【閑話】 育った環境が違うから
じんじんと疼くような頭痛地獄から、俺がやっと生還できたのは、夜も更けてからのことだった。
どうやら結構な時間、眠っていたらしい。おかげでやっと二日酔いが引いたはいいが……貴重な一日を、まるごと無駄にしてしまうなんて……。
俺は額に手を当て、大きく嘆息した。
ここはホテルの部屋だろう。暖炉はずいぶん前に燃え尽きたらしく、部屋は真っ暗で、室温もかなり冷え込んでいた。俺はベッドの上で仰向けになっていた、が、後頭部がなんだかあったかい。
すぐに枕の正体がマリーの太腿だと気が付いた。マリーは俺に膝枕をし、ベッドのへりに腰かけた状態で、こくりこくりと居眠りしていた。見上げると視界一杯にマリーの寝顔。俺はしばらく楽園を堪能した……が、マリーの安眠に負担をかけていると気付き、慌てて身を起こし、彼女をベッドに横たえさせる。
穏やかな寝顔を見下ろして、俺はもう一度、深いため息をついた。
「……まったく、自分が情けない……」
室内を見回すと、ティーテーブルの上に一人分の食事が置かれていた。俺が目覚めた時に食べられるように、マリーが夕食を取り置いてくれたらしい。豪華なイプサンドロス料理が所せましと並べられている。
……この食事だって、出来立てをマリーと一緒に食べたかった。きっとマリーも、俺と会話をしながら楽しみたかっただろう。
もう何度目か分からないため息をついて、俺は髪を搔きむしった。
ここイプサンドロスには、彼女との結婚式を挙げるため――神前で婚姻を結び、正式な夫婦となるためにやってきた。その入港初日に……。
――と、いつまでも頭を抱えていても仕方ない。失態は後悔ではなく行動によって挽回する。これからは一層気を引き締めて、結婚式完遂まで――いや一生涯を添い遂げるまで、マリーが何の気苦労もなく頼れる夫であり続けよう。
俺は自分の頬をバシバシ叩き、「よしっ」と気合を入れ直した。
明朝には使者がやってくる。彼らに失礼のないように、体調を万全にしておかねばならない。夕食をちゃんと食べて、もう少し睡眠も取っておかねば。
ホテルスタッフに言って、温かい飲み物をもらおう――と、部屋を出る。
港町で最高級のホテルである。グラナド商会ほどでないにせよ、豪商や上級貴族が使う宿だ。建物は大きく、そのぶん、ロビーまでの距離がある。俺たちの部屋は最上階、四階を取っていたのでなおさらだ。
夜闇の中、点在するガス灯の淡い明かりを頼りに慎重に進む。フロアのちょうど中央当たり、階段ホールに、知人が居た。
二人とも俺に背を向けていたが、あの特徴的すぎる衣装は、間違いない。
極東の島国、ミズホの女商人カエデとその従者アンジェロ――と、もう一人。イプサンドロスの民族衣装を纏った……少年?
「じゃあ、商談成立だな」
イプスの少年が機嫌のいい声で言う。イプス語ではなく、ミズホの二人にも通じるスフェイン語だ。
「契約期間中、付きっ切りで通訳とガイドをしてやるよ。報酬は前払い。明日の朝もらいに来るから用意しといてくれよ」
「今すぐ払うよ、その代わり、仕事もこれからすぐお願いしたい」
「夜のイプスに出かけようってのか? それはさすがに……」
通訳兼ガイドに雇用された少年は、困惑したように言いよどんだ。だがアンジェロに小袋を渡されると、すばやく懐にしまった。
「まあ、オイラと一緒にいれば大丈夫だ。それで、どこへ行きたいんだ? グランドバザールやモスクはもう閉まってるぜ。賭博場か?」
「――それもとっても魅力的な提案だけど――奴隷市場」
……なっ……!?
俺は思わず大声を上げそうになった。それは、イプスの案内人も同じだったらしい。「ほえっ!?」と悲鳴じみた声を上げてから、首を振った。
「それは酔狂が過ぎるぜお嬢様――いやどこから来た発想だ? そんなもの、今の時代にあるわけねえじゃん」
「都市部の発達に奴隷の労働力は欠かせないでしょう。戦時中は傭兵だって必要だったろうし」
「だから何十年前の話だよ。そっちの国でだって、とっくの昔に法律で規制が」
「そう、規制されたから、裏にある」
イプスの少年は黙り込んだ。その様子に手ごたえを感じたのか、カエデはさらに調子づき、言葉を続けた。
「農夫、下男、従者、家政婦、愛妾、養子。言葉を変えた人身売買は公然と存在してる。古今東西、どこの国だって同じでしょう」
「従者――そっちの兄さんもか?」
少年に問われ、カエデは答えなかった。代わりにアンジェロが肯定した。いつものように、穏やかな声で。
「さようにござる」
「……まあ、そういうことなら、いいけど。後になってショックで寝込んだりするんじゃねえぞお嬢様――ついてきな」
少年は短く言い捨てて、階段を降り始める。あとに続くミズホの二人。
「待てっ!」
三人は同時に振り向いた。イプスの少年とカエデは目を見開いていたが、アンジェロだけは微笑んだまま、どこか面白そうな表情。
こいつ……もしかして俺がいることに気付いていた?
いやそんなことはどうでもいい。俺は三人に駆け寄ると、強い口調で言い含める。
「話は聞かせてもらった。これは純然たる親切で言ってやる――行くな。夜に、しかもそんな危なっかしい場所なんて本当に危険だ」
「盗み聞きしてまで忠告とは、本当に親切な男だね、キュロス・グラナド」
カエデはコロコロと笑った。
「心配ご無用。そのためにこうして現地のガイドを雇ったんじゃないの。この少年の評判は、ホテルのスタッフにも確認済み。まんいち悪い輩が襲ってきても、私にはアンジェロがいる」
「従者一人で何になる? いくら強くたって腕二本に剣一本、数で囲まれたら終わりだろうが」
俺としては当たり前のことを言っただけのつもりだった。だがその瞬間、カエデの表情が変わった。キッと眦を吊り上げ、俺の胸を拳でドンと叩く。
「アンジェロは、ただの従者じゃない。サムライだ」
狼が唸るような声だった。
「……それで納得できるほど、俺はミズホの文化に明るくない」
「わからないならそれでいいよ。じゃあね」
短く言い捨て、歩き出すカエデ。このお嬢様にはもう何を言っても聞かないだろう。俺はアンジェロを引き留めた。立ち去りかけた肩を捕まえて、
「おまえも、黙って従ってないで止めろ! 間違っている時には説教し、力づくで拘束してでも護ってやるべきだろうが!」
怒鳴りつけたが、アンジェロは「ふむ?」と首を傾げただけだった。何も響いていない、心底不思議そうな表情。たっぷり数秒、自分の肩を掴む俺の手と顔をじっと見つめ、何か熟考していた。やがて合点が言ったように、ああと頷く。
「なるほど。キュロス殿は、そのように育ってきたのでござるな?」
「はあ?」
「いえ失敬、皮肉などではござらん。まことに良い環境だと思います。しかし残念ながら、拙者は主の選択に正誤の判定ができるほど優秀に出来ておりません。そんな権利もない身分でござるよ」
思わず緩んだ手を穏やかに解かれる。そしてアンジェロは一礼を残し、カエデの後ろを追っていった。




