馬車の中にて
気を取り直して、わたしがお二人にご挨拶する。
「初めまして、マリー・シャデランと申します。リュー・リュー様にはとても良くしていただいています」
「マリーさん! 可愛い名前ねえ、私はベルばぁばよ。よろしくねぇ」
ベルばぁばは再びわたしの手を握り、ぶんぶん振って大歓迎。だけど、御主人のほうはただ黙って立っているだけだった。代わりにキュロス様が紹介してくれる。
「この二人が俺の祖父母、リュー・リューの両親だ。夫の名前はケマル、妻の名前はリュー・ベル。二人ともイプサンドロス人で、ケマルは学校の教師をしている」
「へぇ……」
思わず感嘆の声が漏れる。教師……なるほど、それらしい。だけどリュー・リュー夫人のお父様と考えると意外な職業だ。物心ついたころから歌や踊りが大好きだったというから、ご両親のどちらか、あるいは両方が、音楽関係に就いているのかと。
キュロス様の紹介に、ケマルさんはムッと眉を寄せた。
「わしを何歳だと思っとる。教師などとっくの昔に引退したわ」
「未だに元教え子を集めて、いろいろ教えてるって言ってなかったか?」
「あんなもの仕事ではない、ボランティア、いや老後の暇つぶしだ。頼ってくるから答えているまで」
機嫌の悪い声で言い捨てる。
ベルばぁばはこれ以上なく明るくて、気さくな雰囲気だけど、ケマルさんは少し気難しそう。年齢に反してまっすぐ伸びた背筋によく通る低い声、高い鼻や精悍な眉は、リュー・リュー夫人にはあまり似ていない。いやキュロス様には似ている?
そう思うと親近感がわいてくる。リュー・リュー夫人の子どもの頃の話も聞いてみたい。
それに、イプサンドロスの教育にも興味深かった。ディルツ国内でも何人か、イプス出身の人に会うことができたけど、彼らは例外なく渡海できるだけの資産持ち。富裕層の子として生まれ、高等教育を受けて渡海してきた一部の層だ。もっと普通の……貧しい市民として生まれた子ども向けの学校は、どんな作りになっているんだろう?
いろいろと聞いてみたい! できれば校舎を見学したい。図書館なんかも行ってみたいな!
わたしは話しかけようと前に出た――けど。ケマルさんは視線も合わせず、背を向けた。
「キュロスよ、式場の支度は済んでいる。さっそく案内しよう。乗りなさい」
……あれ? なんだか今わたし、無視されたような……。
降りたばかりの馬車にさっさと乗り込むケマルさんと、そのあとに続くキュロス様。もちろんわたしもすぐに乗ろうとしたが、目の前でバタンと扉を閉められる。
……あれっ?
すぐに窓が開かれ、中からキュロス様が顔を出した。
「す、すまん説明不足だった! 気を悪くさせたよなごめんなこれ意地悪じゃないからな!?」
早口でまくしたてられて、なんとも答えられないわたし。キュロス様が話している間に馬に鞭が入れられて、馬車は進み始めた。
「イプスの結婚式は新郎新婦は当日まで別々の場所で過ごす、基本的には会話も禁止で、もっと正確に言うと男女で分かれて――ちょっとおじいちゃん馬車止めて――ぁあああっ!?」
と、話しているそばから馬に鞭が入れられて、馬車は出発してしまった。キュロス様の声と、窓からはみ出した黒髪が尾を引いて遠くなっていく。
うそっ!? どうして? わたし、置いて行かれた!?
慌てて駆けだそうとしたところを、肩を掴んで止められた。ニコニコ笑顔のベルばぁばである。
「心配しないで、置いて行ったりしないから。あなたはこっち、私と一緒の馬車で行くの」
「ど……どうして?」
「どうしてって? あなたの国では違うの?」
なんとも答えがたく黙ってしまう。
だってわたし達、今から結婚式に臨もうとしているのよ。それなのに移動の馬車が別々で、式までもう再会できないなんて。
今日この日に至るまでの紆余曲折、すれ違いの日々を思い出す。やっと穏やかに夫婦になれると思ったのに、また引き裂かれる……!?
血の気がすうっと引いていく。とたん、ベルばぁばにぎゅっと抱きしめられた。
「ああ可愛い子ね、そんなにさみしそうな顔をしないでちょうだい。大丈夫よ、行先は同じ場所。ただ過ごす部屋が違うだけなのだから」
「あ……そ、そうなんですか。でも、なぜ」
「イプサンドロスの男女はね、実の親子と夫婦以外、同じ部屋で過ごすのを良しとされない文化があるの」
あ――なるほど。
わたしは頭の中の辞書をめくり、異国の知識を検索した。結婚まで男女が交わってはいけない、という教えは、古今東西珍しくない。多くは宗教上の教えだけど、信仰心の薄いディルツでも、娘に婚約者が決まったら花嫁修業として生家で軟禁生活をさせたり、輿入れまで修道院に入れたりする。そして結婚後も妻は家事と育児に従事し、ごく狭いコミュニティより外に出ることはない。
とはいえ戦後、多くの国で色んなものの意識が変わってきた。特に東西の文化が入り乱れるイプサンドロスでは、先進的な考え方のひとが多いと聞いていたのだが――。
「もちろん、普段からずっとっていうわけじゃないわよ。だけどキュロス君から、お嫁さんはイプスの文化がとても好きなんだと聞かされてね。ケマルったら喜んで、由緒正しいイプサンドロス伝統の式にしてやるって張り切ってしまったの」
そう言って、ベルばぁばはクスクス笑った。
「ごめんなさいね。花嫁さんとはまだお喋りできないから、あんな態度だったけれど、家ではもっとフニャフニャしたひとなのよ」
老夫婦は、結婚して五十年くらいだろうか。老婦人は夫のことを、とっておきの宝物みたいに話してくれる。その笑顔を見て、わたしの中にあった不安やさみしさがすうっと引いた。
そうか……そうよね。今、もうすでに婚姻の儀式は始まっている。
こうして男女分かれて馬車で行くのも含めて、イプサンドロスの結婚式なんだわ。
わたしはもう何の不安もなく、ベルばぁばとともに『女性用』の馬車に乗る。そうして先に行ってしまった馬車、キュロス様のいる『男性用』を追いかけて――。
……ん?
そのまま角を一つ曲がったところで、わたしは思い出した。もう一人、男性の連れがいたことを。
「お父様!」
ベルばぁばにお願いし慌てて引き返すと、お父様はやはりホテルロビーの暖炉の前、ずたぼろを始め野良猫をたっぷり膝にのせて、身動きが取れなくなっていた。
「遅い! もしかして置いて行かれたかと思ったぞ!」
「ごめんなさい、置いて行っちゃいました!」
わたしは素直に謝った。




