キュロス様は警戒している?
……え?
驚いて見上げる。抱きしめられた状態なので視線を向けただけだけど、キュロス様の表情は真剣で、アンジェロさんをまっすぐに睨みつけているようだった。
「キュロス様……?」
アンジェロさんは、肩をすくめた。無精ひげを指で撫で、口元を隠し、目を細める。
「少々、世間話をしていただけでござるよ。おはようございます、キュロス殿。昨夜は客室を譲っていただき――」
「マリー、行くぞ」
アンジェロさんの言葉を聞かず、キュロス様はわたしの手を掴み、背を向けた。そのまま早足で歩きだす。
「キュロス様っ? ど、どうなさったの?」
わたしは悲鳴のような声を上げ、慌ててキュロス様の腕から抜けた。しかしすぐにまた捕まって、今度はもっと強く拘束される。
「ええと、キュロス様は外でって言われたから? あれはアンジェロさんの冗談よ。世間話をしていただけ、わたしから話しかけたのだし何も失礼なことはされていないわ」
むしろキュロス様の態度のほうが、アンジェロさんに失礼だった。昨夜はまだ、突然現れて客室を譲れと言う彼らに警戒するのは仕方ない。だけど今のはただただ不作法なだけ。
どうしたのキュロス様、他人に対しこんな態度を取る人ではないはず。
キュロス様に手を引かれながら、わたしは肩越しにアンジェロさんを振り向いた。彼は何も気にしていないように、薪割りを再開していた。
……わたし達は無言のまま、しばらく歩いて……。
「キュロス様、マリー様! おはようございまーす!」
ホテルに入るなり飛んできた明るい声に、ホッとする。
「おはようイサク。昨夜のハンモックは最高だったわ、ありがとう」
「それは良かったです! さあ、朝ごはんの支度が出来てますよ」
『テンダーさんのお宿』のリビングテーブルには、豪勢な朝食が用意されていた。数種類のパンとトマトのスープ、魚の揚げ物が所せましと並んでいる。テンダー一家もすでに食べ始めていていたけど、減ったぶんは、女将が追加の料理を運んできていた。
「どんどん食べな、早い者勝ちだよ!」
キュロス様は「おおー」と明るい声を上げ、空いている席に腰を下ろした。
「美味そうだな。イサクも手伝ったのか?」
「ぼくはパンを焼いただけです。でも美味しく出来ました!」
謙遜とも自慢とも取れない発言にまた笑う。
……いかにも今から朝食が始まりそうな雰囲気だけど、あの二人はいいのかしら。イサクに確認してみると、二人とも今よりもずっと早い時間に済ませているのだそう。
キュロス様は彼らの存在に言及することもなく、パンにチーズをたっぷりと乗せ、ほおばった。
「――うん! 美味い。前に来た時は給仕を手伝うだけだったのに、もう料理まで出来るようになったのか。子供の成長は早いな」
……明るい、いつものキュロス様だ。わたしはもう気にしないことにした。アンジェロさんにはあとでわたしが謝っておけばいい。
わたしも、ルハーブの朝食を堪能する。
昨夜に続き、どの料理も本当に美味しい。決して凝っているわけではないのだけど、素材一つ一つが良いのだろう。特に野菜が美味しい! ディルツにもある野菜も、味が濃いように感じられる。
焼いて塩を振っただけのパプリカが絶品。食後のオレンジジュースが、泣けてくるほど美味しいっ……!
いちいち感動しているわたしを見て、イサクは嬉しそうに破顔した。
「でしょう? これもルハーブの名物です。青い空と青い海、白い街並みと、美味しい料理!」
「本当に美味しい……新鮮な海産物がこんなにたくさんなんて、すごい贅沢。こんなの宮廷料理でしか食べられないと思っていたわ」
わたしが言うとキュロス様も女将もみんながどっと大笑いした。
「ディルツでは海産物が貴重だからな。海岸のほとんどが険しい崖で、漁船が少ない。ルハーブの民はむしろ、マリーの故郷、シャデラン領の牛肉や乳製品のほうが希少に感じているだろう」
キュロス様が言うと、子ども達の目が輝いた。
「牛? マリー様のお家には牛がたくさんいるの?」
「ええ――わたしの家で飼ってたわけじゃないけど、村には人間より牛の方がたくさん住んでたわ。あとはロバと羊とヤギと」
「ロバ? 羊?」
子どもたちが首を傾げる。彼らの反応にわたしも疑問符を浮かべていると、キュロス様が解説してくれた。
「ルハーブ島にはそういった家畜はいない。スフェイン本土から、干し肉やチーズに加工されたものが入ってくるだけだ。現物は絵本くらいでしか見たことが無いだろう」
なるほど。だけどわたしが見たところ、この家には絵本らしいものはなかった。家族のリビングでもある広間には小さな本棚が一つだけ、中には読み書き計算を学ぶ薄い冊子がひとつあるきりだ。読書を楽しむ習慣は無く、商売で必要なことだけを学んでいるのだろう。
尋ねてみると、今この家で数字の計算が出来るのは、十歳のイサクただ一人だけらしい。そしてそんなイサクがルハーブでは珍しいほどの秀才で、観光ガイドの仕事をするため、特別に学んだ子なのだとか。
「ディルツは全体的に、教育水準が高い国だったのね」
今更、わたしは自国のことを理解した。
「……シャデラン領は田舎だったけど、王都との取引がさかんだったから、農家でも最低限の読み書き計算は学習していた。一軒だけとはいえ外国語も学べる学校もあったし。家にもお祖母様の遺産で、珍しい本がたくさん揃ってた」
「ああ。マリーは、学習の環境には恵まれていたほうだな」
キュロス様が少し複雑な表情で言った。そう、色々と事情があってのことだけど、幼少から受けてきた高度な教育は、今、間違いなくわたしの身になっている。
まだ温かいお茶を一口飲んで、わたしはホウ……と息を吐いた。
「異国を知ることは、故郷を理解することにも繋がるのね。……世界って広い。本当に、知らなかったことがいっぱいだわ」
「ふふっ、旅に出てから、マリーはそればっかりだな」
キュロス様が優しく微笑んでそう言った。
「やはり、リゾートホテルではなくここで宿を借りたのは正解だった。観光案内のパンフレットには載っていない事に、マリー自身が気付いていく」
「……ありがとうございます。本当に、何よりのプレゼントをいただきました」
わたしは微笑むと、真横に体を倒し、キュロス様にもたれかかった。彼の肩にコテン、と軽く、頭を置く。すぐに人前だと思い出し、慌てて体を離したけれど。
キュロス様も照れたらしい、褐色の頬に少し赤みが差している。コホン、と咳払い。
「よ、喜んでもらえて何よりだ。……まぁ、本来の目的は現地との人との交流ではなく、商談だったんだが……」
「商談って、島長との約束ですよね。ディルツかイプスのものを、何か販売する予定だったのですか?」
よくわからないなりに聞いてみると、彼は難しそうな顔をした。
「……いや……。なんというか、もう少し複雑な話でな。……島の近海では昔から、質のいい天然真珠が採れる。それはマリーも知っているな?」
「ええ。ディルツやその周辺国で出回っている真珠は、ほとんどこのあたりで採れたものと」
「そう。ところが近年、東洋で真珠の養殖技術が開発されてな――このままだと、天然真珠産業が脅かされる。俺は世界宝石協会から調整役を頼まれて、この島に立ち寄ったんだ」
なるほど……そう言えば以前、執事のウォルフガングとそんな話をしていた場面を見た気がするわ。
天然真珠と養殖真珠の価格競争――わたしには宝石の知識なんてほとんどないけど、国一番の大商家であるキュロス・グラナドが調整役に引っ張り出されるということは、かなり深刻な事態だと想像できる。
キュロス様はご自身の商売の利益うんぬんよりも、また別のことを憂いているようだった。口元を手で覆い、大きく嘆息する。
「……この小さな島で、天然真珠漁は貴重な現金収入源になっている。流れによっては、暮らしを大きく変えてしまうかもしれない。事は慎重に進めないと……」
そう彼が頷いた時だった。
ドンドン、と扉がノックされた。今、島でこの扉をノックするのは一人しかいない。女将が返事をすると、やはり金髪の青年、アンジェロさんが立っていた。
「あのう――キュロス殿たちに、お客さんでござる」
「客? なんだ、また部屋を譲ってくれという旅人か?」
キュロス様の皮肉に、アンジェロさんは一切動じなかった。大人の余裕を感じさせる微笑みで、自身の後ろにいた、来訪者を通す。
七十歳ぐらいの老人だった。「やあ」と気軽に手をあげた老人に、キュロス様が叫ぶ。
「島長! なんでこんな時間に?」
「ん。そりゃあ、昨夜はカスタネットに夢中だったからのう」
「……そうじゃなくて……」
「栗の木と違うもんで、音が変わって面白ぅてな。しかし一晩中叩き続ければさすがに飽きた」
キュロス様は頭を抱えた。
もともと島長と商談の約束していたのは、昨日の夜。それが急にキャンセルになって、出直すことになった――となると、仕切り直しは今日の夜だと、キュロス様もわたしも思っていたのだ。
それがまさか、こんな早朝から来るなんて。
わたし達の様子で、あまり歓迎されていない気配を感じたらしい。島長は、ふさふさした白い眉を垂らした。
「いかんかったか? ……じゃあ、帰る」
「待て待て待て待て!」
キュロス様は慌てて引き止めた。
まあ、そうよね。ここで帰らせてしまっては、今夜も明日の朝にもまた何か用事で――例えば急にイプス料理が食べたくなって船に乗ったとか、眠たくなったから寝たとか言いそうだもの。
「わかった、今すぐ話そう。テーブルを片付けるから少しだけ待っていてくれ。ああ書類も鞄の中だ……女将、預けていた荷物をここへ」
「はいよう」
立ち上がって部屋を出ていく女将。
……昨日見た感じ、キュロス様の荷物はたくさんあり、どれも重そうだったなと思い出した。
「わたしも手伝います。女将さんだけで運ぶのは大変でしょうから」
と、席を立つ。
「ああ、助かるよ」
女将は素直に任せてくれた。それもそのはず、荷物は厨房、防犯のため上棚に置かれていたのだ。平均男性並みに背が高いわたしでなければ、取るのにちょっと苦労をしただろう。
キュロス様の鞄を回収し、わたしは食卓へと戻ってきた……すると、ふくれっ面をした子ども達の姿を発見。ひどく退屈そうに、食器の片づけをしていた。
ああ、きっと食後はこの部屋で、のんびり遊ぶ予定だったのね。それが小難しい商談で占拠されると察して、退屈を覚悟したのだ。
末っ子の三歳児なんて泣きそうな顔で、それでも黙々とテーブルを拭いていた……みんないい子だわ。
「それじゃあ、キュロス様達のお話が終わるまで、わたしと外で遊びましょうか」
「えっ、本当? 遊んでくれるの?」
子どもたちの顔がぱあっと輝く。あらら、しっかり者のイサクまで。わたしはクスリと笑ってしまいながら、頷いた。
「ええ。と言ってもわたしもあまり子どもの遊びが分からないけど……しりとりとかなら」
「教えてあげるよ! 山を越えて、ポップコーンビーチに行こう!」
「ポップコーン?」
「ぼくが案内します。少し岩場を歩くから、お弁当を作りましょう」
歓声の中、右にも左にも子どもに群がられるわたし。キュロス様に挨拶を――と思ったが、キュロス様は、渋い顔をした。
「あ――いや。すまん。マリーはここにいてくれ」
「え?」
わたしはキョトンとなった。
今まで、キュロス様が商談の席にわたしを積極的に着かせたことは無い。どうしてだろう……? 途端に子どもたちからブーイングが上がった。期待させてしまったぶん、なおさら可哀想なことをしてしまった。平身低頭、謝るしかない。
低く屈めた肩を、後ろからポン、と、叩かれる。キュロス様だ。そして彼は、扉口にいたアンジェロさんに顎をしゃくった。
「おまえさん、暇だろう。子どもたちを連れて出てやってくれ」
「……拙者が?」
アンジェロさんは問いながら、首を振った。
「申し訳ないが、無理でござるよ。世話になった宿の子らであれど、わが主を置いて遠くへは行けぬ」
「ならあのお嬢様も一緒に行けばいい。今すぐ叩き起こして」
「キ、キュロス様――」
その口調が、なんだかすごく厳しく感じられて、わたしは戸惑った。
どうして? わたしを見つめる瞳はいつもの通り、甘く優しい。しかしアンジェロさんへ向ける視線は鋭くて、盗人を追及するように厳しかった。
――キュロス・グラナド伯爵は背が高い。ディルツ国民以外からも、その評価は変わらない。大きな体と彫りの深い顔立ちで、表情を曇らせると、酷く威圧感がある。普通の人なら震え上がってしまうところだが、アンジェロさんは従わなかった。そして柔和とは言い難かった。穏やかに、だがきっぱりと首を振り、
「貴殿の発言は、少々横暴にござるな。確かに昨夜、無理を言って譲っていただきはしたが、結果として正当な客となりました。宿代を払っている以上、追い出される謂れはござらん」
「俺も客で、外で寝たのだがね。なんならそちらの金も払ってやる」
「お断りする。昨夜、お話した通り、カエデ様は足に怪我を負っておられる。岩山越えはもちろん、遊び盛りの子どもに付き合わせるわけにいかぬ」
「だったらお嬢様は外のハンモックで、引き続き昼寝でもしていればいい。とにかく二人とも、この建物から出て行ってくれ」
「キュロス様! それじゃああんまりだわ」
わたしは慌てて彼を止めた。
成り行きを見守っていた子どもたちも、ハラハラした目でキュロス様を見上げていた。
キュロス様の考えは分かる。これから大事な商談だから、部外者を立ち入らせたくはないのだろう。だけどアンジェロさんの言う通りカエデさんは隣部屋で寝ているし、物静かなひとだから、邪魔になるとは思えない。休んでいるところを追い出さなくてもいいじゃないか――とわたしが言うと、アンジェロさんが、言葉を続けた。
「では拙者のみ、この庭先で子どもらの面倒を見よう。ただしカエデ様は置いてやってくだされ。彼女は西洋の言葉を解さぬ、たとえ聞き耳を立てたとて、内容を理解できぬでござるよ」
「……なるほど。お嬢様は、シャイナ語しか話せないと」
「さようにござる」
キュロス様は押し黙って、彼の目をじっと見据えた。
――沈黙は、さほどの長い時間ではなかった。
キュロス様は、笑った。苦々しくではなく、明るく爽やかな、紳士の笑みで。
「分かった。ではお嬢様はあのまま、部屋に置いておく。悪かったな、不躾なことを言って。商談のあとは飯でも奢ろう」
アンジェロさんもにっこり笑った。
「畏まり申した。では拙者はこれにて」
そう言って、イサクの背中をポンと叩く。やっと遊んでくれる人が確定し、テンダーの子ども達は今度こそ大きな歓声を上げた。
――良かった、穏便に話がついて……。わたしはホッと胸を撫で下ろす。
「あっそうだ、食卓の片付けが途中」
……と、振り返ると。
いつの間にか、食卓の食器はすべて下げられており、厨房では島長が黙々と、皿を洗っていた。




