結婚式場へ
――とはいえ、男性であるお父様をベルばぁばのいる車室に入れることはできない。仕方なく、お父様は御者席に座ることになった。ディルツよりはマシとはいえイプスも真冬、お父様が風邪でもひいてはいけないので、おなかに猫を抱っこさせ、大量の毛布でぐるぐる巻きにしておいた。
そうして事なきを得て、やっと馬車が出発。キュロス様の馬車はもう、まったく見えなくなってしまった。
イプサンドロスの大通りは、ディルツ王都と違い馬車鉄道は敷かれていない。やわらかい地面に轍を刻みながら、馬車はゆっくりと、人が歩く速度で進んでいた。
わたしは窓から顔を出し、イプスの街を眺めて過ごす。
イプサンドロス国内でも有数の都市部で、道に人通りが途切れることはない。
通行人よりも行商人のほうが多い。道端に座り込み商品を広げている者もいれば、馬車を追いかけながらずっと「安いよ、買ってよ!」と呼び掛けてくる者もいた。
そのうちの何割かが、十にも届かないような、幼い子どもだった。
向かい席に座るベルばぁばに話しかける。
「イプスの商家では、幼い子ども含めてみんなで働きに出るのですか?」
ベルばぁばの、ふっくら優しい顔が曇った。
「いえ……普通は大人の男性、父親だけが働いて家族の暮らしを支えるわ。仕事は少なくないから、普通の市民なら飢えることはめったにない」
「では、彼らは?」
「彼らはきっと孤児。幼いころに親や家を失って、学校にも行けず、働く術を学ぶ機会も得られなかった……そんな子達よ」
――だから彼らは街に出て、小銭を稼ぐ。どれだけ幼くても、今日食べるものを得るために……。
「彼らがどこでどうやって寝起きをしているのか、私は知らない。かつて王都だった旧市街地、廃墟に身を寄せ合って隠れ住んでいるという噂があるけど……私は近付くこともできないから」
「旧市街地……遠いのですか?」
いいえ、と首を振るベルばぁば。
「旧市街地は港町のすぐ近く、子どもの足で歩いて行ける場所にある。だけど治安が悪いからと、特に女性は、馬車から降りることができないの」
ベルばぁばの悲しい声を聞きながら、わたしは窓の外を見た。
舗装されていないイプスの道では、馬車はスピードを出すことができない。ゆっくりゆっくり、人の波を掻き分けるようにして進んでいく。
「買って、買って! 釣りたての魚だよ! 三匹買ってくれたらオマケでもう一匹、いや二匹つけるよ!」
商品を掲げながら馬車を追いかけてくる少年たち。
わたしは、一時の同情で買ってあげはしなかった。だけど耳をふさぐことも目を閉じることもなく、彼らの顔を記憶に刻んでいた。
そうして道を行くこと数時間――お昼をいくらか回った頃。
可愛い孫とその花嫁のため、ケマルさんが押さえてくれたという結婚式場に到着する。
そしてわたしはあんぐりと口を開け、しばらくその場で立ち尽くしたのだった。
◇◇◇
わたしが『結婚式』に臨むのは、これが初めてではない。
まずはシャデラン領で、村人が婚姻をした時。学校の近くにある小さな教会、もしくはそれぞれの自宅で執り行う。わたしは事前の掃除や料理など、お手伝いに駆り出されていた。
式本番を見たのは、先日の姉の結婚式。ディルツ王都にある教会で、三十人入れば満席というくらい。婚約式と違い、粛々と神前で誓いを挙げるだけの結婚式はそれだけ入れば十分なのだ。わたしとキュロス様の式も、元々はそこで行われる予定だった。つまり私の中での結婚式場というのはそのくらいのサイズ感で定着していた。
しかし、「着いたよ」という号令とともに、馬車から降ろされたのは、視界いっぱいの巨大な扉。その周辺は白い石壁。視線を左右どちらに振っても、果てしなく続く壁。見上げても壁。ずうっと壁。
さらに目を凝らせば、壁の向こう、遠くのほうに尖塔らしき屋根が見える。どうやらこの白壁は、門らしい。建物本丸はこの壁の向こう――白亜の宮殿に、はためくイプサンドロス共和国の国旗。
「待って。ここって……王宮じゃないですかっ!?」
「ええ、そうなのよぉ」
ベルばぁばは朗らかに笑っていった。
そう――わたし達の結婚式場、として案内されたのは、『イプサンドロス帝国』の王宮だった。百年以上前、まだこの国がひとつの統治国家だった時代。君主の住居であり、行政も執り行われた歴史的建造物である。
現代と違い、君主の地位が絶対的だった時代の王宮……そのサイズと豪華さは、『途方もない』の一言。グラナド城の図書室にあった分厚い図鑑にも、「その全貌をこの一冊で書ききることは不可能」と割愛されていた。
こ……ここで? こんなところで結婚式を挙げるって……!?
ぽかんとしているわたしに、ベルばぁばはやはりにこやかに軽く語る。
「といっても、帝国は解体されてしまったからねえ、今はもう誰も住んでいないの。ここは今、国際会議とか大きな催事とか、特別な儀式のために開放されているの」
「で、でも、でも。その……入場無料っていうわけじゃ、ないですよね……?」
「さあどうかしら、お金のことは私、あんまり。キュロス君が払ってくれるから大丈夫って主人は言っていたけど」
「で、で、でも、キュロス様もこの場所を使うとは思ってなかったのでは!? キュロス様は確かにすごくお金持ちだけど、さすがに高額すぎるのではっ!?」
「さあどうかしら、お金のことは私、あんまり」
ああああああ帰りたい、今すぐごめんなさいして帰りたい!
頭を抱えたわたしの服を、後ろにいたお父様が、ちょいちょいと引っ張った。わたしと同じくらい、不安そうな顔である。
「今、式を中止すると言ったらキャンセル料がかかるのか……?」
「た、たぶん……」
「もしグラナド商会が破産したら、うちに借金が来るということは、ないよな……?」
「さ、さすがに破産までは。でも本当にいくらくらいするのかしら……」
血の気を引かせている貧乏男爵父娘を置いて、ベルばぁばはニコニコ顔のまま、城門へ近づいて行った。警備のひとに会釈をしてから、わたし達を振り返る。
「ここは『帝王の門』。王宮の入り口ね。この先には第一の庭という、とても素敵な花がいっぱいの前庭があるの。ここまでは国のお祭りなんかで時々開放されるから、私も入ったことがあるわ」
確かに、巨大な門をくぐると、一気に視界が華やいだ。足元には石畳の道が敷かれており、その左右に花壇がいっぱい。――はるか遠く、正面に見えるまた巨大な門扉は見えなかったことにして――可愛らしい花畑になごんでいると、視界の端に、西洋風の建物が見えた。あれは……もしかして教会? 姉が式を挙げたところによく似ている。
わたしが尋ねると、ベルばぁばは頷いた。
「そう、西洋の教会よ。この国では帝国時代からずっといろんな国の文化が入り混じっていたからね。あなた達と同じ神に祈った君主もいたのでしょう。音楽がよく響いて、とても素敵な教会なのよ。小さくてとても古いけれど」
「アッじゃあ、わたし達の結婚式はそこで?」
一抹の期待を込めて聞いたけど、ベルばぁばの微笑みによってあっさりと否定された。
「さあ、次の門をくぐりましょう。ここから先は、王族の家よ」
もう何の言葉も発さず、わたしと父はしめやかに、ベルばぁばに続いて進んでいった。
意味もなく足音を忍ばせて――靴を脱いで裸足で歩いたほうが良いのかなとも考えつつ、おっかなびっくり歩きながら、わたしはこの建物の構造を把握していった。
王宮は、ディルツ王城のように本殿を持たず、数多くの小さな建物と庭園を集めた、まるで街のような施設だった。
第一の庭園の突き当りには、先ほどの門よりも一回り豪奢な『挨拶の門』なる壁があり、くぐった先は巨大な広場になっていた。
帝国当時はここに臣下が列を成し、君主に様々な進言をしたという。いわば、行政の会議室だろう。
広場を囲む建物は臣下たちの執務所、いくつもの離宮は武器庫や宝物庫。
そしてもうひとつ、ひときわ大きな棟があった。ベルばぁばはそこを指さしてから、歩き出す。
「あそこが後宮。君主の奥さんたちが暮らしていたところよ」
「奥さん達――帝国は一夫多妻制だったんですね。何人くらいいたのかしら」
「正確な記録は残っていないけど、一番多い時で四百人と言われているわね」
「よんひゃくッ!?」
思わず声がひっくり返ってしまった。
ひええ。古今東西、側室をたくさん持っていた王は珍しくないけれど、その数はすごい。
「ハレムには身分の違いというのが無いの。隣国の姫もいたし、奴隷出身の娘も多かったそう。美しくすらなくて、とにかく数が欲しかったと言われているわ」
なるほど。血縁で王位を継いでいく以上、世継ぎの候補は多いほうが良い。君主にとって妻はパートナーではなく、世継ぎを産ませるためと割り切っていたのだろう。
もしかして使用人のように粗末な扱いだったのかしら――と思ったが、ハレムの内部は豪華絢爛。目が眩むほど豪華なレリーフと調度品が飾られていた。
部屋のひとつを覗いてみると、高い天井に巨大なシャンデリア。木製の家具には複雑な飾り彫りが施され、壁には美しい文様が描かれている。部屋全体が絵画のようで、まるで夢のような空間だった。
これは……すごい。
グラナド城の貴賓室も絶句するほどに豪華だったけど、君主のハレムはもはや人間の住むところとは思えない。だって天井にまでびっしりと絵が描きこまれているのよ。あんな高い天井にどうやって描いたのかしら。こんなところでわたし、眠れるのかしら!?
――いや、弱音を吐いてはいられないわ。
ベルばぁばはこれから式に向けて色々と準備をすると言っていた。なにか花嫁修業をするのかしら? そういえばイプスは家庭料理がとても発展していて、奥さんは料理スキルが必修らしい。課題料理を上手く作れるまで嫁入りできない、なんてルールがあるのかも。
あるいは言語。わたしはイプス語はまだまだ未熟で、畏まった場面での言葉や、逆にもっと砕けた表現もよくわからない。完璧にできるまで勉強させられるのかも。
いいえもしかしたらダンス……本で見た、イプサンドロスの伝統的舞踊……通称「へそ踊り」を、結婚式で披露するのかもしれないわ!
ああっそうだとしたらどうしよう!? わたしにできるだろうか。ルハーブ島での水着姿だって、心臓がひっくり返るぐらいドキドキしたのに。あれと同じくらいの露出で、さらに蠱惑的なダンスを人前で踊るなんて――いや、恥ずかしいなんて言ってられない。もともとダンスの才能なんて皆無のわたし、もじもじしている場合じゃないわ 必死で練習しなきゃ!
よし……頑張ろう。このすさまじい部屋に寝泊まりさせていただくのだから、それに見合う努力をしなくちゃね。
改めて強く拳を握りしめるわたし。その出鼻を挫く、残酷な一言が後ろからかかる。
「それじゃあ、花嫁親族であるお父様は、この部屋で過ごしていただいてね。マリーさんが過ごすのはもう少し奥、『皇后の間』よ。次期皇帝を産んだ母后の部屋なの」
と、連れて来られたのは先の部屋より倍ほど大きく、金銀財宝の飾られた一室。
わたしは膝から崩れ落ちた。ああ……わたしの心がパキパキと、雲母を握りつぶすような音を立てて折れていく……。
「それじゃあもうすぐ世話役の女性たちが来るからね。それまでゆっくりくつろいでいて」 「あのぉうぅぅ」
震える声で呻くわたしを、ベルばぁばはニコニコしたまま振り返る。反対にわたしは顔面蒼白になり、絶叫する。
「何か――何か仕事を、勉強を……わたしに何か労働をさせてください!」
「はい……?」
ベルばぁば心底不思議そうに首を傾げたのだった。




