侍でござる」
そう言って、彼は両手を広げた。わたしはいよいよ布団を蹴っ飛ばして、彼の胸に飛び込んだ。
「約束だよ!」
「ええ、約束でござる」
「私の侍、ずっと一緒だよ。私のこと置いて行っちゃ駄目よ」
私を抱きしめて頷く杏侍郎。
……なんだか勢いで、とんでもない約束をさせてしまった――けど。
あの時の、彼の言葉は嘘じゃなかった……と思う。
実際、それから八年もの間、彼は私の侍だった。私は彼を信じていた。
このままずっと一緒にいるのだと思っていた。ずっと――ずっと――。あの別れの日まで。
血の匂いがする。閉じた瞼の裏に、杏侍郎の背中が映っていた。
命令しても、泣いて縋っても遠ざかっていく。もうとっくに見えなくなっても、私は罵るのを辞めない。
許さないよ、ずっと一緒にいるって言ったのはあんただもの。
ありえない。死ぬなんて許さない。逃がさない。今度こそ――もう二度と、私を置いていかせない。
「……逝かないで……杏侍郎」
雪のように白く、血の気が引いた杏侍郎の手――血の匂いしかしない、冷たい掌に頬を擦りつけて、私は彼に命じ続けた。




