俺はマリーに甘えたい……?
俺はベッドに寝転がり、天井に描かれた、壮大なレリーフを眺めていた。
ここはかつての主寝室。俺が知るどの要人貴賓室より大きく広く、豪華な部屋だった。見渡す限りすべての壁、柱、天井、に至るまで、贅の限りを尽くした空間に、絶対君主という言葉の意味を実感させられる。
ディルツ王国最大の城塞グラナド城の主であり、国一番の大富豪と言われるこの俺でも。さすがにここまでくると尻の座りが悪い。緊張すると言うよりも、げんなりするといったほうが近いが。
「さすがに天井まで文様が埋め尽くしているのは、目がちかちかしてくるな……」
目頭を押さえて呻いた。
……確かに、なるべくイプサンドロスの伝統に則った式を挙げたい、と、手紙に書いたのはこの俺だ。費用にも糸目は付けない、とも。
だが――いくら何でもはりきりすぎだろおじいちゃん!? せいぜい豪華なイプス料理やドレス、場所も国有数のモスク程度だろうと高を括っていた。それがまさか、旧王宮を丸ごと貸し切りだなんて! 一体いくらかかるんだ!?
豪華なのは部屋だけでなく、かつての君主の私邸だったらしい、建物全体に及んでいる。俺でさえ眩暈がするのだから、あの質素倹約が骨身にしみているマリーなど、今頃失神してるんじゃないだろうか。
マリーは今、離れの離宮、元ハレムの女性宿舎に泊まっている。行きがけにちらとだけ建物を見たが、あちらもなかなか荘厳な造りのようだった。
……俺は中に入れないから、わからないけど。
そう、あちらは男子禁制。式当日までの七日間、花嫁はそこで女性の世話役に囲まれて、本番に向け準備をするらしい。具体的に何をするのか知らないが、結構忙しいそうだ。
つまりそれは、新郎新婦が式当日まで別れて暮らすということで。すなわち、これから七日もマリーに会えないということになる。
俺は頭を抱えて、呟いた。
「無理だ。死ぬ」
ただでさえ俺はおとといから体調を崩し、マリーとは会話すらろくにしていない。俺の中の必須栄養素マリー成分が枯渇しかかっているのに、あと七日……絶対保たない!
俺は跳ねるように置きあがり、外套を羽織って部屋を出た。
旧王宮は町一つ分はいるほど巨大な施設だが、ハレムの建物はすぐ隣だ。日も暮れかけ、闇に紛れて移動できる。
「どうにか短い時間……せめて顔を……いや扉越しに声を聞くだけでも……!」
「――どこへ行く?」
後ろから不意に、鋭い声と咳払い。
慌てて振り向くと、そこに祖父が立っていた。俺は努めて冷静に回答する。
「いや、別に。ちょっと王宮を探索でもしようかと思ってな」
「何も日が暮れてから行くことはあるまい。それにもうじき夕食だ。明日の朝にしなさい」
「……わかった」
仕方なく素直に退く。この捕捉速度……さては部屋の前で張ってたな?
祖父は元教師ということもあり、厳格な男だった。彼を出し抜くのは容易ではない。俺はとりあえず、今夜は諦めることにした。無難な話題に切り替える。
「さすが旧王宮、たいしたものだな」
「ああ。本来ならこの日々は、夫婦それぞれの生家を使うのだがね。花嫁さんはこの国に縁者はいないというし、ならばいっそ式場も兼ねて、最高の部屋で過ごせばいいと思ったのだ」
さらりと、夕食のメニューを決めたかのように言うケマル。俺は半眼になった。
「それで旧王宮を、という発想がすごい……というか、実際よく貸し切りになんてできたものだな? 金を積めばいいってもんじゃないだろう」
「いやいや、この時期は大きな催事も無いし、そうそう借り手がつくものじゃない。それに、施設管理の局長はわしの昔の生徒でな。利用料もちょいと負けさせておいたよ」
「おじいちゃんの顔の広さと、準備の良さには感服だよ」
祖父は目を細めるだけの微笑みを浮かべた。
「なあに、隠居した年寄りの暇つぶしだ。何かしとらんとボケる。祖父孝行のつもりで、なんでも任せてくれ」
それから、夕食までもう少し時間があるとのことで、祖父に誘われ散策することにした。
本殿の周辺をぶらぶらと歩きまわる。来た時は扉の前まで馬車を着けたので実感が無かったが、改めて歩いてみると本当に巨大な敷地だ。グラナド城とディルツ王宮を足したぐらいの広さがあるか。ゆっくり見物していると二、三日はかかってしまいそうである。
「――花嫁さん、綺麗なひとだな」
広間のレリーフを眺めながら、祖父はニヤニヤ笑って言った。
「二、三年前だったか、リューのやつが手紙で零しておったぞ。息子はいい年齢になったのに女っ気がなく、困っていると」
「……余計なことを」
「もしかしたら将来、伴侶として男性を連れて行くかもしれないけどびっくりしすぎて死なないでね、とも書いてあった」
「本当に余計なことをっ……!」
「初対面、思っていたよりも可愛らしくて心の底から安心した」
「そりゃそんな想定してればどんな女性でもそう思っただろうよ」
とりとめのない雑談をしながら散策するうち、ハレムの近くまで来てしまった。
……かつて君主が懇意の女性を数百人、住まわせていたという巨大な閨。今は巨大な宿泊施設として使われているが、かつては君主以外の男性立ち入り禁止、まさしく女の花園だった。
そんなことを考えながら建物を眺めていると、なんとなく背徳感を覚えてくる。
ハレムの女性達は、王妃とは違う。現代のファーストレディのように政治の場に出ることはなく、夫婦らしい共同生活すらもなく、ただひたすらに君主の慰めと跡取りの出産のためだけに囲われていた。身分差もなく、近隣友好国の王女や貴族令嬢から、奴隷市場で買った村娘まで、同じ建物で共同生活をしていたらしい。
……グラナド城にも、似たような『妻の部屋』があった。戦前、女性の人権が脆弱だった時代……ハレムの女は恵まれていたのだろうか。
ぼんやり見つめていたら、ケマルがゴホン、と咳払いした。
「キュロス。花嫁の部屋を訪れるのはまかりならんぞ」
「……別に今、忍び込もうなんて思ってなかったぞ」
「式までの一週間、花嫁側は色々と準備があるが花婿はさほどやることがない。暇に任せていやらしいことを考えてしまうのも仕方がないが」
「考えてないって」
「花嫁のほうは何かとやることがあって忙しい。今日一日くらい我慢せい」
「だから違――一日じゃなくて一週間だろっ!」
そんな馬鹿騒ぎをしながら、元の部屋へ戻った時にはすっかり日が落ち切っていた。新郎の世話役が待機しており、食事が運び込まれて来た。贅の限りを尽くした宮廷料理、というわけではなくイプスの一般的な家庭料理である。祖父も一緒に食べながら、雑談を重ねた。
祖父とはイプスに来るたびに顔を合わせてはいたが、長話したことはほとんどなかった。祖父自身が言っていた通り、ケマルは顔が広い。イプサンドロスの情勢にも詳しくて、貴重な話が聞ける。祖父と孫というよりはビジネスパートナーとしての付き合いだ。大体グラナド商会の水夫や従業員がいたしな。
だから初めて、俺は祖父に、自分の家族の話をした。
グラナド城での暮らし、リュー・リューや父アルフレッド公爵のこと。結婚式のことマリーのこと。
一通り聞いてから、祖父はぼそりと呟いた。
「花嫁さん……綺麗なひとだな」
先程と同じ言葉だが、違う声音。俺はうなずいた。
「ああ。綺麗で、可愛い妻だよ」
「おまえが乞うたのか」
「相思相愛の恋愛結婚。でも惚れこんだのは俺からだ」
「不安かね、キュロス」
祖父は静かにそう言った。五十年間、教師をやっていた男の慧眼だ。俺はごまかさず、苦笑いした。
「……実は彼女、少々複雑な育ちでね。ずいぶん良くなったんだが、まだまだ謙虚過ぎるところがあるんだ」
マリーは城に来たばかりの頃からは別人のように明るく、元気になった。だが根深いところにある傷までが完璧に癒えたかなんてわからない。
俺は夫として、マリーを支えていく。そのために、俺は心強くあらねばなるまい。……どんなことがあっても揺るがない、完璧な、強い男に。
音が鳴るほど握りしめた拳――その手首を、祖父が握った。翁にあるまじき握力で、骨がきしむほど強く。
「気負うな、小僧。それは驕りだ」
「……驕り?」
「八十年生きた男から見れば、お前だってさほど変わらん。ヒヨコの尻に殻がついているかいないか程度の差だ」
「わ――わかってる。俺は未熟だ。だからこれから」
「違う。妻は護るものではない、共に歩んでいくパートナーだと理解しろ」
祖父に握られた手首が軋む。これは折檻だと気付き、俺はそのまま受け入れた。
「完璧な人間などおらん。強いだけの男もおらん。弱いだけの女もいない。助け合いながら共に育ち、そして共に育てて行きなさい。お前の家庭はこれから生まれていくんだから」
……ケマルおじいちゃんの言葉が胸に深いところ突き刺さる。
いや違う、ずっと刺さっていた棘のようなものが、スッと溶けて無くなったのだ。
「……これから、ともに育てる、か」
マリーは、確かにまだ不安定なところはある。だが強くなろうとしている。俺以外にも大切なものをどんどん増やし、逞しく生きようとしている。彼女がいなくなったら立てなくなるのはこの俺だ。そのことに……本当はとっくの昔に気がついていた。
それではいけない、こんな弱さをマリーには絶対悟られてはならないと思ってきた。
だが……もしかしたら、それで良かったのかもしれない。素直に伝えるべきだったのかもしれないな。
俺は未熟で弱い男。こんな俺だから、マリーを心の支えにさせてほしいと。
これから本当の強さを手に入れて、家族を守っていくために。




