行商人オグラン
「――で、つまりこいつら全員、二日酔いで寝込んでるわけか? なんと情けないっ! 大の大人が己の限度を知らずに酔いつぶれるとは、恥を知れ!」
父、シャデラン男爵はやたらと大きな声でそう言った。
なぜそんなに大きな声なのかというと、父はずいぶん離れた席……ギリギリ店内、という位置にいたからだ。行商人も父が連れだと気付かなかったくらい。
理由は、愛猫ずたぼろを膝に乗せているから。
イプサンドロスは町中に野良猫が生息しており、高級ホテルでも放し飼いが許可されている。だがここは旅先、もし迷子になったら再会できる保証はない。それに他の猫に紛れてしまったり、喧嘩をして怪我でもしたら……と、父はずたぼろの放逐を断固拒否。結果、ずっと猫を抱いて歩いている。
ずたぼろがテーブルの食べ物に飛び掛からないよう、なだめるように撫でながら、父は居丈高に胸を張っていた。
「まあ伯爵は純粋なディルツ人ではないからな。我らディルツの民はワインとビールを生涯の友としてきた民、酒に強く出来ている。飲みの勝負で東の民に敗けるわけがないのだ。はっはっは」
……お父様、シャデラン家ではよく酔いつぶれてましたよね?
そういえば同じくらい飲んでいた母はケロリとしていた気がする。わたしの体質は母親似なのね。
「……なんであのオヤジがえらそうにしてんのよ……」
カエデさんが反論した。声はまだ弱弱しいものだったけど。それでもずいぶん覚めてはきたらしい。青ざめた顔で、わたしを恨めしそうに見つめた。
「ていうか、勝負なんかじゃなかった、けど。くうっ……貴央院楓、一生の不覚……ッ」
それだけ言って、バタッと顔面からテーブルに突っ伏す。わたしは彼女のテーブルに移動し、丸めた背中を撫でてあげた。
「もう少しの辛抱ですよ。きっともうすぐ、お部屋の支度が出来るはずですから」
「そう、ね……けど、今日はもう、動けない。イプスに着いたらさっそく、バザーに行くつもりだった、のに」
「バザー……グランドバザールですよね? 世界でもトップクラスの巨大な商店街だって、キュロス様から聴きました」
「そう、そこで、うちの真珠製品に合うドレスを……んで、結婚式場に差し入れるつもり、だった、んだけど」
「あの、大丈夫です。キュロス様が言うにはイプスの結婚式って準備に何十日もかけて行うそうで。体調が回復してからでも十分間に合うと思います」
わたしが言うと、カエデさんは青い顔でニヤーっと笑った。
「ふふ……もちろん、最後まで、あきらめない。結婚式……絶対いくから、ね……ふふふ」
と、話をしていたところへ。
トントン、とテーブルがノックされた。振り向くと――イプサンドロスの民族衣装を着た少年が一人。さっきバクラヴァを売ってくれた行商人だ。
「どうしたの、まだ何か売り物でも?」
「もっちろん、商人が金儲け以外で他人に声かけるわけねーじゃん」
わたしの問いに、あっけらかんと即答する。
「赤毛のお嬢さん、言葉は出来るみたいだけど、イプスは初めてなんだろ? どう、オイラを案内に雇わない?」
「ガイド? あなたが?」
わたしは聞き返しながら、改めて行商人……イプサンドロスの少年を見つめた。
少年の、年のころは十二、三歳か。キュロス様とは民族のルーツが違うらしく、黒髪黒目、肌は褐色まで行かない程度に浅黒い。ニカッと野性的な笑みを浮かべると、魅力的な八重歯が見えた。
……ん?
一瞬、わたしは何か、既視感を覚えた。……なんだろう? この少年……どこかで。
……イプスではなく、遠い場所で……だけどそんなに遠い昔ではない、つい最近に……。
黙ってしまったのを、雇用を検討していると思われたのだろうか。イプスの少年は上機嫌で商談を畳みかけてくる。
「日当で一千イプスルーレ。三食出してくれるなら八百でいいよ。それでこの国の隅から隅まで案内してやれる。オイラは生まれも育ちもここ、イプスの港町なんだ。現地人にも顔が利く。有名どころの観光地はもちろんのこと、グランドバザールの値切り交渉、お望みなら表に出回らない葉っぱでも、高レートの賭博場でも。もし人間を買いたいならそっちにもツテがあるぜ。男でも女でも、オイラより若い子でも」
わたしは眉を寄せた。
発展した街には、そういった裏側の景色があることは知っている。だけど決して肯定できない存在だ。ましてやこんな子どもが、ガイドだけとはいえ……。
思わずわたしの目に非難の色が混じる。不思議そうに首を傾げた彼に、わたしはつい、強い口調で言った。
「――いかがわしい遊びに興味はないわ。そんな場所があるなんて、聞きたくもない」
「何言ってんだい、裏賭博で一番の上客は、あんたらみたいな異国の貴族様なんだぜ」
彼はわたしを小馬鹿にするように鼻で笑った。
「心配しなくて大丈夫だよ、オイラは顔が利くって言ったろ? まんいちヤバいやつらに囲まれても、オイラの客なら連れていかれたりしないよ。そういうのも含めてガイド料。高くないと思うけど?」
……わたしが心配しているのは、自分自身じゃない、あなたのこと。こんな子どもが、そんな危ない場所に顔が利くということが問題なのよ。
――危ない仕事はやめなさい――という説教を、寸前で呑みこむ。
今のわたしの衣装は、豪奢とまではいかないけれど明らかに仕立てのいい外出用ドレスに毛皮のコート、栗鼠革の靴。高級ラウンジでお菓子を楽しんでいる富裕層――客観的に、そうとしか見えないだろう。ずたぼろだった時ならいざ知らず、こんなわたしの言葉に説得力はない。わたしはため息をついて、首を振った。
「ごめんなさい、どちらにせよ案内は要らないわ。わたし達実は観光じゃなくて、用事でこの国に来ているの。明日にはお迎えのひとが来て、この宿も引き払ってしまうのよ」
「なんだ、残念」
「それよりまたイプサンドロスのお菓子を持ってきてくれたら嬉しいわ。夜にはみんなの体調も回復していると思うし」
「了解! お嬢さん、名前は?」
「わたしはマリー。ホテルのフロントでそう言えば通じると思う」
「そっか、オイラはオグラン。また夜に来るよ。じゃあな!」
そう言うなりすばやく踵を返す。きっと今日一日の時間、少しでも稼げる仕事を探すのだろう。
少年の小さな背中がますます小さくなっていく――その光景に、わたしは過去の自分を重ねた。
あんなに幼いのに、大人顔負けの労働で対価を稼いでいる少年。
わたしは彼を立派だと褒めるべきなのか。それとも憐れみ、場合によっては叱りつけてでも『更生』させるべきなんだろうか。
……わからない。
わたしはキュロス様のほうをチラと見た。相変わらずテーブルに突っ伏したまま、ぐったりして動かない。
「もう。肝心な時に頼りになるのかならないのか、わからないひと」
嘆息して、ぬるくなったコーヒーを啜り――。
「……オグラン?」
明らかに聞き覚えのある言葉に、一気に記憶がよみがえったのだった。




