【特別番外編】 ミオ、発熱する
早朝。
「以上が、本日の来訪予定の方々です。皆様に失礼のないように」
グラナド城の門前で、私は業務連絡を読み上げていた。
神妙な顔をして聞いているのは、門番の少年トマス。
珍しくあくびをせず聞いているな……と思ったら。
「――はっくしゅん!」
突然、空気と唾を吐き散らかした。
……やれやれ。
私は、言葉を続けた。
「¡Dios te bendiga。……この頃、王都で厄介な風邪が流行っているそうです。秋も暮れて冷え込む朝が増えてきたので、体調には気をつけてください」
それでは自分は旦那様のマントを仕立てに出しに、と踵を返そうとしたら、肩を掴まれた。
トマスが鼻をすすりながら、
「ミオ様、なんです、今の?」
「何ですとは……?」
「いや、急に『神が貴方を祝福しますように』だなんて。そんな信心深い人でしたっけ? それになんでスフェイン語?」
私は数秒、沈黙した。こうなるとトマスはいつも『叱られ待ち』の顔になるが、これはただ単に「きょとん」としただけである。この時、私は心から驚いていた。
「……くしゃみをした相手へのいたわり……というか定型句のご挨拶です。あなたの母語がスフェイン語なのでそれに倣ったまでですが、ルハーブの習慣にはなかったのですか?」
「くしゃみへの声かけ? なんでそんなことを」
改めて聞かれると、私はまた一瞬沈黙するしかなかった。なんで……なんでだろう。文化的な習慣としか言いようがない。体調を心配して労わる言葉ではあるが、胡椒を使った時など、明らかに風邪でなくてもこの定型句を使う。私は別に、トマスを心配してなかったし。
「語源はよく分かりませんが、ディルツだけでなく世界的にこうした声かけは行われています。むしろルハーブでは無かったということに驚いてますよ。隣人がくしゃみをしても、何も言わないのですか?」
「んー、特に決まった言葉って言うのは……少なくとも親から教わったことはないし、自分も何か言われた覚えはないですね」
彼は首を傾げながら答えた。
私は半眼になった。
「ルハーブ島ではともかく、あなたがこのディルツ王都に来たのは三年近く前でしょう。城で共同生活をしていて、聞いたことはあるはずですが」
「いやあ、気にしたことなかったですね。僕自身はあんまり風邪ひかないので」
「……なるほど。なんだかそんな気がします」
私は素直に納得した。
トマスの故郷、ルハーブ島は長くスフェインに占拠されていたため、言語だけでなく文化もスフェインのものが入り込んでいる。だが正式に言語教育がされたわけではないし、伝わり損ねたままの風習はいくつもあるだろう。
それならばそれだけのこと、と思ったが、くしゃみ後の声かけは対人マナーでもある。
グラナダ城の門番として、来賓をお迎えするトマスには教えておいた方がいいのかもしれない。
「ではこの機会に覚えてください。国によって多少の違いはありますが、くしゃみをしたら何らかの掛け声をする必要があります。ちなみに自分が言われた時の返答は、普通にアリガトウなどで大丈夫です」
「へえ。ということはフラリアとか、イプサンドロスや、シャイナでも?」
「そうですね。フラリアでは『À vos souhaits (あなたの思い通りに)』。イプスでは『Çok yaşa (長生きしてください)』、シャイナの一部地域では『大吉利是』と言います。北東の島国では『bless you』……神の祝福を、という意味で、スフェイン語に近いですね」
「へえー……じゃあディルツは?」
「ディルツだと――」
と、言いかけたところで。急に私の鼻がムズムズと、くすぐったい痒みを覚えた。
ただ鼻に塵が入っただけなら、こらえられただろう。だが体の奥底からぞくぞくっと肌が粟立つ寒気が上がってきた。我慢できず、私は背中をのけぞらせ、
「――はっくしゅん!」
トマスは鳶色の目をぱちくりさせた。
実演演習か何かだと思ったのだろう、しばらく言葉に迷っていたが、私が自分の肩を抱いて身震いしているのを見て、アッと声を上げた。
「ミオ様! Gesundheit(健康ですか)?」
その夜、私は発熱した。
自分としては全身が風呂上りのほうにホカホカして、それほど不快でもなかったが……額に触れた医師は軽く悲鳴を上げた。
「ひどい熱ですね……今年流行の風邪はやたらと高熱が出るのが特徴なんです。頭だけは冷やしながら、ゆっくりと休んでくださいね」
「……わかりました」
医師の指示通り、私はベッドに寝転がった。まあ、今日一日分の業務は早朝のうちに指示を出してあるから、私が居なくても問題ないだろう。ここは素直に言うことを聞くことにしよう。
医師が扉を閉じる音を聞いてから、私は目を閉じて穏やかな二度寝に入ったのだった。
――が。
「暇だ」
私はむくりと体を起こした。
一応、少しは眠っていたらしい。窓から差し込む日差しは明るく、もう朝と呼べない時間であるのは明らかだ。十分休んだ、と言っていいだろう。
「……よし。動くか」
「良しじゃないですぅ」
真横から額をペチンと叩かれた。
反射的に閉じてしまった目を開くと、ベッドサイドにはいつの間にやらエプロン姿の女――湯番のチュニカがいた。私が眠っていた間に入り込んだのだろう。
民間療法程度の医療の心得がある彼女は、有事の際は看護師のような仕事も担当する。どうやら医師に頼まれて看病をしてくれていたらしく、濡れた布を持っていた。にこにこと微笑みを浮かべながら、いつもののんびりした口調で、
「大人しく寝とけて言われたでしょぉー。起き上がっちゃだめですよぉ」
「……もう大丈夫です。心配しなくても他人に移さないよう、屋外での仕事に従事しますよ」
「あはははは思った通りダメダメですねえ。本人が何といおうとも絶対に働かせてはダメと、お医者様から指示されてまぁす。めったに体調を崩さないミオ様が寝込むだなんて、もはや天変地異の前触れですしぃ」
「大げさな……私だって風邪くらいひいたことはありますよ? それでも普通に働いていました」
「今まではそれで誰も気付かなかったのに、今回は見てわかるっていう時点でやばいですぅ」
「見て……わかりますか?」
チュニカは真剣な目になり、頷いた。
……どうやら自分自身で思っているよりもずっと、私は顔が赤く、目つきもぼんやりしているらしい。確かに、今年の風邪は本当に厄介で、私は重病なのかもしれなかった。
「今は旦那様もマリー様も不在で、侍女としての仕事ってのはないんでしょ? 侍従のみんなも、けっこー臨機応変でやれますから、ご心配なくぅ」
「……。それは結構ですが……本当にもう眠くないのです。退屈すぎて寝転がっていられません」
「じゃあせめてお部屋の中で、体に負担をかけないように好きなことをすればいいのでは?」
「……と言われても……読書は趣味ではないですし、面白くもない本を読むくらいなら、事務仕事でもしたほうがまだ建設的――」
――その時、コンコンと扉がノックされた。私が返事をすると、扉が開く。
「お邪魔しまーす」
「……トマス」
彼が私の部屋を訪ねてくるのは、とても珍しい。
彼の定位置は古城の城門、私の私室は本宅である『館』の一階にある。彼の職務中に立ち寄れる距離ではないのだ。
「お見舞いに来ました。体調はいかがですか」
「心配は不要です。それよりあなた、仕事はどうしたのですか」
「僕は今日は早番で、昼から休みですよ。ミオ様、今朝その確認をしてたじゃないですか」
「…………あっ……」
「ミオ様、本当に病気なんですね」
トマスはなぜかとても嬉しそうにニッコリ笑った。
「ミオ様が寝込むだなんて、この人もちゃんと肉と血で出来てる人間なんだなーって思いましたよ。なんかちょっとホッとしました」
「でも相変わらずの仕事人間ですよぉ。さっきまで動こうとしてましたから」
「ああやっぱり? 駄目ですよミオ様、お医者様の言うこと聞かないと」
「めっ」と子供を叱るような口調で言われた。
…………復帰したら覚えておけよ二人とも、という言葉は、脳内にしっかりメモ書きしておいた。
それにしても本当に上機嫌のトマス、勝手にベッドサイドに腰かけて、持っていた鞄をなにやらごそごそ漁り始めた。
「そんなことだろうと思って、退屈しのぎのおもちゃを色々と持ってきました! 城周りの従業員たちに声かけて集めたんだけど、女性の病床に何人も押し掛けるのは良くないだろうから、僕が代表で持って来たんです。ほら」
と、彼が差し出したのは小さなパズル。さらにボードゲーム、子供向けの本などなど。どんぐりに小枝を刺したコマまであって、本当に暇つぶし用のおもちゃとしか言えないものだった。
「これがヨハンから、こっちがトッポ。ツェリとアダムと僕と……」
何と返事をしようか……一瞬意地悪な言葉が頭に浮かんだが、ここは素直に受け取っておこうと思い直す。
「ありがとうございます、遊ばせてもらいます」
トマスはとても嬉しそうに笑った。
「あっそぉそぉ、私も色々と預かってきてますよぉ」
と、チュニカはティーテーブルを指差した。さっきは気付かなかったけど、そこにはお菓子らしいものが山盛りになっている。
「それは……?」
「館に勤める女性陣からの贈り物ですぅ。メイドは日中は仕事だから抜けられないけど、みんなとても心配してましたよぉ。とりあえず手持ちのお菓子を差し入れで持って行って欲しいって、色々と押し付けられちゃいました」
「……メイドのみんなが……」
私は紙袋をひとつ手に取ってみた。マドレーヌと一緒に、あまり綺麗ではない字でメッセージカードが入っていた。『ミオ様お大事に』と。
贈り主の名前はなかったが、このクセ字には見覚えがある。思わず苦笑いがこぼれた。
「これはパトリシアからですね。先週シーツを強く洗いすぎて穴を開けてしまった穴埋めのつもりでしょうか」
クッキーの包みも開いてみる。こちらにはメッセージもなかったけど、やはり送り主はすぐに分かった。
「これ、ミーナがいつも自分が食べているものじゃないですか。あの食いしん坊が、気前のいいこと」
さらに積まれたお菓子全てに私は目を通し、送り主を把握していく。これが査定に響くなんていうことはもちろんないが、回復後には返礼するのが礼儀というものだろう。
グラナド城の従業員は家柄や教養よりも、技術と人柄で採用されている。異国からの移民や混血も多く、ディルツ語が話せない者までいるのだ。侍従頭の私は、自らが手本となり、彼らに貴族社会のマナーを教えていくのも仕事だった。
「せっかくだから、昼食代わりにいただきましょう。パン粥などより早く回復できそうです」
そんな私を、チュニカとトマスは何故かニヤニヤと見守っていた。
「何ですか気持ち悪い」
「いやあ、ミオ様って下っ端の従業員のことも名前全員覚えてるんだなあと思ってですね」
「そぉそぉ。いつも食べてるお菓子とか。ランドリーメイドの字のクセなんて、私覚えようとして見たことすらないですねえ」
「……あたりまえです」
私はそう言って、マドレーヌをテーブルに戻した。
「私は侍従頭ですから。従業員の顔や名前、個性を把握しておかずして持ち場の指定などできません。風邪だって……私が部下の様子を見て医師の手配をするべき立場なのに、自分が罹ってしまうだなんて」
「んんー、もしかしたらミオ様は本当にそうなのかもしれないけどぉ」
チュニカはテーブルの上に散らかったお土産物の数々を見下ろした。
「従業員のみんなはミオ様のこと、ただ仕事の上司ってだけには思ってないですよぉ」
……どういうことだろうか。
ぼんやりと、テーブルの上のお菓子と、手元に転がる玩具を見下ろす。
私は生まれつき、表情の変化が乏しい子どもだった。意図的に顔面の筋肉を動かし表情を作ることは可能だが、長時間やってると疲れてくる。気を抜くほど不機嫌に見えるので、真実以上に怖がられることも多い。
そんな私が侍従頭という、人に指図する立場につくのは良くないんじゃないかと、旦那様に直訴したことがある。ただでさえ私は名字もない、純粋なディルツ人かどうかも分からない。旦那さまやリュー・リュー様に向けられる侮辱の中に、いくばくか私が原因のものがある。
他にもっと人当たりが良く、家柄もいい者を侍従頭に据えたほうがいいのでは――と。
私はそう思うのだが。
ベッドサイドで私を見下ろし、ニコニコと笑っている二人。
……私は呟いた。
「やはりこの城の侍従は、変わっている人が多いですね」
「そりゃそうですよぉ。ここに居る従業員は、みぃんなミオ様の教育を受けてきたんですもの」
思わせぶりな口調で、チュニカが言う。なんとなく腹が立ったので、どんぐりを指で弾き、彼女の額に飛ばしてやった。
この短編はとある企画で、瀬戸様よりリクエストいただいたものへのアンサーです。
作者がコロナで寝込んだ直後だったので。
さて番外編の連投はここまで。
次回からは新章の連載になります!




