オトメゴコロ、オトコゴコロ
ルハーブ島滞在最終日、正午ごろ。
「マリー。どこだー?」
俺は浜辺で声を張り上げながら、最愛の婚約者を探していた。
常夏の島ルハーブは本日も晴天、波は穏やかで、絶好の海水浴日和。白砂のビーチは島民や観光客、彼らを狙った売り子も練り歩き、ごった返している。
マリー・シャデランは背が高い。おまけに燃えるような赤毛を持ち、人混みでも目を引く容姿の持ち主だ。こうしてうろついていれば、いずれ見つかるはず、ではあるが。
「マリー。マリー!」
ルハーブ島の治安は極めて良い。そして彼女にはガイドのイサクも付いていて、危険はないだろうが。
「マリーっ!」
……一刻一秒を争う心持で、俺は必死でマリーを探し続けていた。
――朝……なんとなく気まずい雰囲気になって。俺は島長のもとへ挨拶に行くと言い、外へ出た。
実際行きはしたが、ただ少しだけ時間を置きたかっただけなので、島長に用事など無い。男二人でなんとなくお茶を共にしたが、たちまち会話が無くなり、手持無沙汰のあまり島長といっしょにカスタネットを叩いてきた。実に無為な時間だった。
そうして宿に戻ると、客室のティーテーブルには手紙が置かれていた。
『水夫さんが荷物を引き取りにきたので、先に海辺に降ります。子ども達と浜で遊んでいるので、探してください』
それを見たとたん、俺は血の気が引いた。
俺を置いて行くなんて、明らかにマリーらしからぬ行動だ。やっぱりあの時、機嫌を損ねていたんじゃないか? だとしたらその原因は、もちろん直前の、俺との会話だ。
あの時、マリーは俺を見つめて、問うてきた。
「もしかして嫉妬ですか?」
――と。
俺は内心ひどく動揺しながらも、そんなことはないと断言した。
君を信じているから大丈夫、それより交友関係を制限したくない……と、本心半分、嘘半分の綺麗事を嘯いて。
マリー・シャデランは聡明だ。普段はおっとりのんびりしているようで、その実、他人の顔色をよく見ている少女だ。二度三度確認したのも、それ以上は追及せずに引いたのも、俺の本心を見抜いてのことだろう。
それでも俺は隠した。それが俺の思う、『良き夫』の像だから。
「マリーっ! どこだーっ!」
熱く焼けた砂を踏みながら、彼女を探して、歩き回る。
足を踏み出すたびに、後悔の気持ちが膨らんできた。
……もしかして、ちゃんと言ったほうが良かったんじゃないか?
実はちょっと、嫌だったと。
そうしていれば、彼女は機嫌を損ねなかったかもしれない。だが余計に、女々しい男だと嫌われたらどうする? 束縛されているように感じて、彼女が委縮したらどうする? そう考えると言えない――俺以外の男に触れないで欲しい、なんて。
「――くそっ……」
顎から滴る汗を拭う。
焼けるほど暑いのに、凍えるほどに血の気が引いていた。
俺はマリーと出会ってから、自分がこんなにも嫉妬深い男だと初めて知った。
相手がつまらない男なら、余裕があったんだ。マリーに嘯いた通り、彼女を信じているし自信もある。
だが――あのアンジェロという男。
俺は手のひらを見た。昨夜、奴とつかみ合いになった時の感触がよみがえる。剣を退けたあと、奴は
「キュロス殿は紳士だ、指が切れないよう動かずにいてくれた」と言った。とんでもない。動かなかったのだ。刃先を素手で握られて、微動だに出来なかった。
あいつはたぶん、俺よりも強い。
いや、そんなことはどうでもいい。そもそも競う必要は無いんだ。俺の本業は商人で、マリーは武闘に興味がなく、むしろ怖がっているようだし。
外見は、たぶん負けてない。同性の美醜はよく分からないが、アンジェロの容姿は『客観的に整っているほう』というくらいだ。地位や財力は圧勝、何よりもマリーへの愛情で、俺以上の男は絶対いない。俺が天井だから。
俺があいつに脅威を感じたのは、マリーの反応だった。
あの男と話す時、マリーの目はキラキラ光る。「その衣装、どうなっているんですか?」と問う彼女の表情――俺と初めて出会った日、イプサンドロスの話をした時と同じ輝きだった。
俺はその瞳に恋をした。彼女もあれがきっかけで、俺に好意を持ってくれたんだ。
「マリーっ‼」
ぽたっ、と大粒の汗が爪先に落ちる。暑い。
俺は深呼吸のフリをして、大きなため息をついた。
「……カッコ悪いな、俺」
その時だった。
「あーっキュロス様! こっちこっちーっ!」
海のほうから明るい少年の声がした。振り向くと、イサクの上半身が海から生えていた。
上半身裸で、下は粗末なズボンあたりだろう。典型的な島民の海水浴スタイルで、水浴びをしていたのだ。目を凝らすと周囲には弟達もいる。
俺は浜から声を張り上げた。
「イサク! 何やってるんだー!」
「何ってもちろん、海水浴です!」
「見ればわかるっ! マリーはどうした? 一緒じゃないのか」
「一緒ですよー!」
何? と、次の瞬間、イサクのすぐ横からマリーの首がひょこっと生えた。
「――ぷはっ」
全身を海中に沈めていたらしい。青い海に、濡れた赤毛がキラキラと光る。
水面に顔だけ出したマリーは、べえっと舌を出した。
「ふええ。海水って、目に沁みるのね! ひりひりして開けてられないわ」
ぷるぷる首を振るマリーに、子どもたちは大笑いした。
「当たり前じゃん!」
「ていうかなんでこんな浅いとこで潜るんだよ」
「うう……魚が足に当たったのよ。水中でなら見えるかなと思って……ああ目が痛い。びっくりして少し、口にも入れちゃった。口の中もひりひりする。海水って本当にしょっぱいのね」
「マリー様って、時々とっても世間知らずですよねー」
子ども達から容赦なく突っ込まれまくるマリー。塩が沁みて閉じた目も、やがて涙で洗われたのだろう。イサクが指さす方を見て、マリーはパッと顔を明るくした。
「キュロス様ー!」
……と。俺の名前を呼びながら立ち上がる。マリー・シャデランは背が高い。子どもの腰までしかない浅瀬では、膝から上が現れる。
――って……えぇっ⁉
「今そっちへ行きますねー、そこで待っててください」
水に足を取られながらも、こちらに歩いてくる彼女。
俺はその衣装に驚き、言葉が無かった。
水着だ。島民が着ているような下着でも、水仕事用の『濡れてもいい服』でもない。観光客向けの土産物屋にあったものだ。
一見、簡素なワンピースドレス。素材は伸縮性のあるシルクと綿の混合だろう。艶のある生地に、ルハーブらしい鮮やかな花や葉の模様が描かれている。膝下まであるロングの巻きスカートで、露出度的にはいつもとさほど変わらない――のだが。
マリーは海から上がり、俺の傍まで歩いてくる。濡れた裸足に着いた砂粒が、妙に煽情的に見えた。
「お待たせしました。すみませんわたしだけ、海で遊ばせてもらってました」
彼女の涼やかな声が、なぜかすぐ近くで囁かれたみたいに聴こえる。
「あ……ああ。いやウン――そうだ。もうじき乗船だもんな。泳げるのは今しかない」
「ええ、それにこの水着も、せっかくだから着てみようかと」
そう言って、彼女はほんの少しだけ、スカートの裾を持ち上げた。
「どうでしょう?」
「……どうって」
俺はなんとなく薄目で、彼女の姿を一望した。
……それほど肌が見えているわけではない。だが、薄くて柔らかな生地が水に濡れ、体のラインがくっきりと分かる。
巻きスカート越しでも明らかに分かる、細くくびれた腰に、長身相応のすらりと長い手足。どきりとするほど華奢な首、薄い肩、それでいてここぞというところにしっかりお肉が付いているという――。
俺はその感想を、本人に伝えることは避けた。ただ「似合うよ」とだけ、紳士の笑顔で伝える。
「それって土産物屋に売っていたやつだよな? 買ったのか」
「いえ、もらったのです。今朝、カエデさんから。メッセージカードも付いて――『お詫び兼、これからの友情に』って」
俺は半眼になった。お詫びはともかく、これからの友情ってなんだ?
本人がここにいれば首根っこを掴んで問い詰めたいところだが、彼らはホテルでくつろいでいるだろう。わざわざ訪ねてまで聞きただす気になれない。
マリーもあまり気にしていないようだった。海水浴の続きをイサクにせがまれ、はーいと明るく返事をした。いったん俺に背を向け、すぐに振り返る。
「キュロス様も泳ぎましょう。お店には男性用の水着もありましたよ」
俺は一瞬、脳が摩擦で焼けるほど悩んでから、首を振った。
「いや、俺は日陰で待っておくよ。君はイサク達と楽しんで」
――一緒に泳いでいたら、迂闊なことを口走りそうだし。
それで踵を返し、適当な木陰を探していると、後ろから袖を引かれた。マリーである。
「ん? どうした?」
振り返っても、彼女はなかなか話しださない。赤面して俯き、何かをぼそぼそと呟いていた。屈んで耳を澄ませると、彼女は手のひらで口元を隠し、小さな声で、囁いた。
「これ、巻きスカートは上から重ねてきているんです。パレオって言って……本当なら外して泳ぐものなんだって」
「…………うん?」
俺は彼女の足元に視線をやった。確かに、スカートは別パーツになっていて、腰元で縛られているようだった。
「……あの……。でも、やっぱりここで取るのは、無理でした。こんな大勢の人前で、足やお腹を出して遊ぶのは、はしたないというか。あの――ディルツでソレは普通ではないので……」
「ああ、そうだな」
ディルツの社会通念上、女性が足を露出して出歩くことは無い。ついでに夏も涼しいので、水遊びの習慣がない。開放的な南国の地とはいえ、生粋ディルツ人のマリーが恥ずかしがって当然である。
それに俺としても、愉快な気持ちになれない。いや、正直言って、かなり嫌だ。
女のそうした姿を見れるのは、夫か、将来を誓い合った婚約者だけなのだ。今だって周りの男からチラチラと視線を感じるのに、露出をしてほしくない。マリーの身体を他の男に見せたくない。
そんな本音をグッと飲む。楽しく遊んでいるのを邪魔してはいけない。
俺はニッコリ笑って、
「まあ無理して現地人の露出度に合わせる必要は無い。異文化交流とは一方の文化だけを受け入れるものではないんだから。マリーのペースで楽しんでおいで」
と、立ち去りかけたのを、また止められる。
マリーは俺の服をがっちり掴んで、再び屈んで耳を貸すようクイクイ引いた。そして、彼女は囁いた。
「俺以外に見せるな、って、言わないんですか?」
………………。
「……………………えっ」
目が点になる。
「言ってもいいです。……言ってほしいです」
マリーは服の裾を掴んだまま、じっと俺を見上げていた。俺の返答を待っている。
俺は、言葉を迷った。その場に直立し彼女と見つめ合ったまま、思考だけぐるぐると動かしていた。人生でこんなに言葉に悩んだことは無いかもしれない。
さんざん悩んで、考えて……やっと出てきたのは、シンプルな本音だった。
「俺以外には、あんまり見せないで欲しい」
口にした途端、いたたまれなくなって顔を背ける。マリーはそうした俺の顔を掴み、無理やり自分に向けさせた。もう一度視線をしっかり重ねてくる。続く言葉は、やはりシンプルだった。
「わたしも。あなたのそんな顔を、わたしだけのものにしたいって思っているのよ」
それから一瞬、触れるだけのキスをして、彼女はすごい速さで後ずさりした。全身が真っ赤に染まっている。俺が捕まえようとした手をするりと躱し、赤い髪とパレオの裾をたなびかせて、海へ戻っていった。
波間に消えるマリーを、呆然と見送る。
幻みたいな出来事で、わずかに残った唇の余韻だけはずっと残り続けていた。




