ルハーブの行商人
ルハーブ島の船着き場は、沿岸ではなく砂浜だった。大型貿易船を着けることはできないので、沖に錨を下ろしボートに乗り換えて漕ぎ着ける。
もちろん普通は水夫が漕いでくれるのだけど、なぜかキュロス様が櫂を取った。
自慢げに力こぶを作って見せ、
「ディルツ王都を囲む運河は、グラナド家の管轄だ。この俺より漕ぐのが上手い水夫はいない」
「いやぁ旦那、奥さんに良い格好見せたいだけでしょ」
同乗していた水夫に言われ、後ろ頭を掻くキュロス様。あはは、なんだか既視感。
キュロス様が櫂を引くたび、ぐんと進むボート。あっという間に『バルトアンデルス号』が遠ざかり、逆に砂浜が近付いてくる。わたしは歓声を上げた。
「凄い、本当に速い! キュロス様、本当に漕ぐのがお上手ですね」
「だろう? しかし海水はちょっと勝手が違うな。ディルツに帰ったら川下りに連れて行ってやろう、もっと速く漕げるぞ」
「ふふっ――楽しみにしています」
わたしは笑いをこらえながら頷いた。キュロス様ってなんだか時々、子どもみたいよね。可愛いなんて言ったら怒ってしまうかしら?
わたしはほころんだ口元がバレないようハンカチーフで隠しながら、彼から顔を背けて――あらっ? と声を上げた。
「もう一隻、船があるわ。あれもグラナド商会の船ですか?」
キュロス様も振り向き、身を乗り出す。
わたしが指さす先、わたし達よりももう少し砂浜に近い海上に、同じくらい大きな船が錨を下ろして停まっていた。
「いや、よその船だな。ルハーブ島はリゾート地だから、近隣の国から観光客がたくさん来るんだが……」
キュロス様は櫂を漕ぐ手を止めて、エメラルド色の目をじっと凝らし、船を見つめた。
「あのガレオン船……客船じゃなく貿易に使う貨物船だ。船首のレリーフは、オラクルの国章だな」
わたしも真似て目を細めてみる。わたしの視力はキュロス様より少し劣るらしく、彼の言う紋章はよくわからなかった。ただ『バルトアンデルス号』に劣らぬ巨体と、洗練されたデザインの船体に、科学が発展した国の船だと感じられる。
オラクルは医療と学問がとても盛んな国だから、納得である。
「じゃあ今、オラクルの貿易商もルハーブに上陸しているのね」
「いや、オラクルはルハーブと貿易はしていないはずだ。あそこは東部……イプサンドロスやシャイナとの交流が盛んでな。ルハーブに何しに来たのだか」
キュロス様は何か難しい表情をしていた。彼に、外国人への差別意識はない。この険しい表情は貿易商として、ライバルへの警戒からだろう。
わたしはそれ以上何も聞かないことにした。貿易のためではないならば、ルハーブの歴史、あるいは地層などの調査に来たのかもしれない。……お話ししてみたいな。オラクル国のことも聞きたい。宿でご一緒する可能性はないかしら? 出来ればお茶やディナーをともにして、オラクルの文化について聞かせてほしいわ……!
ワクワクでドキドキしているわたしに、キュロス様はクックッと笑った。
「君は本当に、異国文化との交流が好きだな」
「あっ、す、すみません。わたしったら物見遊山で。キュロス様はお仕事で、彼らと敵対するかもしれないのに」
「いや構わんよ。有益な同盟関係が結べるチャンスかもしれない。島のどこかで出会ったら話しかけてみよう」
と、にこやかな彼の言葉に重なって、
「おーい、そこの兄さんたち、ボートを止めろー!」
遠くから、少年の声がした。
声の主はルハーブ島の住人らしい、まだ浜にいて、小さなボートに乗り込むところ。それから猛スピードでこっちに向かって漕いでくる。
「宿のお迎えかしら?」
キュロス様に尋ねると、彼は苦笑いを浮かべていた。
「いや、あれはおそらくただの物売りだ。捕まったら面倒だぞ」
「面倒?」
確認するよりも早く、ボートが到着。
声の主は、やっぱり少年だった。年のころは十二、三才。半そでのシャツと腿までしかないズボンという、これ以上ないほどの軽装である。雑な漕ぎ方で、服が海水に濡れているのも気にしないらしい。こちらと手がつなげるくらいに横着けすると、
「やあ男前の兄さんと美人の姉さん、我が『オグラン商店』へようこそ!」
そう言うなり、何かをポイっと投げてきた。反射的に受け取る――と、腕の中でビクン! と跳ねた。これは、生きた魚!?
「ひ――ふきゃぁああっ!」
思わず放り出してしまったのを、キュロス様が空中でキャッチ。少年は一切のわき目も振らず、さらに次々、自分のボートから取り出してはこちらに投げ込んでくる。
「ほらよっ、鯛にヒラメに大海老が一匹、でっかいムール貝が五つとアサリ二十」
ざらざらざらーっとボートに流し込まれる貝の山。ああああ。
「な、何、待って待って、何? なんなのっ!?」
「まだまだあるぜ。姉さん食ったことあるかい、これはタコっていうんだよ。それとイカ。小さいけどカニ」
「うわわわわ、ひぁあああああ」
「オマケでサフランとレモン、米も付けてやるよ持ってけどろぼう! さあこれでルハーブ名物、パエーリャの出来上がりだ! あ、鍋も要るけど」
自分のボートがカラになって、少年は仁王立ちになっていた。ツッコミなんて受け付ける様子は皆無、当たり前のように胸を張って、満面の笑みを浮かべていた。
「どれも獲れたて新鮮、ピチピチだから、頬っぺた落とさないように気を付けな」
「ぼ、ボートの中がピチピチでわたしが海に落ちそうだけど! ――え、ええと……ありがとう?」
「どういたしまして。お代はちょうど二百でいいぜ」
「ええっ、お金取るのっ!?」
「――プフっ」
キュロス様が盛大に噴出した。
「はははは、だから言っただろ。商人はどこの港にもいるものだが、ボートで漕ぎ着けてまで来るのは相当な押し売り屋だ。まともに相手をしたほうが負け」
「そ、そんなこと言われても。わたしもう足元はピチピチで左右はヌルヌルで、どうしていいか分からないわ!?」
「要らないものは容赦なく投げ返せばいい。まあせっかくだから、いくつかもらうか」
キュロス様はそう言って、抱いていた魚を少年のボートに投げ込んだ。それから、底に溜まった小さな貝も拾って返す。わたしの右半身からタコを、左半身からイカを引っぺがし、
「服装で、金持ち貴族のリゾート観光だと思ったか? 俺たちは遠洋の途中、補給に立ち寄っただけだ。別荘ではなく一般の宿で寝る。パエーリャは宿の主が作ってくれるだろう」
「……あっそ」
「大海老だけ、手土産に持って行くよ。五十でいいか」
「八十よこしな。レモンはやるよ」
少年は、キュロス様からコインを受け取ると、すぐに櫂を翻した。今度は別のボートへ船を寄せ、先ほどと全く同じ手段で売り始める。
「ふふっ、逞しい。ルハーブの子どもって、商売熱心なのね」
「ん……いや。そんなはずはないんだが……」
わたしがそう言うと、キュロス様はなぜか、首を傾げた。