【プロローグ】
第三章の開始です!
わたしは、かつて姉に求婚したひとのもとに嫁に行く。
名前はキュロス・グラナド伯爵。わたしよりも六つ年上の二十四歳――いや、もう二十五歳になった。
ディルツ王国の次期公爵にして、国一番の大富豪。見上げるほど長身、端正な顔立ち。艶やかな黒髪と褐色の肌――イプサンドロスという、異国の血を受け継いでいると、わたしはもう知っている。
だけどそんな情報よりも、わたしが強く惹かれたのは、彼の瞳だった。一目で心を奪われるほど美しくどんな宝石も敵わない、誰にも代えることができない……優しい眼差し。
「大丈夫か、マリー。無理をしていないか?」
わたしの手を取り、優しく語りかけてくるキュロス様。
大丈夫です、とわたしは返す。
本当は少しだけ、足元がふわふわしていた。緊張と高揚、そして甘い夢の中にいるようで。
彼と手をつないで、石畳のバージンロードを歩く。進んだ先にはお父様と、指導者――ここ、イプサンドロスにおける神官――が、わたし達を待っている。
周りには笑顔、笑顔、笑顔。知っている顔も知らない顔も、たくさんの人々が微笑んで、拍手で迎えてくれていた。
嬉しくて楽しくて我慢できなくなったのか、何人かが勝手に歌い、踊りだしている。なんと指導者までもがステップを踏みだした。ディルツの厳かな式とは全く違う、にぎやかでお祭りみたいな結婚式。
わたしたちは顔を見合わせ、同時に噴き出した。キュロス様は大声で笑いながら、優しくわたしの手を取った。
「俺たちも、踊りながら行こう」
「ええっ? でも――」
戸惑いながらも、彼の首に手を回す。キュロス様はわたしの腰を抱き、ゆったりしたリズムでリードをしてくれた。わたしたちが踊りだすと参加者はさらに盛り上がり、さらに激しく踊り始めた。
あらっ、もう料理を食べてるひとまでいるわ。あれは誓いの儀式のあとでふるまうはずなのに――と思ったら、ちょっと待って、あれってお父様じゃない?
注意をすべきかと思ったけど、イプサンドロスの民は誰も気にしていないようだった。父の口に押し込むようにして肉が出され、ゴブレットにはお酒が注がれていく。
「い、いいのかしら?」
「いいさ、これがこの国の結婚式。みんなからの祝福なんだ。俺たちは楽しむ義務がある!」
胸を張って言い切るキュロス様に、わたしは思わず、笑ってしまった。
「ふふ……そうね! 踊りましょう。今日は最幸の日だもの!」
「いいや最幸な日は今日よりも明日、明日よりも明後日だ。毎日忙しいくらい幸せにするぞ、マリー」
そして今日、わたしたち二人は手を取り合い、大笑いしながら、バージンロードを進んでいく。
――どうしてこんなことになったんだろう。
時々、とても不思議に思う。
ほんの少し前まで、わたしは『ずたぼろ娘』と呼ばれていた。
毛玉だらけの赤毛に醜いそばかす、汚れたぼろの服、底のすり切れた麻の靴。贅沢どころか、好きとか楽しいって気持ちすらわからなくなっていた。痛みや怖さすら忘れていた。幸福になるのが怖くて仕方なかった。
素敵なものを手に入れるたび、失うのが怖くて、自ら手放しすらしていた。
……あの日、わたしの十八歳の誕生日……。
彼と出会ったあの夜を、生涯忘れることはないだろう。
わたしを見つめる彼の目は、あの時からずっとずっと……いつだって変わることなく優しくて、夢のように甘やかだから。




