閑話 ハンモック上の恋人
俺がハンモックで眠るのは、初めてではなかった。
船のベッドは基本的にハンモックで、波の高い航路だと船長室でもハンモックが常設されている。ただそれはあくまで揺れ対策、備え付けのベッドよりは眠れるだけマシだからだ。快適で楽しい寝床だなどど、思ったことは一度も無かった。
だけど、今は。
「……気持ちいいな……」
思わず、ひとりで呟く。
ルハーブ島、『テンダーさんのお宿』のハンモックは、心地よかった。広々としていて足もしっかり伸ばせるし、突然の高波で振り回される恐れもない。なにより天を仰げば満天の星空、横を向けば、マリー・シャデランの可愛い寝顔がそこにある。
……くうくうと、穏やかな寝息。
……可愛い。
ハンモックでの就寝が決定すると、マリーは本当に嬉しそうに、文字通り跳び上がって喜んでいた。寝転がってからはわざと体を揺らし、ブランコみたいだとはしゃいでいた。普段はお淑やかで大人びた彼女だが、時々すごく幼い子どものように、無邪気に遊ぶことがある。そんな彼女はすこぶる可愛くて、俺はその笑顔だけで、一日の疲れが吹っ飛んでいくのだった。
「マリー」
そうっと、囁いてみる。眠っている彼女を起こしてしまわないよう、小さな小さな声で。
「マリー。明日は、海に行こうか。島長との商談が始まるまで、できるだけたくさん、ルハーブの景色を君に見せたい」
彼女の呼吸に合わせ、規則正しく上下する胸。生きているだけでただ可愛い。
「土産物屋で、買い物もしよう。新しく作った君の部屋が、君の好きな物で溢れるように」
彼女の返事はない。求めるわけでもなく俺は独り言を続けた。
「……あのミズホの二人……まだ信用は出来ないが……君と友達になってくれたらいいな――」
「……んっ……」
マリーが小さく呻き、寝返りを打った。ハンモックが大きく揺れ、赤い髪がひと房、地面に垂れる。
俺は自分のベッドを出て、マリーの髪を胸の上に戻しておいた。ついでにその場にしゃがみこみ、マリーの寝顔に視線の高さを合わせてみる。まじまじと至近距離で、その造作を観察する。
マリー・シャデラン、十八歳。どちらかというと年よりも大人びて見えるほうだろう。すんなりと細い鼻や、切れ長気味の目は、愛嬌よりも無駄のない美貌と称したほうがしっくりくる。
その印象に相反し、ふっくらした頬にはたくさんのそばかす。素肌が白いせいだろう、皮膚の薄いところは淡い桃色だ。彫刻のように整った美女でありながら、素朴な少女の愛くるしさも兼ね揃えている。
閉ざされた目には、髪と同じ、明るい朱色の長い睫毛……俺はそれを指に乗せ、わずかなカーブを楽しんだ。
「……なんだろうなこれ。本当に、いつまでたっても可愛いな」
船の旅に出てから、俺は夜ごとマリーの寝顔観察が習慣になっていた。マリーは眠りが浅く寝起きがよくて、ちょっと頬を突いただけですぐに起きてしまうのだ。酪農村領地経営の習慣で朝も早い。
起きている時は恥ずかしがって、顔をまじまじ観察すると逃げてしまう。結婚式を目前に控え、もはや実質夫婦と言って差し支えない仲なのに――俺の中では、まだまだ圧倒的にマリー・シャデランが不足している。
あわよくばもっともっと摂取したい。マリー成分欠乏症、そんな不治の病に冒されて、俺は切なくてたまらない。マリーという必須栄養素を点滴に詰めて、常に血管に繋ぎたい。
「うぅーん……」
マリーがちょっと苦しそうな声を漏らし、寝返りをして俺に背を向けた。悪夢でも見ているのだろうか? 俺は立ち上がり、彼女が向いたほうへと回り込む。
俺のベッドには背を向ける体勢で、またすやすやと眠り続けているマリー。くうくうという平和な寝息が可愛い。もしこの音を保存し、何度でも再生できる機械が出来たなら、耳穴に詰めて生活したい。
「う、う、うぅぅん……」
魘されたような声や眉毛も可愛い。
マリーはきっと、気付いていない。
俺が昼間、海を見ながらあくびをしていると気を遣ってくれた彼女――だがその原因は、退屈ではなく慢性的な睡眠不足にあることに。
「……はあ。マリー、可愛い。永遠に寝ていて欲しい……いや、起きているマリーも欲しい。両方欲しい。シリーズで欲しい。起きているマリーと寝ているマリー、フルメイクタイプとすっぴんタイプでバリエーションが欲しい……」
「うううぅぅぅん」
月さえ眠り始める深夜、ルハーブ名物の青い空も海も、真っ暗闇で何も見えない。だが今は大自然の絶景よりも、見つめていたいものがある。
「はあ……可愛い」
『終末の楽園』最初の夜を、俺はこれ以上なく幸せな気持ちで過ごしていた。




