がちょうとすごろく
彼は、しばらく俯いて沈黙していた。拳を握り、言葉を模索している。
「俺は……グラナド商会の主であると同時に、このバルトアンデルス号の取締役だ。この船の治安を護る義務がある」
彼は呟くように言った。
「本来、密航は重罪だ。度を越えた博打を禁じるのと同じく、おまえ達をむやみに船に招くことはできない。……だが、一方的に追い出すのが道理に反するというのは分かる」
「ふふっ、分かってくれて嬉しいな」
「条件を聞こう。何が目的だ?」
キュロス様がそう問うた瞬間、カエデさんの口元が歪んだ。笑みの形に、くっきりと。
「さっきも言ったでしょ。この船での同行。このまま私達を、イプサンドロスまで乗せて行って欲しい」
「……なぜだ? イプサンドロスとミズホでは、直接の貿易もないだろう。これから取引を始めるにしても、自分達の船で行けばいいじゃないか」
「目的地は不問で、ただ単にあなた達と仲良くなりたいだけ――ってのじゃ駄目?」
「駄目」
キュロス様が即答すると、カエデさんはコロコロと笑った。鈴を転がしたような可愛らしい声だけど、無邪気な笑顔、とはとても思えない。
二人の話し合いは膠着した。
カエデさんを睨み、黙り込んでしまうキュロス様。彼を急かすこともなく、椅子に座り、お茶を啜るカエデさん……。
……すごい。カエデさんって、あんなにたおやかな女性で、わたしとそんなに年も変わらない――たぶん――なのに、すごい。キュロス様相手に一歩も引かない。国一番の貿易商である彼と対等、いや、それ以上のアドバンテージがカエデさんにあるようだった。
「キュロス殿では、カエデ様には勝てぬよ」
いつのまにわたしの横に来たのか、アンジェロさんがつぶやいた。
「今、喜央院の家を動かしているのはカエデ様。女性ゆえ表舞台には出られぬが、交渉術は大旦那様をはるかに凌ぐ。いやはや拙者のような脳筋など、見惚れているしかできないでござるよ」
「……博打も、アンジェロさんではなくカエデさんがやって勝ったんですか?」
ふと好奇心で、そんな質問をしてみる。アンジェロさんはニッコリ笑って頷いた。
「もちろん。先ほどの水夫との勝負では、拙者は人数合わせに入った程度。カエデ様の賽子捌きはまさに神業でござるよ」
「サイコロ? って、なんですか?」
聞きなれない単語を聞き返すと、アンジェロさんは懐から何か取り出した。指先でつまめるほどのサイズで、素材は動物の骨だろうか、綺麗な乳白色の正六面体だ。水玉模様がそれぞれの面に……つまり六つ描かれている。
「これってダイスですよね? この水玉が数字で」
「ええ、ほとんど同じものが西洋にもあるはずです。これは賽子と言い、ミズホでよく使われている物でござるよ」
「これを使って、どうやって賭けをするの?」
「ふむ、実際にやって見せましょうか。ミズホの『丁半博打』を」
わたしが頷くと、アンジェロさんはお茶を一気に飲み干し、コップの中を拭った。不透明な陶器のコップ、その中に賽子を二つ放り込む。空いた手で蓋をし、逆さまに。空中で二度ほどシェイクしてから、テーブルの上にドンと置いて、
「さて、賽子二つの合計は偶数か奇数か? おっしゃったほうと合っていればマリー殿の勝ち、外れると負けでござる」
「えっ? ええと――これって確率は同じですよね」
「その通り、なので適当に、頭に浮かんだ方を答えればよろしい」
「では……奇数で」
全くの当てずっぽうで答えると、アンジェロさんはヒョイとコップを持ち上げた。テーブルに転がった二つの賽子、上の面は、四と六。合計は偶数だ。
「残念、マリー殿の敗けでござる。となると事前に賭けた金は没収、もし合っていれば倍になっておりました。賭け本番でなくて良かったでござるな」
「なるほど……ずいぶんシンプルなルールですね」
アンジェロさんはニヤリと笑った。
「しかしなかなかこれで奥の深いものでござってな。偶数を丁、奇数を半と言いますが、この二つ以外にも『役』があり、払う倍率が変わることもあります」
そんなふうに言われると、知識欲をくすぐられてしまうのがわたしという生き物。どんな『役』があるのか尋ね、ピンゾロとかグニとかシソウとか、初めて聞く単語を脳内メモに書き込んだ。その語源まで掘り下げて、聞けば聞くほど面白い。
わたしとアンジェロさんが和気あいあい、話している間、キュロス様とカエデさんは無言でにらみ合いをしていた。
「――つまり、なんと言われようとも勝ち取ったものを返す気にならんということだな」
相変わらず膠着状態のままらしい。いつまで続くのか――と思った、その時。
カエデさんは目を細めた。
「うん。でも、あんたが賭けで取り返すっていうなら乗るよ。キュロス・グラナド」
「……なんだと?」
カエデさんの赤い唇が、ニヤリと笑みの形に歪む。
「道理だろう? 博打の負けは博打で取り返すものだ。私とあんたで勝負して、私達が勝ったらこのままイプサンドロスまで連れて行って。負けたら大人しく、次の停泊地で船を降りる。借金の取り立ても諦める」
「駄目だ」
キュロス様は即座に却下した。これにはカエデさんも「あら」と肩をこけさせる。
「頑固だねえ、グラナド商会の大旦那様は、そんなに博打がお嫌い? 商売には少なからず博打の要素があるだろうに、ご自分の運にそんなに自信がないんだ」
「好き嫌いの問題じゃない。俺にも立場というものがある、水夫達に博打禁止のルールを課しておいて、この俺が破るわけにはいかないだろう」
「……綺麗すぎるねえ、キュロス・グラナド」
カエデさんの声色が、少し変わった。
キュロス様を見上げる視線も、どこか鋭い。蛇が獲物を見つめて、一飲みできるか見定めているような――。
「あんたは確かに、やり手の商人だ。いっぱい勉強したんだろうね。目利きも一流、生まれつき恵まれた地位や資産を上手に使って、国一番の富を成した。それはすごいことだ、認めてあげる」
だけども、と彼女は笑って、言葉を続けた。
「清すぎる川に大魚は育たない。これからイプスより東と商戦やっていくんなら、それじゃ頭から丸呑みにされちまうよ」
「…………」
キュロス様は無言で、彼女をじっと見下ろしていた。
カエデさんは、彼が返事をするまでもう何も言う気が無いらしい。お茶を啜り、お菓子の包み紙を弄んで暇つぶししている。アンジェロさんは完全に部外者のスタンスで、甲斐甲斐しく部屋の掃除をしていた。
キュロス様もまだ動かない……わたしはそうっと手を挙げた。
「あのう……その、丁半博打っていうやつじゃなくて、もっと平和な、普通のゲームでならどうでしょう?」
わたしの静かな提案に、三人の視線が集まる。
「この船で禁じているのは、金品を賭けた博打ですよね。ちょっとした遊び、例えば掃除当番の交代を賭けて早食い対決、くらいは、キュロス様も与り知らぬところでされていると思います」
「……確かに、それくらいなら問題なく許容している。というか、禁じてもキリがない。船乗りは博打が好きすぎる」
「ですよね。それで言うと、カエデさんとの勝負は『イプサンドロスまで連れていくか否か』なので、二人がお金を賭けているわけではないです。カエデさんが船を降りたあと、借金回収が出来なくなるのは副次的な――なんというか、結果論なので」
カエデさんがハハッと笑った。
「いいね、なかなかアコギな理論で、私好みだよ」
「あっアコギだなんてそんな……ええとつまり、博打ってことじゃなくてただの遊び……例えば『ガチョウゲーム』なんかで、先に上がったほうの言うことを聞く、だったら、船のルールにも反せず勝負はできるんじゃないでしょうか」
ガチョウゲームとは、ディルツで一般的なボードゲームだ。ガチョウの卵を模して描かれたマスがずらっと並んだ盤面で、複数人で順番にダイスを振って、出た目の数だけ駒を進める。先にゴール地点まで行けたら勝ち。所々に、『スタートに戻る』とか『さらに三つ進む』なんて特別なイベントが起きるマスもあって、子ども向けと思いきや大人もついつい盛り上がってしまうと言う。
技術も思慮も不要、完全に運だけのゲーム。いつどこで生まれたのか、起源が分からないくらい原始的なゲームで、小さい子がいる家ならどこにでもある。わたしも幼少に一度だけ、姉と遊んだ記憶があった。
「がちょう? なにそれ」
カエデさんに問われ、わたしはざっとガチョウのゲームの説明をした。あくまで例えで出しただけだったけど、カエデさんは想定外の反応をした。
「すごい偶然、ミズホにもそっくりのゲームがあるよ。私、双六大好き!」
双六? 今度はわたしが疑問符を浮かべていると、カエデさんはぱちん! と大きく手を叩いて腕まくり。
「双六なら今すぐ自作できる。それを四人で遊びましょ。博打じゃなく遊びの競争、負けたら罰ゲームで相手の言うことを聞く! 平和! 決定っ!」
「おいおいっ」
慌てて止めるキュロス様、だがカエデさんはもうすでに動き出していた。
手持ち鞄から筆記用具、さらに白紙の羊皮紙を数枚取り出す。並べて大きな一枚紙に見立て、ガチョウの卵――ではなく四角い枠のマスを描いた。ずらりと並んだマスの中に、さらに文字を書き込んでいく。わたしはアレッと声をあげた。
「これが双六? イベントマスが多くないですね。ガチョウならイベントは五マス毎一回くらいですが」
「そこは私の創作。刺激は多いほうが面白いでしょ? イベントの内容も、色々あったら楽しいじゃない」
わたしはカエデさんが書いたばかりの文字を読み上げて見た。
「『みんなのお茶を淹れる』『隣の人と握手』……これって、プレイヤーが実際にやるってことです?」
「そうそう。まあイベントはただのオマケ要素、勝負としては先にゴールすれば勝ちでいいよ」
「双六勝負とは、妙案でござったな。これなら一つの賽子を使い回すからイカサマは出来ない、技術も無い。純粋な運だけの勝負でござる。お子様も百戦錬磨の賭博師も、みんな一緒にほのぼのと遊べるでござる」
……子どもと賭博師が一緒に遊んでいるのは、ほのぼの、と言える状況なのかしら……。
雑談をしている間に、カエデさんの制作はサクサク進み、あっというまに盤面が完成。百ほどもあるマスのすべてにイベントが書き込まれていて、壮観だった。
これが双六。わたしの知っているガチョウのゲームとはずいぶん違うけど、こっちのほうが確かに面白そう!
「駒はどうしましょう? コインとか?」
「チェス用の駒ならあるよ。身ぐるみ剥いだ水夫が持ってた」
「あっいいですね! じゃあそれぞれが違う駒を持って……キュロス様はやっぱり王?」
――と、振り返って、キュロス様はまだ勝負自体を了承してないと気が付くわたし。し、しまったつい、ゲームが楽しそうだからってはしゃいでしまったっ。
「す、すいません! なんだか成り行きで、もう決まったことみたいに進めてしまって」
「……いや……」
わたしが謝ると、キュロス様は苦笑いしつつ、頭を掻いた。怒った表情ではなかったけど、快く了承って感じでもない。ああああ本当にやってしまった……!
半泣きになって反省しているわたしの後ろで、カエデさんが、ホホホっと笑った。わたしの肩をポンと叩き、「大丈夫」と囁く。それからキュロス様を見上げて、、
「可愛い奥さんの提案を、問答無用で却下だなんて、言わないよね?」
「……もちろんだ」
静かに頷くキュロス様。その声は、思っていたよりも柔らかかった。
「ただし、賭けの報酬は少々変更……上乗せをさせていただきたい。そちらが勝ったらイプスまで乗せてやる、プラス、水夫の借金は俺が払う」
「おや、それは助かるよ。どうせ取り立てできなさそうだったからね――で、あんたが勝ったら?」
「おまえ達の目的を話せ。今度こそ、おまえ達の国の神に誓って、真実を」
「…………いいよ。じゃあ、それで」
カエデさんは目を細めた。
それは間違いなく笑顔の形だったけど、憤怒の表情よりもずっとずっと、わたしの背筋を凍らせた。




