上陸の準備をしましょう
『終末の楽園』、ルハーブ島。
一応、ディルツ王国の領地ではあるが、その歴史は浅い。
戦時中、この島はスフェインという大きな帝国の占領地だった。
およそ八十年前、スフェイン国の軍艦がたまたま航路を間違え流れ着いた。スフェインはこれ幸いと島を占拠。遠洋の中継地にちょうど良かったのだ。
それまではこの小さな島に名前もなく、数百人程度の島民がのんびりと暮らしていたらしい。
スフェインの侵略により、島の生活は劇的に変わった――かというと、実はそうでもなく。
スフェイン艦隊長、ディボモフ氏は、島に数日滞在したのち、こう言った。
――なんという美しい島なんだ! この大自然を、油と血で汚すことなど許されない。あくまでも補給や休息に、協力をあおぐのに留めよう――。
『いい話ですよね! 英雄ディボモフは、島を守ってくれたんです。ありがたいです。僕達には大事な生まれ故郷ですから』
と、興奮して話してくれたのは、ルハーブ出身のグラナド城門番、トマスだ。わたしも、スフェイン国の歴史として知っている。だけどわたしがそれを話すと、キュロス様は首を横に振った。
「人間、身近な恵みほどその価値に気付けないものだな」
……? どういうことだろう。
ディルツから出るのも初めてのわたしと違い、貿易商のキュロス様は、いくつもの国を渡り歩いている。このルハーブとも交易をおこなっていて、何度か上陸しているらしい。
「これから、ほとんどの船員と共に島に降り、二泊を過ごす。ルハーブは観光地化しているが、この船の水夫全員が泊まれるような大きなホテルは無くてな。小規模の民宿にみんなバラけて休ませてもらう」
「わたし達が泊まるのは、どんなところかしら。とても楽しみです」
ふと、キュロス様は悪戯っぽい笑みを浮かべた。おどけるように肩をすくめて、クスクス笑う。
「しまった。君にはちょっと悪いことをしたかもしれないな」
「何がです?」
「『楽園』と呼ばれるのは伊達じゃないってことさ。これからあちこちの国や街を見て回ろうってのに、いきなりメインディッシュを山盛り出してしまった感じだ」
それ以上は、着いてからのお楽しみだと内緒にされて、わたしはいったん追及を諦めた。
それに長話をしている暇はない、上陸の支度をしなくちゃ!
いったん部屋へと戻り、荷物をまとめる。ルハーブ島はディルツの夏よりも暑いので、なるべく涼しい服装を選んだ。わたしは二泊分の私物だけだけど、キュロス様は貿易の商談がひとつあるそうで、大きな鞄をいくつも持っていた。
準備を終えると部屋を出て、廊下を挟んで向かいの部屋をノックする。キュロス様がドアノブを握ったその瞬間、怒鳴り声が劈いた。
「ああっ、開けるな!」
だが時すでに遅し、細く開いた隙間から、赤い物体が飛び出した。
「わっ?」
それはキュロス様に突撃したかと思いきや、その胸板をクッションにしてさらに飛ぶ。わたしの肩にトンっと着地、そこからまた飛んで……わが父、シャデラン男爵の頭に着地した。
「あっ」
「あああああーっ!」
絶叫しながら、自らの頭を鷲掴みにする父。が、空振り。細い金髪が数本ちぎれて宙を舞う。尊い犠牲を出しながら、今度はわたしのところに飛んできた『それ』――赤い毛をした子猫を、わたしは捕まえることに成功した。
「ずたぼろ。よしよし、お昼寝から起きてたのね」
「にゃあ」
彼女の名前はずたぼろ。夏のさなか、グラナド城内で出会った野良猫である。もとは子ども達が餌をやっていたのだけど、正式に飼って世話をすることになったのだ。
わたしたちも事情があって、しばらく城を離れることになり、侍従達に託してきたのだけど……。
なんと彼女、いつの間にやら旅の荷物に紛れ込んでおり、船旅をともにすることになったのである。
わたしが指でくすぐると、ゴロゴロと喉を鳴らして甘えるずたぼろ。ふふふ、ふにゃふにゃで可愛い。
猫とわたしが仲良くしている間、父とキュロス様は、眉毛を縦にし怒鳴り合っていた。
「貴様、またやったな! 扉を開けるときは、猫が通れないくらいに細く細ぉくだと、いったい何度言えばわかるのだっ!」
「男爵こそ、何度同じことを言わせる。別に放っておいて大丈夫だって」
キュロス様は腕を組んで反論した。
「ずたぼろはもともと野良だ。ここまで大きくなってしまうと、狭い部屋に閉じ込もっていられない。それに倉庫には他の『猫船員』もいるぞ。放してやったほうがずたぼろも快適だって」
猫船員とは、言葉の通り船員として連れ込まれた猫のこと。ネズミ対策で、数匹飼いならして置いているのだ。
人間側も慣れたもので、猫船員用にエサやトイレ、心地いい寝所を用意している。窮屈な客室より良さそうだと、わたしも思うけど……。
父はわたしから猫を奪い、威嚇するように歯を剥いた。
「ネズミなんか食って、変な病気になったらどうするんだ。それにこの子は毛が長くて柔らかい、埃っぽい船倉に入ったらたちまちモップになってしまう」
「……あとでブラシを入れてやればいいじゃないか」
「貴様に飼い主の資格はなーいっ!」
ずたぼろを抱いて喚く父。
……そう、なんだかよくわからないけど、わが父グレゴール・シャデラン元男爵は、赤猫ずたぼろを溺愛している。毎日抱っこして、一緒に寝ているくらいに。
世話の仕方にもこだわって、キュロス様から猫を奪い取ってしまったのだ。
言うまでもないことだけど、お父様より、キュロス様のほうがずっとずっと爵位が高い。そうでなくとも頭が上がらない立場のはずである。一応父もそれは理解しているようで、不機嫌そうにしながらもキュロス様の言うことを聞いていたのだけど……ずたぼろに関しては、絶対に譲れない何かがあるらしい。
キュロス様は諦めたように嘆息した。しっしっと虫でも払うように手を振って、
「わかったわかった、猫のことは良いから、男爵も降りる用意をしろ。島が見えたんだ。商談と補給で二泊する」
「船を降りる? ずたぼろはどうする。迷子になったら再会できんではないか」
「もちろん船に置いて行く」
「ならば私も降りん!」
キッパリ、即答する父。キュロス様は半眼になった。
「……世話係は要らないぞ。餌もあるし、数人は水夫も残るし」
「一人寝させたら可哀想だろうが! とにかく、私も残ると言ったら残る!」
「あのぅ、お父様」
恐る恐る、わたしは進言してみた。なんとなく、父の本心が分かった気がして。
「これから降りるルハーブ島は、フラリア語が通じますよ。ルハーブで使われているスフェイン語はほとんどフラリア語と同じなので。お父様も学園で学んでこられたのだし、なんならわたし達が通訳を――」
「だ、誰が、言葉がわからんから降りたくないと言った! うるさいうるさい、さっさと二人だけで荷物をまとめて、観光でもバカンスでも勝手にしろ!」
はいはい、と頷いて、わたしたちは荷物を持って、階段を昇っていった。




