夢ならば楽しみましょう
王国では、たとえ貴族でも夕食は簡素に済ませる。昼食をいちばん豪勢にし、夜は体を休めることに専念するのが慣わしだ。
伯爵家でもそれは同じらしい。ライ麦のパンとブイヨンスープ、豚肉のカツにホワイトソースをかけたものの三品で、シャデラン家のものと変わりなかった。皿数だけは。もちろん、素材や味のクオリティは比べものにならない。
ティーテーブルにすべてが並ぶまで、キュロス様は何も話さなかった。わたしも黙って配膳を待つ。
料理を口に運んだ。
「美味しい……」
思わず呟く。キュロス様が口を開いた。
「これは政略結婚なんかじゃない」
フォークが止まる。
「……どういうことでしょうか」
「元々、俺は君に求婚をした。あの夜、中庭で出会った赤毛の君に。アナスタジアへの手紙は……全く、意味がない。ただ、名前を取り違えていただけなんだ」
「……。……光栄でございます」
「……信じていないな?」
緑の瞳が、じっとわたしを見つめる。わたしは苦笑した。
「お気遣いいただかなくとも大丈夫ですよ。キュロス様はお優しい方ですのね」
「やっぱり信じていないじゃないか」
呆れたように嘆息するキュロス様。
本当に気を遣わなくていいのに。予定通りの政略結婚だ。貴族の子として――それらしい贅沢などしたことはないが――ずっと昔から覚悟はしている。それはキュロス様だって同じ、いやわたしよりもずっと、その責務を背負っておられるはずだった。
わたしと成婚した後は、きっとすぐに側室を取られるのだろう。わたしは子を産むこともなく、ひょっとしたらシャデラン家よりも働かされるかもしれない。あのずたぼろの作業着を纏って。
それで構わないと思った。今までと何も変わらないだけだ。
無言のまま食事が終わる。
キュロス様はまだ無言だった。
食後のお茶に手もつけず、黙ってわたしと向き合っている。
「……あの。何か、言いつけが?」
問うてみる。彼は言った。
「俺はマリーが好きだ」
…………。
……今までで一番、意味が分からない言葉だった。
頭に何も入ってこない。
わたしの返事をしばらく待って、やがてキュロス様は立ち上がった。
「分かった。とにかく婚約は成立した。君はこれからこの城で暮らすことになる」
「……はい、畏まりました」
「三ヶ月後には婚約式だ。厳粛な結婚式とは違い、両家の縁者を招き華やかな宴会になる。衣装などはこちらで用意をするから、マリーは何も心配しなくていい」
「畏まりました。来賓に、伯爵様が恥ずかしくないよう務めさせていただきます」
「……それまではくつろぎ、ここでの暮らしを楽しんでくれ。この城を好きになってくれたら――」
「あっ、待って下さい!」
わたしは慌てて、彼を引き留める。彼はびくっと肩をふるわせ、振り向いた。
「な、なにか?」
「一度、うちに帰らせて下さい」
「シャデラン家に? それは構わないが、なぜ」
「ここに来る前、父に強く言われていたのです。用済みになったらすぐ帰って来いって」
キュロス様は眉をしかめた。
「……用、とは?」
「父も婚約が成立するなんて思っていなかったのです。だから一夜だけ伯爵をお慰めして、家のご縁が出来たら追い出される予定でした」
「はぁぁあ?」
という、魔界の地鳴りのような声はミオが上げた。
「わたしもまったく想定外の展開で、父がどうお考えなのかわかりません。とりあえず一度、家に帰って指示を仰がないと……」
キュロス様は黙り込んでいた。一瞬、唇が震える。
だが結局何も言わないまま、部屋を出てしまった。
ミオがあとを追い、すぐまた戻る。
「恐れ入りますがマリー様、ご実家への帰省は、禁止させていただきます」
「えっ? ど、どうして?」
「旦那様からの指示です。もしシャデラン夫妻が訪ねてこられても、対面は必ず旦那様の許可を得て、旦那様か私の同伴があるところでお願いします」
ミオの言葉は厳しかった。
わたしは何も言えなくなって、俯く。
そこで初めてミオは眉を寄せた。心から不思議そうな声を漏らす。
「あなたはなぜ、自分が不細工だなんて、思い込んでいるのですか?」
「――なぜ? なぜって……。
それは――お父様と、お母様が。
お姉様が。事実、ずたぼろの髪と爪と作業服が――鏡が……」
「挙げられた物のなかで、いまここにあるのは鏡だけです。どうぞ存分に、鏡と向き合って下さいませ」
……鏡と向き合う。
それで、何になるというの?
ミオも部屋を出る。
豪奢だけども、何にもない部屋。あとにはわたしと、鏡に映る、知らない誰かだけが残されていた。
何もない夜をただぼんやり過ごし、深夜、化粧を落とすために湯をもらう。
ベッドの寝心地は抜群だった。だけど眠れない。今日一日色んなことがあって、疲れ果てているのに。ベッドはふかふかで温かくて、夢のような柔らかさなのに。
――そう、まるで夢のような一日だった。
いいえ本当に夢だったのかも知れないわ。馬車に乗せられたあの時から。
明日になれば何もかも……白亜の城もドレスも靴も、お茶もお菓子も……強い侍女も、緑の瞳の伯爵も……すべて消えてなくなるの。
あとには元通り、薄暗い物置部屋に、ずたぼろのわたしが一人でいるだけ。
そう思うと、何故かわたしは安堵した。クスッ、と笑い声を出す。
そうだ、これはきっと夢。
それなら何もかも納得できる。これは夢だから、あの綺麗な女性はやっぱりわたし。無表情でやたらと強い侍女も、夢の中なら可笑しくない。そして伯爵様がわたしの婚約者で、わたしを好きだと言ってくれたのも――
夢ならば、素直に嬉しいって思えるの。
とたん、ボッと頬が紅潮した。
うわあっ、いやだわたしったら恥ずかしい!
いくらあの夜、出会った紳士が素敵だったからってこんな妄想を見るなんて。いやらしい、恥ずかしい、一体どうしちゃったのだろう。
俺はマリーが好きだ。マリーと結婚したい。綺麗だ。
そんな言葉が今になってドサドサ頭上から降ってくる。うわああああっ。
「あーあーあーーあーあーーーっ」
声を上げながら顔を枕に押しつける。さすが魔法の枕、素晴らしく柔らかい。それになんだかいいにおい。とたんに蕩ける眠気に包まれて、わたしは目を閉じた。
はるか遠く――教会が打つ時報の鐘が、がらんがらんと鳴っている。
やがて朝が来て、目が覚める。しかし魔法は解けることはなく、なにひとつ消えはしなかった。




