東の果ての従者
二泊三日、楽園の生活最後の朝。
わたしとキュロス様は、またもハンモックの上で目を覚ました。
アンジェロさんとカエデさんは、昨夜のうちにもともと取っていた浜辺のリゾートホテルへ帰ったけれど、客室のベッドよりこっちがいいと我儘を言わせてもらったのだ。
やっぱりハンモックのベッドって、寝起きが良い! 背伸びをすると、お尻の下がゆらゆら揺れるのがまた楽しい。
「キュロス様、グラナド城のどこかにもハンモックを置けないかしら。庭園とかバルコニーとか」
「そうだなあ、ディルツは寒い国だから、真夏の昼寝にくらいしか使えなさそうだが……いっそ風呂場に置いて、風呂上りの外気浴っていうのはどうだ?」
「素敵! それいいっ!」
イエーイと空中でハイタッチして、わたし達は飛び跳ねるようにハンモックを降りた。
それから朝食を取るために宿へと入る。そこでわたし達は、意外な人物と遭遇した。
「あれっ、アンジェロさん」
名前を呼ぶと、ぺこりと頭を下げて会釈をする。その手には熱々の料理が入った陶器鍋。いつもの着物に、白いエプロン姿。……どう見ても、朝食づくりを手伝わされている構図である。
「おはようでござる。少々お待ち下され、もうじき朝餉の準備が整いますゆえ」
「いや何やってるんだおまえ。朝食なら自分のホテルで食えるだろう」
「食べてきたでござる。これはただ、テンダーママにこき使われているだけでござる。とほほでござる」
……アンジェロさん、もうこの宿は引き払ってるのに……。ルハーブの民ってもしかしておおらかなのではなく、容赦がないのかもしれない。
しかし働かせるほうもどうかと思うけど、働くほうも働くほうだわ。
キュロス様はもう突っ込む気も失せたのか、とにかく面倒くさそうな顔をして、黙って座った。わたしもとりあえず席に着く。
「今朝の朝食はシナモンのチュッロスと、パン・コン・トマテ、生ハム入りスープのソパ・デ・アフォでござる。ソパ・デ・アフォは本来たっぷりニンニクを効かせるとのことですが、一日の始まりということで、風味付け程度に控えたでござる」
「アンジェロさんが作ったんですか?」
どんどん並べられる料理を前に、ポカンとするわたし達。アンジェロさんは特に胸を張るでもなく。
「拙者は、カエデ様の従者でござる。この旅でカエデ様が必要なことは、なんだって出来るでござるよ」
……さらりと、本当に当たり前みたいにそう言った。
ふと、グラナド城のある女性を思い出させた。従者ってみんなこんなに万能で、つかみどころのないものなのかしら。
一口、まずスープから食べてみる。
「……美味しい」
「……美味いな」
キュロス様も、ちょっと苦々し気に呟いた。
にっこり笑うアンジェロさん。
「それは何より。どうぞごゆっくりお召し上がりくだされ。子どもたちには先にお腹いっぱい食べさせたでござる」
お言葉に甘えて、スフェイン風の朝食を堪能する。
本当に、どれを食べても全部美味しい。
大満足で食事を終えた後、デザートのフルーツでまた舌鼓を打つ。昨日も思ったけど、ルハーブ島はフルーツが豊富で絶品だった。近年は漁業以上に果樹栽培と輸出が盛んだそうで、出来がイマイチなものは無料同然、各家に配られて、子どものオヤツになるそうだ。
出来が悪いと言っても見た目だけ、味は十分に甘くて美味しい。新鮮な魚もだけど、ディルツでは高級な物が、ジャガイモくらい気軽に食べられている。それでいて牛乳が貴重で、生乳を飲んだことが無いなんて、不思議な感じだ。
「世界って広いなあ……」
「マリーは本当にそればかりだな」
クスクス笑うキュロス様。
「だってそう思うんだもの。キュロス様こそ。わたしがこう言うのをいい加減聞き飽きてもよさそうなのに、いつも楽しそうに眺めてくるじゃない」
「仕方がないだろう、可愛いのだから」
そう言って、また笑う。もーっ。
わたしは頬を膨らませて、キュロス様のお皿からチュロスを一つ盗んでやった。あーっ! と悲鳴を上げる彼に背を向けて、パクリ。うん美味しい。キュロス様はフォークを握り締め、悔しそうに呻いた。
「それ最後に残しておいたのに……マリーに、アーンってやりたかったのに……」
「やりませんよっ⁉」
「いいじゃないか、誰も見てないぞ」
「そういう問題じゃなく――というか、アンジェロさんもいるじゃないですか」
わたし達のやり取りを、アンジェロさんは目を細め、ずっと黙って眺めていた。彼はわたし達と目があうと、「お気になさらず」と手を振って、それから、エプロンを外した。
「お食事が済んだら、少しばかり、拙者にお時間をいただきたい。よろしいでしょうか」
「え? ええ、どうぞ……」
わたしが促すと、彼は膝を曲げ、床に座り込んだ。まっすぐ背筋を伸ばし、手のひらを床に付ける。
「……改めて、謝罪をしたい。お二方には大変ご迷惑をおかけした。この小林杏侍郎、我が主カエデ様に代わって、この通り、お詫び申し上げる」
ゆっくり腰をまげて、頭を下げた。
「昨夜、お話した内容に、もう嘘はござらん。カエデ様はただ女だてらに商売を繁盛させるのが楽しいだけの、お嬢様でござる。あなたがたへの敵意はなく、商売の邪魔をするつもりなど初めから皆目無かった」
しかし、と、彼は続けた。
「産業スパイとして近づいたのも、あなた方にたくさんの嘘を吐いたのも事実。当人はゴッコ遊びのつもりだったと言って、ならば無罪とはならぬでしょう」
「……ああ。それはそうだ」
「許してくれと乞いはせぬ。カエデ様のぶんも、拙者に罰をお与えくだされ。拙者はそのために、ここへ来たでござる」
二人の会話を、わたしは黙って聞いていた。
グラナド商会の運営は、キュロス様のお仕事だ。わたしは妻として支えはすれども、決定権はもちろん彼にある。彼らは悪い人ではない、許してあげてなどと、余計な口を挟まない。
キュロス様は渋い顔のまま、じっとアンジェロさんを見下ろしていた。
キュロス・グラナド伯爵は、優しい人だ。だけどただ甘いだけでは、城も商家も護ってはいけない。強く厳しいところもあると、わたしは知っていた。
でも実害はなかったんだし、アンジェロさんは明らかにカエデさんを庇っているだけだ。厳しい罰は与えない……と思うけど……。
キュロス様の緑の目は鋭く、彼を睨みつけていた。
「……昨夜も言った通り、盗み聞きについては、もういい。あの女に何か罰を与えたいなどと、願ってもいない」
言葉は優しい。けれど、声は酷く冷え切っていた。
「だが、アンジェロ。おまえのことは許さない」
「……マリー殿にちょっかいを掛けた件でござるか」
アンジェロさんは顔を上げると、目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をした。
「さもあらん。貴族の奥方に色目を使うなど、国によっては即極刑。覚悟は済ませてある」
その所作は本当に、覚悟を決めた男のものだった。わたしは息を呑み、さすがにキュロス様を止めようとした。だってアンジェロさんからのちょっかいだなんて、わたしは何とも思っていなかったわ。だって彼がわたしのこと、なんとも思っていないのなんて明らかで――。
「それじゃない。おまえがマリーを女として見ているわけでないのは明らかだった」
わたしが止めるより前に、キュロス様はきっぱりと言った。「おや」とアンジェロさんが目を丸くする。そんな彼を、キュロス様は憎々し気に――あるいは子どもが拗ねたみたいに顔を背けて、吐き出した。
「俺が許せないのは、それをマリーにバラしたことだ。マリーはおまえと仲良くなれたと思い、喜んでいたのに」
――え?
目を点にするわたしと、アンジェロさん。
……ええと。
「それは……拙者が奥方に好意を寄せているのを咎めるではなく、むしろそれが、嘘であったことにお怒りを……」
「だからそう言っているだろうが」
不機嫌丸出しの声で、キュロス様は肯定する。
「マリーは、あからさまに警戒していた俺と違い、できるだけおまえ達に親切であろうとしていたんだ。本当は俺よりもずっと人見知りなのに。それをおまえ達ときたらわざと無視して傷つけて、さらに好意的だったのも演技だと? それではマリーが可哀想だろうが!」
「…………はあ」
「あ、あの、キュロス様?」
わたしは今度こそキュロス様の袖を引き、荒ぶる彼を鎮めようとした。
「それはもういいんです、異国の方と仲良くなりたいっていうのは、ただのわたしのワガママで」
「ワガママじゃないっ!」
キュロス様はきっぱり言い切った。
「人間同士、気が合わなかったなら仕方ない。だからカエデに対しては、マリーも一線を引いているだろう。だからアンジェロのほうが罪深いんだ。あれだけ親密に接しておいて、実は全部演技でしただと――それがマリーをどれだけ傷つけたと思っている? 謝る相手は俺じゃないだろう」
……あ……。キュロス様、本気で怒っている。
わたしは胸の奥に、ぎゅっと締め付けられたような痛みを感じた。
それは、今の傷じゃない。遠く古い、昔の記憶だ。
――ずたぼろ娘、ハズレの妹。醜い、可愛くない、役立たず――わたしは十数年、両親からそう言われて生きてきた。
学校に通い始めてからも同じだった。それでもわたしは、彼らに話しかけるのをやめなかった。家族に愛されることはない、恋をするのも無理だろう。だけど友達ならできるかもしれない。そう期待して、毎日通い続けた。
文字通り鼻を抓まれて、石を投げられても。
誕生日にカラッポの箱だけ置かれても、手紙で呼び出されて、誰も来てくれなくても。かくれんぼで放置されても。
ずっと我慢していれば、いつかは仲良くなれるんじゃないかって。悪いところを全部直したら、友達になってくれるんじゃないかって――ずっと――。
「あっ……」
ぽつっ、と落ちてきた雫を、拭いもせずに見つめる。
……数年越しに、やっと気が付いた。わたし……傷ついていたのね。
だけどその傷は過去の物、ただの思い出し泣きだ。わたしはもう強くなっている。
……うん、大丈夫。カエデさんやアンジェロさんと、仲良くなれなかったのは残念だけど、ただそれだけのこと。わたしにはもう、他に大事な人がたくさんいるんだもの。
ぽんぽん、と背中をさすってくれるキュロス様に、わたしは黙ったまま、甘えて凭れた。
アンジェロさんはしばらくそれを、半ば呆然と見上げていた。わたし達の反応は、彼にとって全く想定外だったらしい。ずいぶん長い時間、青い目を丸くしたままだった。
やがて……彼はホォと浅い息を吐く。再び床に手を付けるかと思いきや、逆にまっすぐ、背筋を伸ばした。
「そういうことならば、謝罪は拒否するでござる」
「なんだと?」
「キュロス殿がお怒りである、拙者がマリー殿に好意的言動をした件について。拙者、なんら詫びることも訂正することもござらん。カエデ様に命ぜられたからではなく、拙者はマリー殿が好きでござるよ」
「えっ――」
「なっ――!?」
赤面するわたしと、横でもっと顔を赤くしたキュロス様。アンジェロさんは特にどうということもない表情で、ひょいと身軽な所作で立ち上がった。裾の砂埃をパタパタはたく。
「ではこれで、一件落着ということで。拙者、これで失礼つかまつる。御免」
と、制止する間もなく扉に手をかけ、庭へ片足を下ろしてから、アッと呟き振り返った。
着物特有の豊かな袂から、なにやら小袋を取り出すと、
「忘れるところでござった。マリー殿、こちらを」
ぽいっと投げてよこす。見事、わたしの手元に届いたそれは、柔らかな感触で、カラッポみたいに軽い。
「カエデ様から、マリー殿への贈り物でござる。きっとハンカチーフよりも、涙を止める役に立つかと」
「あっ――おいっ!?」
言うだけ言って、疾風の速さで去ってしまったアンジェロさんを、キュロス様が追いかける。キュロス様も走るのは早いけど、絶対追いつけないような気がする、なんとなく。
……一人残されたルハーブの宿。わたしは小首をかしげながら、受け取った小袋を開いてみて――。
「こ、これはっ!?」
悲鳴を上げ、すぐに小袋の封をする。そこへちょうど、キュロス様が部屋へ戻ってきた。
「くそっ、逃がした。……あいつすごいな、崖を走って降りて行ったぞ」
「あ――ははは、そうなんですか、それはすごいですね」
わたしはそれを後ろ手に隠し、へらへら笑う。キュロス様はすぐにわたしの不自然な笑顔に気が付いた。訝しげに眉を顰めて、近づいてくる。
「何か隠した? いや、その袋か。カエデからと言っていたな」
「え、ええ。その……贈り物をいただきました」
「なんだった? まさかイタズラで腐った魚とか、バネ付きの人形が出てきたわけじゃあるまいな」
「そんなまさか、ルイフォン様じゃあるまいし」
当たらずとも遠からずだけど、とは言わないで置く。
キュロス様は納得いかないなりに、追及しないことにしたらしい。顎に手を当て、ため息をついた。
「あいつら、宿は浜辺のリゾートホテルと言っていたな。乗船するのにどうしても浜は通らざるを得ないが、ばったり出くわさないよう、変装でもしていこうか」
「……えっ……」
「アンジェロ達に見つからないよう、こっそり島を出よう。また会ったら何を言い出すか知れない」
不機嫌そうな、キュロス様。わたしは小袋をテーブルに置くと、彼に近づき、じっと見上げた。
ん? と見つめ返してくる彼。
……その表情は穏やかで、冷静だけど……。
「――キュロス様、どうしてアンジェロさん達を避けるんですか?」
黒く凛々しい眉がピクリと跳ねた。




