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ずたぼろ令嬢は姉の元婚約者に溺愛される  作者: とびらの
遥かなる海と大地と遠い国での結婚式

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上陸前夜

 

 記憶を遡るのは、さほどの手間ではない。

 つい半日ほど前、昨夜のこと。わたし達はまだ、海の上にいた。


「夜が明けるころには、いよいよイプサンドロスの港に着くぞ。ほんとうに、もうすぐだ」


 黒髪を潮風にたなびかせ、キュロス様は呟くように言った。わたしは赤毛を押さえながら、隣にいる彼に尋ねる。


「こんなに暗い夜闇でも、キュロス様には大陸の端が見えたんですか?」

「いいや、まさか。しかし潮の匂いと風の湿り気でわかる。船乗りの勘というやつだな」

「本当? すごい……わたしももうずいぶん船旅に慣れたつもりだけど、全然わからないわ。さすが貿易商、グラナド商会の大旦那様ね」


 わたしは心から感嘆し、キュロス様を尊敬した。

 わたし達が故郷、ディルツ王国を出てはや数か月……まず西周りに海を渡り、まずたどり着いたのは常春の島、ルハーブ島だった。補給と休息、そして商談を兼ねて立ち寄った島で得た、貴重な体験と、素敵なひと達との出会い。トランクひとつぶんのお土産と胸いっぱいの思い出を頂いて、わたし達は再び海に出た。今度は東へ、まっすぐ。東の大陸、イプサンドロス共和国に向かって。


 夜の潮風に頬を刺され、わたしは肩を震わせた。


「風が冷たい……イプサンドロスって思っていたより寒い国なのね」

「そりゃまあ、真冬だからな」

「あっそうか、ルハーブが特別暖かいのですね。わたしったらそれに慣れちゃって、今が冬だってすっかり忘れていました」


 貿易商のキュロス様と違い、海外を巡るのはこれが初めてのわたし。同じ日の同じ時間に、異国では季節が違うということにまだ馴染めていなかった。


「イプスの冬は、ルハーブとは全く別物だ。雨が多いし、風も強い。……とはいえディルツよりはずっと暖かいし、結婚式はほとんど屋内なので問題はないけどな」


 わたしを安心させるように、穏やかに語るキュロス様。

 結婚式――その言葉に、わたしはゆっくりと目を伏せ、深呼吸した。


「……やっと……わたし達の結婚式が挙げられるんですね」

「ああ、式を取り計らってくれる者たちと、港町のホテルで待ち合わせをしている。彼らと合流が叶いしだい、さっそく式場へ向かおう」


 キュロス様はそう言って、わたしの肩を抱き寄せた。


「それでもさっそく翌日にというわけにはいかないがな。イプスの結婚式は独特の手順があって、式本番までに数十日かかる。しかもこまごまとした儀式だの物品の準備が必要で、結構忙しいぞ。合間に観光する時間はないだろうな」

「ええ……そうですね。仕方ありません。何よりまず優先すべきは式の――」

「観光は港町についてすぐ、関係者と合流する前にしよう」


 わたしが必死で抑えた好奇心を、キュロス様はすかさず掬い上げる。わたしは大きな声を上げた。


「本当っ? 街を見て歩けるの?」

「ああ、護衛にはグラナド商会の現地のスタッフを手配している。ホテルの周辺だけでも見どころが目白押しだ。半日だけでも十分堪能できるぞ」

「やったあ!」


 わたしは飛び上がって、キュロス様に抱き着いた。勢いあまって両足が浮いて、キュロス様にぶらさがってしまう。彼はそのままわたしの腰を抱き、ダンスみたいにくるくる回った。


「そんなに喜んでもらえて、何より」

「イプスにはとっても大きなバザーがあるのでしょう? 世界一大きな商店街だっていう」

「そう、俺はそこで商品を仕入れたり、職人に直接発注したりしている。グラナド城のみんなにお土産を買おう」

「イプサンドロスって工芸品だけでなく、美食も有名なのよね。自然の恵みが豊かで、東西の文化が交じり合って洗練されているって。何か持ち帰れるものはないかしら?」

「それなら、バクラヴァだな。あの衝撃の甘さはディルツでは体験できない」

「まあ……いったいどれほど甘いのかしら。ああ嬉しい、とっても楽しみ――あっ、もちろん結婚式も!」


 慌てて言ったらまるで繕ったみたいになってしまった。そういうわけじゃないんだけどっ。

 そんなわたしの心境も、キュロス様は全部お見通しらしい。クックッと笑って、わたしのおでこにキスをした。


「俺の可愛い雛鳥よ。どうか我が妻となっても、その好奇心を失わないでおくれ」


 ひ、雛鳥……。

 わたし、マリー・シャデランは背が高い。同年代の女性より頭半分、成人男性の平均よりも少し大きいくらいだ。そんなわたしを雛鳥なんて言えるのは、この広い世界でもキュロス様ただひとりくらいのものだろう。

 キュロス・グラナド伯爵は、とても大きなひとだった。このわたしよりさらに頭一つぶん背が高く、肩幅も胸板も大きくて、ほとんどのひとは彼を見るなり委縮する。イプサンドロス出身の母親譲りの黒髪、褐色肌、そして禍々しいほどに美しい緑の瞳も相まって、『怖い』と感じる人は多いだろう。

 だけど彼は身体より、心の大きなひとだった。誰よりも優しくて、穏やかで……。


「マリー」


 額に押し当てられた唇が、目元に、頬に移動する。わたしは目を閉じた。やがて与えられるだろう、唇へのキスを期待して……。


 ――と――。


「やー、見てみてアンジロウ、今夜は月が綺麗だわあ」

「いやはやまったくでござるなカエデ様。拙者は今、鼻水が凍って息がしにくいでござるが」

「大げさだね、それほどの寒さじゃないでしょ。常夏の島なんて経由したせいで軟弱になったんじゃない?」

「そうおっしゃられるなら拙者の長羽織を返して欲しいでござる。はあ寒い寒い、熱燗もすっかり冷えて、これでは雪冷えでござるよ。拙者ちょいと厨房に行って、(かん)しなおしてもらおうかと」

「いいね、ついでに肴もひとつふたつ取ってきてよ。煮つけなんかありゃ最高だね」

「がってん承知でござる」


「…………おい」


 キュロス様が半眼になり、振り向いた。


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