イプスの夜に
「一生の不覚ッ! 穴があったら入りたい!」
キュロス様はベッドの上で顔を覆い、絶叫した。
わたしはそんな彼のそばで荷解きをしながら、はいはいと優しく頷いた。
「ここには穴が無いので、ベッドでおくつろぎください」
「無ければ掘る。マリーに申し訳ない……!」
「この部屋、ホテルの四階ですよ? 下のお部屋に突き抜けちゃいます。わたしのことはお気になさらず」
「だって、せっかくイプスの街を案内してやれる機会だったのに……!」
「体調が悪いんですもの、仕方ないわ」
わたしはそう言ったけど、キュロス様は納得しなかった。
「仕方なくなんかない……」
あら、これは本当に落ち込んでいるわ。キュロス様は傲慢ではないけれど、どちらかと言えば自信家で、前向きなひとだ。こんなに気にするなんて珍しい。
二日酔いってどんな感覚なのかわたしはわからないけど、不安になるほどつらいのかしら。
わたしは彼に近づき、背中をさすった。
「今朝よりもずっと良くなってるみたいですから、もうすぐですよ」
「……マリーはイプス観光を本当に楽しみにしていたのに」
キュロス様は頭を抱えた。
「連れていきたいところが山ほどあった。バザーはもちろん、隣町の古本市場、チャイスパイスやバクラヴァの専門店、世界一美しい礼拝堂に旧王朝の宮殿……噴水広場の猫だまり……」
「それどのみち今日一日では無理じゃないです?」
「かくなる上は結婚式のあと、そのまましばらく滞在しよう。一週間、いや一か月くらい」
「帰路、いくつかの港町で商談や地方貴族の方にご挨拶をする予定では?」
「……もうみんなでイプスに集まればいい……ここで話そう……」
「もう、自棄みたいなこと言わないでくださいな」
撫でていた手で、ポンと叩いた。そのままポンポン、子ども相手みたいに慰める。
どうしたものか……わたしは少し考えてから、明るい口調で。
「それならわたしだけでお出かけしてきましょうか。ちょうど昼間、イプスの街を案内してくれるって言うひとに出会ったの。夕食のあとに、まだ開いている場所があれば――」
――と、言ったのは、ただ彼を元気づけるための思い付きだった。本気で提案したわけではなく、キュロス様は反対するような気はしていた。
だけど次の瞬間、キュロス様はわたしの手首をグッと掴んだ。思いのほか強く、痛いくらいに束縛をして。
「だめだ」
短く、そう言った。
……ギクリとするほどの低い声。わたしが怯えてしまったのを察して、キュロス様はすぐに力を緩めてくれた。それでも、わたしを束縛する手は離さない。かつてない、頭ごなしの否定に、わたしは純粋に疑問を抱き、尋ねる。
「どうして? なにがそんなにだめなの?」
「危ない。イプサンドロスは……ディルツよりも、安全ではない。俺がいない時に安易に出歩かないでくれ。まして夜など、危険すぎる。護衛がいてもだめだ」
わたしは息を飲んだ。ここイプサンドロスは、キュロス様の母が生まれ育った国であり、彼の心は母国よりもむしろイプスにある。そして彼はこの旅で、わたしの好奇心を全力で応援してくれていた。その彼が「危険」と明言したのだ。わたしは一切の反論をせず、素直に頷いた。それを見届けて、キュロス様はやっと手を離した。
「本当にすまない。昼間の観光地なら、イプス人に見える俺がそばにいれば問題ないんだが……夜はどうか我慢してくれ」
「もちろんです、謝らないで。わたしが軽率なことを言いました。心配をかけてごめんなさい」
「……なんか俺、マリーに格好悪いところばかり見せている気がする」
枕に半分顔を埋めたまま、キュロス様は恨みがましく呻いた。
「グラナド城だと、マリーの世話は侍従がやる……だが、この船旅だけは。マリーが大好きな異文化行脚、貿易商の俺は誰よりも親切丁寧にガイドをしてやれる。ここぞとばかりに頼りにされて、惚れ直させたかったのに――」
「えっそれ、わたしに聞かせちゃって大丈夫です?」
思わず心配になって確認したが、キュロス様はやはり、半分うわごとを言っているような状態らしい。アーとかウウーとか、言葉にならない返事をした。そんな彼の背を、わたしはずっとポンポン、優しく叩き続ける。
「大丈夫です。情けなくないです。格好悪くもないです」
「…………しかし」
「お酒はお仕事の一環だし。ペースを乱してしまったのも、わたしを気遣ってのことでしょう? わたしが飲んで大丈夫か確かめるために、出されたもの全部試飲して」
「……それは、その通りだが。結局マリーより先に潰れてしまっては、何の言い訳にもならないと思う」
まだまだキュロス様の心は晴れないようだけど、わたしは上機嫌だった。笑い声を漏らし、ベッドの上――キュロス様の頭のそばに腰かける。スカートの裾を整えながら、
「とにかく。こんなことでガッカリしたり、怒ったりしないわ。むしろ感謝しているくらい」
「……マリー、優しい」
「その通り、わたしは優しいのです。あなたと同じくらい」
冗談めかした言い方をして、ポンポン、自分の太腿を叩いた。
「わたしが熱を出したとき、付きっ切りで看病をしてくださったでしょう。あれ、嬉しかったけれど、同時にうらやましく思っていたの」
「うらやましい?」
「そう。前にも言ったでしょう? わたしにも、あなたを喜ばせてあげたいという願望くらいあるのよ」
さらにポンポン、腿を叩いて音を出す。
……その所作の意味を、キュロス様はやっと悟ったのか。芋虫のように這い寄って、わたしの腿に頭を乗せ、あおむけに寝転がった。顔にかかってしまった前髪をわたしは丁寧にかき分ける。爪で肌を傷つけないよう、慎重にな手つきで。
キュロス様は目を閉じたまま、はー、と大きく嘆息した。
「……マリーが好きだ……」
「はい。知ってますよー」
「君が想像しているよりも何倍も好きだぞ」
「まあ。それだと天文学的な質量になるわね」
「……もっと好きになってしまいそう」
「それは大変」
わたしが笑うと、ウケたことが嬉しかったのか、キュロス様は目を閉じた。二度、三度深呼吸して、眉を垂らす。張り詰めていたものがゆるんだのか、顔色はまだ少し青ざめているけれど、表情が穏やかになった。
褐色の肌に長い睫毛の陰が落ちる。
――大柄で、彫りが深くきりりとした眉、神秘的な緑の瞳を持つ彼の第一印象は、雄々しい。威圧感すら感じるほど。だけどこうして穏やかに目を閉じていると、その造形の美しさに惚れ惚れする。思わず手を伸ばすと、頬を擦りつけ、猫みたいにスリスリしてきた。わたしの指に押し当てるだけのキスをして、それで安堵したみたいに、静かな寝息を立て始める。
思い切りぎゅーっとしたくなる。
「可愛い」
そのまま、わたしはしばらく彼を愛でていた。一度抜けて本を取り、また戻った。膝の上に彼を乗せ、読書に耽る。
ディルツにいた時と変わらない、イプサンドロスの日が終わる。
「……ふふっ。幸せ」
わたしはそう呟いて、ページをめくった。




