月夜の盃
「――おまえ達、こんなところで何をしているんだっ!」
甲板を揺るがす絶叫に、和服の男女は振り向いた。ミズホの商人カエデさんと、その従者の『サムライ』ことアンジェロさんである。彼女らはキュロス様の怒号に震え上がりなどせず。
「おやグラナドの旦那、それにマリーさんも、いい夜ねえ。なにやってんのこんな甲板で」
「何やってるんだ、はこっちが今聞いたんだっ」
「見ての通り月見酒でござる。もしよろしければ一献どうぞ」
「要らんわっ!」
アンジェロさんの申し出を、全力の声量で跳ね返すキュロス様。アンジェロさんはきょとんと目を丸くし、首を傾げた。
「……遠慮は無用にござるよ? 我らこの船には密航にて侵入した身、快く置いてくだすったキュロス殿には感謝しているでござる。なんら気に病むことなく奢られればよろしい」
「だれが遠慮などするか、快く置いてもないしっ」
「なら何を怒ってんのよ。まさか博打と同様、飲酒も禁止だなんて言わないでしょうね」
「拙者、水夫が酒盛りしているのを目撃したでござる。非番ならば許されているはずでござる」
「……船員は良くてもおまえらはダメと言えるのだが」
これはキュロス様の言い分がごもっとも。だけどこのふたりにそんなこと、今更言っても無駄だし……いつまでたっても話が前に進まない。
わたしはおずおずと手を上げた。
「すみません、咎めたわけではないのです。ただその、今わたし達……いい雰囲気だったもので……」
「ああ、いちゃついてたのかい。邪魔してごめんね」
手に持ったものを口元にあて、くいっと呷るカエデさん。その手には陶器の小皿があった。いや、あれはもしかしてグラスの代わり? アンジェロさんお手元には、同じ色と素材の小瓶。ディルツでは見たことのない酒器だった。
「心配しないで、この徳利だけ空けたら船室に戻るからさ。冬の海は冷えるね。星がよく見えるのは良いことだけど」
「……確かに、とても綺麗な夜空ですね」
わたしは空を見上げ、呟いた。
ついつい海面ばかりを見下ろしていたけど、空には星が美しく瞬いている。月も眩しいほどに明るくて、『バルトアンデルス号』の甲板を照らしていた。船旅に夢中になって、すぐ目の前にある空を見上げることを忘れていた。
キュロス様も夜空を見上げ、しばらく見とれていた。やがて我に返ったのか、咳払いする。
「予定通りなら明日にはイプスに入港する。寝坊しないよう、さっさと部屋に戻って寝ろ」
「おやおや、いいのかい旦那」
カエデさんがニヤニヤ笑って言った。
「私らをそんなにつれなく追い立てちゃ旦那にとっても損だよ。ミズホの酒を味見できる、またとないチャンスなのにさ」
「……ミズホの酒?」
「ああ、さすがに西の大陸には全く流通していない、珍しいお酒。ディルツ人の率直な感想を聞きたいね。これから一緒に商売をやっていくのに、酒の好みが合うかどうかは重要だもの」
「……まあ、外交で酒席は欠かせないものではある」
キュロス様は彼女の言葉を肯定した。
わたしはビジネスのことはよくわからないけど、貴族社会について最低限の勉強はしている。お酒はただの嗜好品ではない、教養だ。社交界や会談という場にお酒は必須、貴族の集まりならば昼夜を問わず、テーブルには何らかのお酒が置かれ、コミュニケーションの潤滑剤となっている。
外国の珍しいお酒となれば、トークの掴みになるだろう。それは商談成立の確率に直結する、大事な話のタネだった。
「ミズホを出る時に持ってきた、とっておきの上物だよ。シャイナより西には出回ってない。今日を逃したら二度と飲めないでしょうね」
カエデさんの提案にかなり興味をそそられたらしい、キュロス様は「確かに」と頷いた。しかしその直後、わたしのほうを振り返る。
……わたしに気を遣っているのかな?
「わたしのことはお構いなく。どうぞ、三人でお過ごしください」
そう笑顔で伝えたが、彼は首を振り、逆にわたしの手を取った。
「マリー、酒を飲んだことは?」
「えっ……わたしは婚約式のときに、お祝いのスパークリングワインを少し。酔って倒れたりしたら大惨事なので、ほとんど唇をつけただけでしたが」
「それだけ? あれ以来、一口も飲んだことがない?」
わたしは頷きながら、赤面した。先述の通り、お酒は貴族の教養。仮にも貴族の家に生まれた娘が飲酒未経験だなんて、他所に知られたら不審がられてしまうだろう。実家での待遇はあまり他人に触れ回りたくない。
それにわたしはもう、シャデラン家の娘ではなく、キュロス・グラナドの妻となる身。いつまでも実家の娘気分で、親が与えてくれなかったからでは通らない。
……恥ずかしい……。
すぼめた肩を、キュロス様は優しく抱いた。
「じゃあ、マリーも一緒に飲もう」
「えっ? わ、わたしもですか」
「ああ、もしも初めての酒が畏まった儀式の場では、味わうどころじゃないだろう?」
「確かに……粗相をしないよういっぱいいっぱいで、悪酔いしてしまいそうです」
「酒の味を知っておくいい機会だ。何より酒は、友人と飲むのが一番うまい」
キュロス様がはにっこり笑ってそう言った。
友人、という言葉を聞いて、カエデさん達も嬉しそうに目を細める。
「では決まりでござるな? 拙者、四人分の肴を拵えて参ろう」
「いいねいいね、今夜はミズホの酒で飲みあかそうじゃないか!」
「は――はい! よろしくお願いいたします!」
わたしは全身で感謝の意を伝えた。




