ルナティック・ムーン【後編】
前・中・後編の後編です。
……心臓の鼓動がうるさくて、眠れない。
わたしはもう数時間も、ベッドの上で悶々としていた。
夜這い……キュロス様が今夜、来るかもしれない。三日ぶりに会えるかもしれない。
そう思うと、とても寝つけはしなかった。
――思えば、この王宮に来るより二日も前から、キュロス様は体調が悪く、ろくに会話もできていなかった。
それが不満だとか不安だとか、彼にがっかりしたなんてことはない。だけどやっぱりちょっと、寂しかった。
念願のイプサンドロス上陸、目に見えるすべての物への感想を、彼と共有したかった。
この旧王宮だってそう。ハレムのレリーフを一つ一つ指さしながら、すごいね美しいね これはなんだろう素敵だねって、はしゃぎながら一緒に探索をしたかった。
寂しい。会いたい。話がしたい。触れあいたい。
「……抱きしめられたい」
言葉に出すと、全身が震えた。わたしは自分の肩を抱き、ぎゅうと思い切り握ってみた。だけど足りない。わたしの手は女性としてはかなり大きいけれど、彼の手は、もっと大きいから。
肉厚な掌と骨ばって長い指、すんなりと細く見えるけど、触れてみるとどきりとするほど太くて力強くて。わたしの肩を抱き寄せる時、怖いくらいに力強くて、潰されてしまうんじゃないかと怖くなるくらいで――だけど決して傷つけないよう、気遣っているのも伝わって、それが嬉しくて。
暖かくて優しくて、大好きな手。キュロス様の、あの手が欲しい。今すぐに。
わたしはベッドを抜け出した。
イプサンドロスの冬、ディルツより気温は高く雪も降っていなかったけど、湿度と風があり、凍えるほどに寒い夜。
それでもわたしは躊躇なく外へ出た。寒さはちっとも感じなかった。
旧王宮は、現在誰の住処でもない。ひとが生活をしている明かりは一切なく、所々、ガス灯がぼんやり灯っているだけだった。
お世辞にも視界が良いとは言えない中、わたしはフラフラとハレムを出て、君主の私邸 ――キュロス様の眠る本殿へと向かう。すぐ隣同士にあるとはいえ、施設は広く建物自体が巨大だ。わたしは足を速め、月明かりにぼんやりと浮かび上がる宮殿へと急いだ。
月明かりに照らされて、石の白壁が近づく――その時。
正面から、こちらに人が向かってくる。
シルエットだけでも、背の高いひとだとわかった。男性の平均並みに背丈のあるわたしが見上げるほどに。
うなじで括った長い黒髪と褐色の肌は、夜闇に呑まれていたけれど、緑の瞳は禍々しいほどに輝いて、彼の正体を明らかにしていた。わたしはすぐに彼の名を呼んだ。
「キュロス様」
「マリー」
彼もわたしの名を呼んだ。
それ以上は何も言わなかった。
どちらからということもなく、同じ速度で距離を縮める。手が届くようになると、すぐに繋いだ。
冷たくなったわたしの指を握り、キュロス様がグイと引く。わたしは躊躇なく、彼の胸に飛び込んだ。ぎゅっ……と、音がするほど強く、わたしたちはお互いを抱きしめあった。
話したいことがたくさんあったのに、呼吸すらも忘れてしまった。
ただ抱きしめあい、存在を確かめるように背中を撫でる。わたしたちは身を寄せ合い、体温を共有した。そのまま静かに唇を重ねる。二度、三度、酸素だけ補給して、何度も重ねる。
……おかしいよね、わたしたち。
心の中でキュロス様に話しかける。
不思議なの。わたしたち、ほんの一年前までお互いのことを知りもしなかった。それでも平気で生きていた。
だけどいつからか、彼は大切な存在になった。
ディルツを出てからの船旅で、わたしたちは毎日ずっとそばにいた。手を繋がなかった日はない。それで十分以上満ち足りているつもりだったけど、大きな間違いだったのだ。
わたしはまだまだ不足している。もっともっと、自分の中にある隙間をすべて彼で満たしたい――彼をわたしの中に取り込みたい。
「抱きしめて。もっと強く……もっともっと強く」
自分も彼を緊縛しながら懇願する。
キュロス様はわたしの願いを聞き入れて、わたしの体を潰さんばかりに抱きしめた。肺が圧迫され、呼吸が乱れる。それが嬉しい。
このまま潰れて、粉々に砕かれてもいい。彼と一つになりたい。
「マリー……マリー……」
キュロス様の声は、まるで泣き声みたいに低く掠れていた。それがなんだかとても嬉しくて、切なくて、わたしも彼の名を呼ぼうと口を開き――。
突如。
闇を劈く絶叫に、わたしたちは振り返った。




