島が見えたぞ!
大海原を劈くように進む、グラナド商会の貨物船上にて。
潮風に髪を弄られるまま、わたしはデッキに佇み、景色を眺めていた。
――どこまでも続く青い海。この風はどこから生まれて、ここまで旅してきたのだろう。もしかしたらこの船よりもずっと長く、遠くの国からやってきたのかも。
くんくん、鼻を鳴らしてみる。この風の故郷の匂いがしたらいいなと期待して。もちろん、潮の匂いしかしなかったけど。
「マリー、寒くないか?」
優しい声と共に、シルクのショールが掛けられた。振り向くとそこに、長身の青年が穏やかに微笑んで立っていた。艶やかな黒髪に褐色の肌、彫が深く凛々しい顔立ちに、甘く垂れた緑の瞳が蕩けるほど魅力的な男性。わたしの婚約者、キュロス・グラナド伯爵だ。
「ありがとう。大丈夫ですよ。十分暖かいから」
遠慮ではなく本心で、わたしは言った。
秋の初めに母国、ディルツ王国を出航して二か月……季節は冬に近づいたはずなのに、むしろどんどん暖かくなっていくのだ。
「赤道に向かって進んでいるからな。土地によって気候はガラリと変わるぞ。気温、湿度、風の強さ、酸素の濃さや水質も違う」
「なんだか不思議……ディルツでは雪がちらつく頃なのに、ここはまるで夏みたい。魔法にかけられている気分だわ」
わたしが言うと、彼は面白そうに笑った。
「ディルツの夏は涼しいからな。世界の平均で言うと真夏といえる気温じゃない。イプサンドロスの夏は、もっともっと暑いぞ」
「それも不思議だわ、場所によって季節の形すら違うだなんて。世界って本当に広いのね」
思わず声を弾ませる。わたしだって外国人との接点はあったし、本で学んだ知識はある。だけど体験するとなると別物だ。
デッキから見える海の色も波の高さも、日ごと全然違うのよ。わたし、青という色にこんなにも種類があるって知らなかった。この大きな海が、天気によってぜんぶ別物に変わってしまうことも。
キュロス様はクスクス笑った。
「マリーが楽しそうで何よりだ。俺はもう、すっかりこの景色には飽きてしまったぞ」
そう言う彼の声に、どこか眠気が混じっている。
キュロス様は異国人を母に持ち、貿易商の大旦那である。船旅など慣れたもの、国を跨げば景色が変わることも当たり前の常識なのだろう。
彼はフワァと大きくあくびをした。
「順風満帆は結構だが、刺激に欠けるな。いっそ時化でも来ないものかと思ってしまうぞ。この船は時化にも強いけど」
「ふふ、至れり尽くせりという感じですね」
「航路も船も安全が最優先。これから君と人生を共にするために、結婚式を挙げにいく旅で、命を失っては目も当てられない」
「ええ、そうね。式だって、あと数週間遅れたって構いませんし」
そう、わたし達の結婚式は、もともと夏の終わりには行われる予定だった。それが秋に入っても話が進まず、今や冬になろうかという時期。わたし達は教会どころか、海の上にいる。
「……それに関しては、申し訳なく思ってる。出来れば一日でも早く式を挙げ、君を安心させてあげてあげたいが」
「どうしてあなたが謝るの? 楽しくて幸せな日々でしたよ」
わたしは言った。
色々あったし怖い思いもしたけれど、グラナド城の暮らしはずっと楽しかった。目の前にあるトラブルに不安を覚えても、幸せな未来に辿り着けると信じられた。きっとキュロス様や侍女のミオ、優しい侍従達が、いつもわたしの側にいてくれたから。
「それにわたし、この旅そのものにわくわくしているの。イプサンドロスに着く前に、何度か船を降りるんですよね? 補給や休息で、他の国に」
「ああ、これから行く島ではひとつ大事な商談があって、二泊――」
と、話している途中で、キュロス様はまたまた大きくあくびした。窓の景色から顔を背けて、
「……いかん、波を見ていると眠くなる」
「あははっ、そんなことあるの? わたしとは正反対ね」
「いやこれに関しては俺の方が一般的だと思うぞ。何日も飽きずに波を観てられる君がすごい」
そんな雑談をしていた、その時。
「島が見えたぞ――!」
大きな声と共に、ガンガンと激しく鐘を鳴らす音。
直後、船内のあちこちからワアッと歓声が上がり、すべての船室から船員が飛び出していく足音がする。
わたしたちも階段を駆け上り、最上階甲板へ出る。見晴らしのいい船頭でキュロス様は望遠鏡を覗き、やがてにやりと、少年のような笑みを浮かべた。
「……うん、間違いない。航路の通りだな」
「わ、わたしにも見せてっ」
たまりかねて、望遠鏡の交代をねだる。片目を瞑って覗き込むと、確かに遠く、水平線のかなたに何かが見える。視力は良いほうのはずだけど、それが何物なのかが分からない。
わたしはそのまま長い時間、望遠鏡を覗き続けていた。船の進みに比例して、ゆっくり、ゆっくりと……その姿が見えてくる。
それほど大きな島ではなく、自然が豊かな土地らしい。青い海の先に白の砂浜、なぜかそれよりも真っ白い岩壁……目が覚めるような強い緑の森……。
「あれが――『終末の楽園』……」
「そう。ディルツ含め北西大陸民にとってのリゾート地――ルハーブ島だ」




