エピローグ
ルハーブ島を発って――すなわち、ミズホの二人組と共に船旅を始めて、二週間。
「少し潮風が冷たくなってきましたね。赤道からはずいぶん離れたのかしら」
船室で、ベッドの上で読書をしていたマリーが小さく呟く。
デスクで航路を見ていた俺は、体ごとマリーのほうを向いて、頷いた。
「あと一週間もあればイプサンドロスに到着する。ディルツほどではないが、それなりに冬は冷える国だ。ルハーブとの温度差で風邪をひかないようにしないとな」
「……そっかぁ……あと一週間……」
頬杖をついて、窓の外を見るマリー。船室の窓から海を見つめる横顔は、お世辞にも、楽しみにしているようには見えなかった。ルハーブの近海とは少し色を変えた海を見つめて、呟く。
「そこで、あのミズホの二人ともお別れになるのね」
「……そうだな」
途中に二度ほど、補給のため港に船を着けたが、俺はあの二人を下ろさなかった。
イプサンドロスまでの同行を正式に許可し、今は仲良く……とまではいかないが、特にいがみ合うことはせず、三度の食事も共にしている。
二週間前――あの時。
俺は双六というゲームで、カエデに勝利した。
だがあの勝ちはきっと、俺が取ったものではない。あの女の演出に違いなかった。
あの双六でも、カエデ達はイカサマを行っていた。ゲームの前に俺が検分した賽子は、確かに種も仕掛けも無かった。だがイカサマの方法などいくらでもある。たとえばあと二つ――俺に検分させた物とは別に、イカサマ賽子を隠し持っていたとか。
平常は怪しまれないよう普通の賽子を振り、ここぞという時に、一や六が出やすいよう細工された物とすり替える。最大と最小の目を望み通りに出せたなら、賭博だろうとボードゲームだろうと無敵だ。
俺は博打にはあまり明るくない。百戦錬磨の賭博師を相手に、イカサマの手法は大方見当を付けられても、決定的瞬間を見つけることは出来なかった。最後の一擲を捕まえて、すり替えできないようにしてみるのが精いっぱい。そうしていなければ、彼女は六の出る賽子を使い、確実にゴールしていたと思う。
打ち勝った、と思えたのはゲームを終えた直後まで。『勝たされた』のだと気付いたのはその後、カエデ達の『真の狙い』を聞いてからだった。
彼らはきっと、賽子の他にもイカサマの手があった。それをあえて使わなかった――自分から言い出すよりも『負けたのだから、仕方なく』と語ったほうが真実味が出るからだ。
自分の狙いが俺にとっても魅力的ならば、先の展開は同じことになると知って。
「……マリーを宣伝に、か……」
筆記の手を止めて、俺は呟いた。
――マリーさんにモデルになってもらいたい――。
カエデにそう言われても、マリーはしばらく呆然としていた。全く意味が分からないといった様子。これまで完全に部外者感覚で、純粋に双六を楽しんでいたのだろう。突然名前を挙げられて事態が呑み込めていない――と思ったら。
「……モデルって、なんですか?」
その場にいた全員が真横にコケた。
「あ、あのね……モデルってのは……実際色んな形態があるんだけども、一般的には宣伝大使で……」
「ああなるほど、呼び込みですね。でもわたし、あまり大きな声を出すのは得意ではないのですが」
「違う! あなたは一言も話さなくていいのっ!」
カエデまでが頭を抱えて、根気強い声でマリーに説明した。
「ほら、他人が大事にしている物って、奪い取りたくなるでしょ?」
「えっ、ならないです」
うん、だろうな。
カエデは一瞬ぽかんとしてから、さらに粘る。
「……ええと、他人が持ってる物って、それが大したことないもんでもなんだか急に欲しくなったりしない?」
「いいえ」
「素敵な人が素敵な物を持ってるのを見て、アレを手に入れたら自分もちょっと近づけるんじゃないかなって思ったりするでしょ」
「んん……うーん……あんまり……?」
「あなたの大好きな人が『私これ好きなんだ』って言ったら『へー』って思うでしょ!? ソレに興味をそそられて、もし手に入るものならば自分も欲しいなって思わない!?」
「あっそれは、はい、なんとなくわかります」
「それ! その『みんなの大好きな人』にあなたがなるのっ!」
やっと期待通りの返事がもらえて、カエデはここぞとばかりにテンションを上げた。マリーの肩を鷲掴みにし、前後左右にぶんぶん振りまわす。
「難しいことは何もないよ! あなた達、イプサンドロスで結婚式を挙げるんでしょ? その時うちが提供する天然真珠の宝飾品を使ってちょうだい。婚約指輪はもう買ってるでしょうから、ネックレスとかドレスの宝飾とか、どこでもいいから全身に」
「あうあうあうっ、えっああ、身に着けるだけ、でいいんですか」
「そう! マリーさんはまさに理想なの! ミズホじゃめったに見つからないその長身にどこまで続くのってくらいすらりと長い手足、世界でもレアな赤い髪、化粧や衣装でガラリと雰囲気が変わる端正な美貌! それでいてなぜか自分は裏方ですって感じの謙虚さが、身に着けた商品を引き立てる。本当にマリーさんは理想のモデル像なんだよ!」
「理想……この、男の人みたいな背丈が……?」
「そう! キャンバスは大きい方が迫力のある絵になるでしょう? モデルの身長は大きければ大きいほど映えるの!」
「えぇ……」
「ついでに旦那は西洋トップクラスの大富豪で次期公爵、外見もなかなかの色男だ。そんな彼に溺愛されてるんだから、そりゃあもう、全世界の女がマリーさんに憧れるね。マリー・シャデランみたいになりたいって、みんながあなたの真似をする」
「…………ほえ?」
「予言するわ。あなたが天然真珠を身に着けて出歩けば、世界中がそれを欲しがって奪い合う。社交界では『あのマリー・シャデランが好んだ東洋の天然真珠よ』『あらわたくしのブローチはあのマリー・シャデランが着けていたのと同じデザインなの』って、マウント合戦が勃発する!」
「…………ま……?」
「ほらアトリビュートってあるでしょ、宗教画や彫刻で神様が持ってる象徴的なアイテム。あれだって原理は一緒よ、教会はそれを御守りにして売り出したりしてるじゃない? あんな感じね。マリーさん! あなたは! 真珠界の女神になるのっ!」
「………………め」
意味のない言葉を呟いて、マリーは完全に動きを停止した。
あっいかん、許容範囲を超えている。マリーが知恵熱でオーバーヒートしそうなので、俺はカエデを引きはがした。
「やめてやってくれ、まだリハビリが完全じゃないんだ。病み上がりの胃にステーキぶち込んではいけない」
とりあえずミズホの二人を遠ざけて、俺はマリーに、モデルという仕事を噛み砕いて解説した。
モデル――モチーフ、見本、手本。人々の憧れの対象であり、その人気を利用して何らかの利益を得る存在だ。基本的には王侯貴族など著名人で、その肖像画に描かれていた小物や髪型、化粧品などが売り出されてきた。その人物の人気に合わせ、値段も売れ行きも吊り上がる。
ルイフォンの騎士剣にデザインを模した剣は、倍の値段で売られているらしい。
カエデの言った通り、彼のようになりたい、彼女に近づきたいという気持ちを利用した商売だ。
「カエデ……というか天然真珠協会と契約をしたからって、今すぐ仕事、具体的な作業があるわけじゃない。ただこれまで『キュロス・グラナドの妻』だったのが『貴婦人マリー』となり、社交界では俺よりも前に出たり、来客を迎える機会が増えるだろう。もしかしたらあと一つか二つ、異国言語を覚える必要があるかもしれない」
――一応、通じたらしい。マリーはコク……と力なく頷く。
「……できそうか?」
コクリ、また頷く。カエデが顔を輝かせた。
「じゃあ、やってくれるんだね?」
三度目、コク……と頷きかけて、慌ててブンブン首を振る。その顔はみるみるうちに青ざめていった。
「む、無理ですっ! わ、わたしなんかが畏れ多いっ! 体内で何年もかけて大切に真珠を育て上げたアコヤ貝や黒蝶貝に失礼だわっ!」
「貝に失礼って」
「と、とにかく駄目です無理です、待ってくださいあの――ごめんなさいっ!」
と、熱く辞退されると、カエデ達は意外にもあっさりと引き下がった。
……それから、もう何日も経つ。
カエデ達からの接触は、特にない。俺達も特に掘り返すことはなく、ただ同じ船に乗り合わせているだけの状態だった。
だがあの後、マリーは時々ぼんやりして、なにか考え事をしているような時間が増えた。サンプルの真珠製品を眺めたり、自身が持っている宝飾品を灯りにかざしてまじまじと見たり。
カエデの提案に心を動かされているのは間違いなかった。
窓の外を眺めながら、マリーは独り言のように呟いた。
「……お別れの前に一度くらい、またあの双六をご一緒できないかしら。今度は賭けなんかしないで、普通に遊んでみたいわ」
「アンジェロはともかく、あのお嬢様が一銭の儲けにもならない遊びに付き合ってくれるかな」
「きっとそれは大丈夫よ。カエデさんって結構、お茶目な人だと思うから」
マリーは楽しそうにそう言った。……意外だ。マリーは案外、カエデに気を許しているらしい。ロクでもない扱いをされるばかりだった気がするが、なぜだろう?
問うてみると、マリーは微笑んで首を振った。
「ごめんなさい、あなたにとっては商売敵なのに、庇うようなことを言って。お気を悪くなさった?」
「いや……同盟関係でもあるし、それは別に」
「なら、良かった。正直言って、わたしカエデさんのこと好きなんです。憧れちゃう」
「……憧れ……」
「ええ、女性が働きにくい国に生まれながら事業を立ち上げたり、家長を出し抜いて海に出るなんて、本当にすごい。格好いい。わたしもいつかカエデさんみたいに、逞しい女性になりたいな」
勘弁してくれ、という言葉は呑み込んでおいた。
まあ、マリーの気持ちも全く分からないではない。実際、カエデのバイタリティは男の俺でも舌を巻くし、ましてやマリーは抑圧されて育ってきた。自分とは対極のような女性に、マリーは尊敬の念を覚えたのだろう。カエデと交流しその生き様に触れることは、マリーにとっていい刺激になるかもしれない。……性格はあまり見習わないで欲しいが。
「――だからわたし、カエデさんから頼み事をされて、すごく驚いてしまいました」
苦笑いして、彼女は言った。
「しかもそれが、宝石の宣伝大使だなんて。顧客様からのクレームの嵐で大赤字で、本当、全魚介類に謝るしかない結果が目に見えていますもの」
「……そんなことはないと思うが」
「いえいえそんな、炭酸カルシウムに申し訳が無いわ」
プルプル首を振って謙遜するマリーの声は、どこか寂しそうだ。俺はそれをしばらく見つめ……自分から、彼女にこう言った。
「やってみればいい。真珠のモデル」
「えっ?」
「一度断った手前、なんてのは気にするな。しばらく考えて決心がついたと言えば、喜んで受け入れるだろうさ」
「えっ、で、でも……でもわたし……。……でも……」
何か反論しようとしたマリーだが、『でも』の後が続かない。やがて俺を気遣うように、彼女は上目遣いで俺を見上げた。
「キュロス様は、嫌じゃないんですか? その……わたしがたくさんの人の前で……ましてあなたのいない時に、男性の目にも触れるんですよね」
「そういうふうに聞かれると、正直ちょっと、複雑な気持ちがないことはない」
俺は本当に正直に言った。もう下手な嘘を吐くのはやめたのだ。
「ルハーブの浜で話した通り、君を独占したいという欲望が、俺の中から消えることはない。叶うことなら他人に君を見せたくない。顔も肌も、言葉を書いた文字でさえも。髪の毛一本、指先の爪一枚も」
細くて長い、彼女の指。磨かれた爪のひとつひとつ、唇で甘噛みして囁く。
こうすると彼女はいつも恥ずかしそうに、喜ぶ。その笑顔を見て俺も嬉しくなる。
だけどそれだけではいけない。ともすれば窒息しそうな溺愛にこそ、風通しは必要だった。
愛している、だからこそ。
ずっと前に、母から言われた言葉が頭をよぎる。
――女は小鳥じゃないのよ。籠に閉じ込めてるだけじゃ駄目。ましてあんたが惚れた女は大鳥だ。きちんと羽ばたかせてやんなさい――。
「あの古城に君を閉じ込めたくない。俺は君が多くの人に愛され、褒めてもらえたら、俺はそれをとても嬉しく思うんだよ」
声がわずかに震えたが、本心だった。
そう――俺があのミズホの二人を警戒しながらも、きっぱりと拒絶しきれなかったのはそのためだ。アンジェロと楽しそうに話すマリーを見て、ただの醜い嫉妬だけではなく、純粋な喜びも感じていた。
俺だけの物にしておきたい気持ちと、『どうだ、マリーはいい女だろう、もっと褒めてやってくれ』という感情。
どちらが自分の本心なのかわからなかった。島にいる間ずっと考えてきた。だがその結論はもう出ている。どちらも俺の本心、俺は、マリーの翼を大きく育てたい、と。
俺はマリーを抱きしめた。
「大丈夫、いつだって後ろに付いて、見守っている。人見知りの君には時々しんどいこともあるだろう、その時は遠慮なく俺を頼れ」
安心させるため、背中をぽんぽん叩く。彼女は俺の肩に顔を埋め、ゆっくり、深呼吸した。そうして全身の緊張をほぐして、やがてマリーは、ぼそりと呟いた。
「本当に……わたしで務まるでしょうか」
俺は頷いた。マリーを慰める方便ではなく本心だった。
真珠が他の宝石と大きく違う点は、削り出しや研磨の加工をせずとも、ありのままで美しいことだ。生物が作り出した自然な艶は、マリーの華やかな美貌と喧嘩することなく際立たせる。真珠を身に着けたマリーを見て、女は羨み、男は惹かれる――そして自身や恋人にその艶を再現させようとし、真珠を買い求めるだろう。
マリーをモデルにというカエデの提案は、博打どころか、手堅い商法とすら言えた。
俺はマリーをギュッと抱きしめた。
「絶対大丈夫。君は、綺麗だ」
マリーは全身をびくりと跳ねさせた。目を大きく見開き、信じられないようなものを見た表情で俺を見上げる。
――ああ、可愛いな。
もう何千回目だろうか分からない、出会った日から思い続けていたことを、また思う。
マリー・シャデランは美しい。凛々しい長身、知的で大人びた目元と整った顔立ちを見て、全世界の人間はそう評するだろう。
だが俺にとって、マリーは可愛い少女だった。しりとりが強くて、かくれんぼが下手で、猫のぬいぐるみで歓声を上げ、ハンモックのベッドにはしゃぐ可愛い女の子。
そして芯はとても強い。
生家での厳しい労働も、上級貴族となるための社交界教育も、弱音ひとつ吐かずに乗り越えた。数か月前、国を出ようと話した時もすぐに了承した。不安はあっただろう、だけど俺を信じてついていくと即答した。
何より特徴的なのは、人一倍の好奇心。
ただ乗っているだけで進む船の、航路や構造を聞きたがる。新しい島が見えるたび跳び上がって喜んで、いつまでも望遠鏡を覗き込んでいた。
彼女にとって知識とは甘いケーキのようなものらしい。生きるため仕方なく摂り入れるのではなく、美味しくて笑顔になれる物だ。
きっと生まれついての気質だろう。思えば初めて出会った時からそうだ。これから先、彼女がもっと多くのことを知り、海にすっかり飽きたとしても、その気質は変わらないだろう。
謙虚だが度胸がある。控えめだが人懐っこくて根っから明るい。
そんな彼女の魅力は、外見だけでは絶対に分からない。俺だけが知る、彼女の本当の姿だった。
だから――もう、嫉妬なんてしない。俺だけのマリーは、俺の中にちゃんとあるのだから。
「みんなに見せつけてやろう、マリー。その美貌を全世界に自慢して、どんなもんだと胸をはってやろう」
「……キュロス様……」
「そして君も思い知れ。『ずたぼろ娘』なんて呼ばれていた自分が、今はどれほど美女になったか。世界中の女が君に憧れ男は焦がれて君を見上げる、その真実を、嫌になるほど実感しろ」
そう話す俺の胸で、マリーは突然、クスクス笑い始めた。
何が可笑しいのかと見下ろすと、手の平で目隠しをされた。
塞がれた視界の向こうで、マリーの囁く声がする。
「ええ、そしてわたしの夫は世界一だってことも。世界一格好良くて、世界一わたしのことを大事に、愛してくれる。知り合いが増えれば増えるほど、わたしはそれを痛感していくの」
笑い声が近づいてくる。
ゆっくり、押し当てるように重ねられたキス。
俺はもう一度彼女を強く抱きしめて、深い口づけを何度も捧げた。
イプサンドロスに到着するまで、あと一週間。
そこで俺達は、やっと正式な結婚式を挙げる。
この人と結婚しようと決めたのは、初めて出会った日だった。あれから色んなことがあって、こんなにも遅れてしまった。
国を出てからも、ひょんな所で奇妙な出会いがあった。
もしかしたらまた何か、想定外のことが起きるかもしれない。だがもう構うものか。運命でも神でも捻じ伏せて、俺は彼女と結婚する。結婚式は必ず、幸福なものにする。
俺は右腕にマリーを抱きながら、左の拳を、ぐっと握った。
ここぞという時には必ず勝ち取る。それが商売人っていうものなんだ。
【終末の楽園編】はこれで完了。少しの休載期間を置いて、イプサンドロス編の連載に入ります。
いましばらくお待ちくださいませ。




