大人の階段
カエデさんとアンジェロさんの部屋は、二人部屋にしてはかなりの広さがあった。
それもそのはず、もとここは四人部屋。博打で水夫たちから取り上げたものだ。豪華というわけではないが、わたしとキュロス様含め四人が居ても余裕がある。椅子はないので木の床に、円の形に座り込む。真ん中にスカーフを一枚敷いてテーブル代わりに。そこに、アンジェロさんがミズホの酒器を並べていった。
異文化交流が大好きなわたし、思わず首を伸ばし、まじまじと彼の手元を見つめてしまう。
「それ……変わった形の酒瓶ですね」
「ええ、徳利と呼ばれるものでござる。こっちの小さいやつがお猪口。ミズホの酒はこれで飲むのが一番うまい」
「まあ不思議! お酒って、注ぐ器で味が変わるものなんですね」
わたしが驚いてそう言うと、大人三人は、なにか複雑な顔をして黙り込んだ。……あれ?
「……まあ、うん、いや本当に変わることもないことはないけど……うん……」
「そんなことよりカエデ、その酒、マリーより先に俺によこせ」
キュロス様が言って、アンジェロさんからお猪口を奪った。もちろん、彼が強欲だからではない。飲み慣れないわたしのために、毒見係を申し出てくれたのだろう。
実際、彼にとっても異国の酒は、少し怖いものらしい。まずは一口、唇を濡らす程度に飲み込んだ。舌の先で慎重に味を確かめ、目を細める。
「ん、美味い」
「でしょ?」
カエデさんは嬉しそうにニコッと笑い、減ったぶん酒を継ぎ足した。
「嬉しいわ、今まで手土産に持ち込んでも、西のひとはなかなか口もつけてくれなくてね。存外、飲みやすいもんでしょう」
「確かに、思っていたより万人受けだな。……これならディルツでも売れるかもしれない」
「えへへっ、そう言ってもらえたら何より。さあ、こっちのも味見してよ。ミズホの酒も色々あるんだ、もっと重く甘いのも、サラリとスッキリしたのもね」
「わ、わたしもいただいていいでしょうか?」
わくわくしながらおねだりすると、キュロス様は頷いた。アンジェロさんからお猪口を受け取って、恐る恐る、吸ってみる。粘膜に液体が触れると、一瞬ちりっと熱い刺激。だけどすぐ、甘やかな香りが口の中いっぱいに広がってくる。
「あっ……美味しい!」
鼻に抜けるフルーティーな香り、キュロス様の言った通り、ほんのり甘い。滑らかで、とろみすら感じる。飲み下すまでもなく、つるりと喉の奥に入っていく。
「いいにおい。果物から作られているのですか?」
「いいや、米と水と、発酵のための酵母だけ。ミズホ酒の基本はそれで、米や水の種類はもちろん、磨き具合や発酵の年月なんかで味が変わる」
「とても美味しいです。思っていたよりもずっと飲みやすくって、ジュースみたいです」
ははっ、と声を上げて笑うカエデさん。自分用に持っていた徳利を、わたしの前に傾けた。
「マリーさん、イケる口ね? ようしそうと決まればもう一杯」
わたしは喜んで二杯目を受けようとしたけれど、キュロス様が慌てて口を挟んできた。
「おいおいっ、のっけから飛ばしすぎるなよ。マリーはこれがほとんど初の飲酒なんだから」
「あっ、そうでした、すみません」
「酒の許容量は人によって全然違う。いくら飲んでも顔色ひとつ変えない酒豪もいれば、舐めるだけでひっくり返ってしまうものもいる。最初はペースを考えて、ゆっくりな」
あっ、そうか。わたしは今更ながら、キュロス様がこの場にわたしを誘ってくれた理由を実感した。彼はわたしに酒が飲めるよう取り計らったのではない、『飲めるのか』を見定めようとしてくれたのだ。もともと他人に流されやすく、断るのが苦手なわたし。いざという時、自分の許容量を知らずに飲みすぎてひっくり返ってしまいかねない。
「人前で恥をかく、なんてまだいいほうだ。場によっては取り返しのつかない粗相になりかねない、なにより君自身の健康――いや命に係わることもある。ゆっくり、な」
キュロス様の口調はとても優しいけれど、わたしを本気で叱っていた。
素直に頷くわたし。カエデさんはケラケラ笑った。
「そんなに心配しなさんな、いくらこの私でも、初飲酒のお嬢さんを酔い潰すなんてしないよ」
「どうだか。いまいちおまえらは信用ならん」
「今、拙者も入っていたでござる? 心外でござる」
唇を尖らせて拗ねるアンジェロさん。
「そう思うなら、マリーさんのぶんも旦那が飲みな。まさか俺は下戸だなんて言わないだろ、グラナド商会の大旦那様」
ニヤリと笑う、カエデさん。キュロス様は顔を引きつらせた。
「……もちろんだ」
「ようし男前、よく言った」
キュロス様の持つお猪口に、カエデさんは徳利を傾ける。そうしてドボドボと、溢れんばかりに酒を注ぎこんだ。
――そして。
「島が見えたぞー!」
カンカンカンカンカンと、釣り鐘を叩く号令。船内にいた水夫も雄叫びを上げ、一斉に甲板へ駆け上っていく。
……以前同じ事があった時は、キュロス様も彼らと同じく、すぐに部屋を出たのだけど……。
今、彼は床に突っ伏したまま。うつ伏せの状態で床に這いつくばって、片手の指だけを何とかあげた。
「ま、マリーぃ……」
「はいキュロス様っ!」
「大丈夫……か……気分悪くなって、ないか……」
「は、はいっ! わたしは大丈夫です!」
元気いっぱい頷いて、キュロス様の手を取った。
彼の褐色の肌は紅潮し、赤黒くなっていた。体温はお風呂上がりみたいにほかほかで、わたしの声が聞こえても顔を上げることができずにいる。
「そうか……それは良かった」
――とだけ呻いて、顔面を床に落とす。額と木床がぶつかる、ゴトンと重たい音がした。そしてそのまま、静かになる。
「ああっ、キュロス様! キュロス様―っ!?」
「拙者も……もうダメでござる」
青い顔をして、アンジェロさんが呻いていた。その横ではカエデさんが口元を覆っている。
「私も……迂闊。いつになく、飲みすぎ……」
「……マリー殿が顔色一つ変えずに飲み干すものだから、つい拙者も、つられて……うう」
「まりぃー、大丈夫かぁ。無理するんじゃないぞう。酒は飲んでも吞まれるなだぞう」
……なるほど……。
三者三様の姿を眺めながら、わたしはしみじみ噛み締めた。
自分のキャパシティを超えて飲み過ぎるとあんな風になるのね。お酒って怖い。
わたしもほどほどにしようっと。
そう心に決めて、わたしは手の中にあるグラスを、くいっと煽り、空にした。
月が綺麗な冬の夜。バルトアンデルス号は海をつんざき、進んでゆく。
進む先は夜明けの水平線と、わたしの知らない異国の地……イプサンドロス共和国。
どちらももう、目前に迫っていた。




