新婚初デートは蜜の味【前編】
秋の某日、早朝、晴れ。
「うーん……」
僕は鏡の前に立っていた。
「……今日のデート……どの服を着ていくべきだろうか?」
そんな、少女のような悩みで唸りつつ。
いや、これは決して初恋に浮かれているわけではない。色々と思うところがあり、とても真剣に悩んでいるのである。
あの結婚式からはやひとつき。僕とアナスタジアは正式に婚姻――しかし以降、僕たちは一度も会っていなかった。
彼女のことをおざなりにしていたわけじゃないぞ。純粋にふたりとも忙しかったのだ。
今、王宮には僕しか王子がおらず、数年ぶりに玉座に復帰した父の補佐として東奔西走。空いた時間で政治経済、帝王学を学び直し、加えて騎士団長の仕事もある。
アナスタジアも似たようなものだ。盲目のノーマンに代わり、彼を伯爵位とするための申請、自身を養子にする手続き全般。上級貴族に必要不可欠な礼儀作法、大陸の公共語であるフラリア語、第三王子妃として王族入りするための儀式、挨拶まわり、歴史や人物像の暗記……。加えて服飾職人としての仕事もある。
サポートをしたレイミアやミオちゃんによると、それはもう目が回るほど忙しく――実際に目を回しながら、それでも泣き言一ついわず完遂したとのこと。
もしも彼女が弱音を吐いたなら……会いたい、の一言でも零したならば、僕だって仕事を投げうって駆け付けた。正直そうしてほしかったし、そうしたかった。だけど彼女が頑張っているのだからと、奥歯を噛みしめて踏ん張ること一か月。
ようやく……本当にようやく、僕たちはお互いの仕事をひと段落させたのだ。
というわけで今日が久しぶりの再会、デートである。
そう、初デートなのだ。結婚しているのに。僕たちは交際ゼロ日の恋愛結婚なのでこういうことになる。
というか考えてみれば僕、アナスタジア以外ともまともにデートってしたことないのでは?
フラリアの王女とはいつも屋内、それもさほど長い時間じゃない。社交界での振る舞いは貴族男子の教養、貴婦人をエスコートするのは義務であり、お互いが楽しむというものではない。
しかし今回は恋人同士としてのデート……そして行先はアナスタジアの希望に従うことになっている。どこに行くのかは知らない。すなわちエスコートの予定が立たない。
……危険なところにはいかないから、なるべく護衛は少なく、離れていてほしいと言われている。そしてあまり悪目立ちはしないように、普通の格好で来てくれと。
ふつう……普通ってなんだ?
僕、ありのままのすっぴんが王子様なんだけど!?
「うううぅぅーん……」
「何をうなっているんですの、お兄様?」
ひょこっと気軽に、レイミアが顔を出した。妹がノックを忘れるのはよくあることなので、叱りもせずそのまま返す。
「いや、アナスタジアとデートするのに、どんな服装がふさわしいのか分からなくてね」
「街を歩くのなら、普段お兄様がお忍びで遊びに行くときにお召しの市民服でよろしいのでは?」
「あれは鬘とか眼鏡とか、色んなアイテムもセットにしての変装だよ。この白銀糸のような髪に『世界で一番美しい王子』と呼ばれる顔面で、服だけ粗末にしたらかえって浮くよ」
「ご自分でおっしゃる。なら鬘と眼鏡をお着けになれば」
「やだよ、アナスタジアが『僕以外の男』とデートだなんて。変装した自分でも嫉妬する」
レイミアは肩をすくめた。
「では悩むことないじゃあありませんの。クローゼットから最もお兄様にお似合いの、優美なコートをお召しなさいませ」
「目立つなって言われてるんだよ。それにあんまり気合を入れすぎると、隣のアナスタジアに恥をかかせるかもしれない。彼女はまだほとんどドレスを持ってないんだ。きっと質素な市民服、いやもしかしたら男装で来るかも」
「もう! 気にしすぎですわ! きっとどんな格好でも、神姉様なら素敵だと褒めてくださるでしょうに」
「神姉様ってなんだ? ああ本当にどうしよう、選択肢がありすぎて一周回って何も選べない! レイミアも手伝っておくれよ、僕は本当に困ってるんだ。もう待ち合わせまで時間が無い!」
普段だったら僕は、妹の意見など参考にしない。しかしこの時、僕は本当に真剣で焦っていた。
そう、僕は平常心じゃなかった。そのせいで、
「そうですわね……アナスタジア様とお似合いの格好……でしたら――」
レイミアの突飛な提案に、うっかり「なるほど!」なんて、思ってしまったのである。
やっぱり違ったんじゃないかな、と気が付いたのは、窓から顔を出したアナスタジアの、呆れた顔を見た瞬間だった。
「なんちゅう格好してんの。バカなの?」
「……ぐうの音も出ません」
手の甲で口紅をぬぐいつつ、僕は素直に反省した。
僕のその日のコーディネートは、銀髪の縦巻きロングヘアーに、レースのボンネット、たっぷりドレープのハンカチーフドレス。
靴だけはさすがにサイズが無かったので男性用だが、それ以外はきっぱりと女性の格好である。ちなみに鬘を含め僕の所蔵品ではなく、なぜかレイミアが持っていた。
女装姿の僕を上から下まで眺めて、アナスタジアは、「ぐふっ」と笑った。
「うはは。一体全体どういう試行錯誤を経てそんなことになったのよ?」
「……なんでだったかなあ。なんだかずっと、遠い昔のことみたいだよ……」
鬘を外しながら呟く。アナスタジアは、それほど驚いてはいないようだった。ただ面白そうにニヤニヤ眺めつつ、扉のほうを指差した。
「割とクオリティ高いのがまた面白いわね。ま、とりあえず一回うちに入ったら? そろそろ人通りが増える時間よ」
「そうですね……お邪魔します」
僕は速やかに従った。
「ていうかごめんねー、あたし仕事が立て込んでて、まだ準備できてないの。着替えてくるから、あなたもこの服に着替えてて」
と、彼女が渡してきたのは、試作品らしい男性服だった。
平均的な男性サイズのようで、少し袖が短いが着れないことはない。無地の白シャツに短めのレイヤード。貴族服のように豪奢な飾りは何もないが、鏡に映してみると、普通に似合っている。
……そういえば僕って昔から、何着ても似合うって言われてたよな。だからこそあんまり頓着してないくらいだ。なんであんなに不安になって、妹に言われるままスカートなんか履いたんだろう?
…………浮かれてた、かな?
「お待たせ!」
とととっと軽い足音と共に、アナスタジアが階段を下りてきた。いつもの男装、少年の姿――ではない、ちゃんと女の子の格好だった。シンプルなドレスに丈の短い外套、編み上げブーツ。既婚女性らしからぬ快活な衣装だが、不思議と女性的……むしろ色気を感じる……。
まじまじ見つめる僕の前で、アナスタジアはクルッと一回転した。
「どう、可愛い?」
「ああ、よく出来てる……なるほど、あちこち締めたり乗せたりするんじゃなくて、裁断で曲線的なシルエットを作り、スタイルよく見えるようになってるのか。すごいなこれ、君が作ったの?」
心から感心して言うと、帽子で殴られた。
「今日は普通に、似合うよとかでいいのっ」
「あいてっ、なんだ服じゃなくてアナスタジアのこと? そんなの聞くまでもないだろ、可愛いに決まってるじゃないか」
「なんかおざなり、語彙が少ないわ」
「可愛いすぎて可愛い以外に言えないよ。言葉じゃなく態度で示していいなら、今すぐ抱きしめてベッドに運ぶけど――って痛い痛い冗談だよ!」
どう言うのが正解だったんだろう? とりあえず気のすむまで殴り終えたアナスタジアは、腰に手を当てフーと息を吐く。
「もう、始まりからグズグズ無駄な時間を過ごしたわ。さっさと行きましょう」
「はいはい、どこへ行くんだい?」
「まずは市場で買い出しかな」
「買い出し……ふつうショッピングって言わないかい?」
「そんな洒落たもの買わないわよ」
ふうん? 僕は小首を傾げつつ、アナスタジアの後に続いて、家を出た。
アナスタジアは、動きが早い。正確に言うと手足の動きが速く、しかし歩幅が狭いのでスピードはさほどではない。
横に並んで歩きながら、僕はずっと、彼女の手を見下ろしていた。体の動きに合わせてプラプラ揺れる、小さな手。
……そういえば……キュロス君とマリーちゃんは、手をつないで歩いていたなあ……。
僕はそうっと指を伸ばした。
こちらに振られたタイミングで捕まえようとする、が、小さな手はすぐにまた離れて掴めない。何度も何度も空振りする。むう。
よく狙いを定めて……よし今だッという、会心のタイミングで握り込む! が、それも空振り。アナスタジアは何かメモを片手に持っていた。
「えーと……まずは職人街からは出てー……」
「アナスタジア、何が欲しいの? アクセサリーなら僕が行きつけの宝石商があるから案内するよ」
「要らない、素材なら工房にあるし」
アナスタジアはあっさり言った。
……あ、そう……。
「それより下着が欲しいのよね」
「しっ……ああ、じゃあ、僕は店の外で待ってるよ」
「そう? あなたに選んでもらおうかと思ってたんだけど」
「ほぁっ!?」
僕は思わず大きな声を出した。その反応に、不思議そうに首を傾げる彼女。
「だって、男のひとの好みってあたしわかんないし。あなたが選んでくれたほうが絶対喜んでもらえるだろうから……」
「それは違うぞアナスタジア。どんなものでも嬉しいものだ、ていうかどんなものかなって想像する段階が一番楽しい、そしていざという時のお楽しみ――じゃなくて、初めての日から男が口を出すことではないと思うなあうん――」
僕は断固として拒絶した。アナスタジアは首を傾げながら、「じゃあしょうがないわね」と言って、ひとり衣服店に入っていった。
「……なんだ今の……もしかして、挑発……?」
それは……さすがにまだ、早いんじゃないだろうか?
いや、実はそんなに珍しいことではないけども。夜会では物陰で致してたりもする程度の国だけど。
しかしまがりなりにも初デートである。やっぱりこう……段階っていうものがあるんじゃないかな? いや僕たちはもう結婚しているんだけど。一応明日まで休みを取ったし泊まれるだけの用意はしてきているけれども!
やがて、さほどの時間もかけずに出てきたアナスタジア。
「お待たせ。じゃあ次は石鹸」
「ロマンチックな薔薇の香りがするやつなら百貨店に、王家が贈答品の発注をする店があって……」
「匂いが無いほうがいいの。それからコーヒー豆と、お菓子と……」
そんな感じで、アナスタジアは次から次に店をハシゴしては買い込んでいく。清潔であればそれでいいといったかんじの衣料品に日用雑貨、日持ちのする食料品……なんだか本当に、ショッピングというより買い出しだな?
思ってたのとちょっと違う。どうも全体的に色気に欠けている気がするのだ。それとも庶民のデートってこういうものだろうか……。
ずっとメモとにらめっこしているアナスタジアと、あんまりおしゃべりも出来ないし。
……さすがに、このまま一日が終わるってことはないよな?
「アナスタジア、そろそろお腹すかないかい? 表通りの百貨店に、美味しいレストランがあるんだけど!」
勢い込んで僕は言った、が、アナスタジアは首を振る。
「それはまた今度。帰って来てから、三人で行きましょ」
「……帰って? 三人?」
「そう、やっぱり病院食って味気ないらしくてね。快気祝いにはパーッとやりましょ。あたしたちは簡単にテイクアウトで……の前に、頼まれてたやつ買い忘れがないようにしなきゃ。ええと次は、髭剃りね」
「待ってアナスタジア、やっぱりこれなんか違うね!?」
「違うってなに」
「これ、何の買い出し? ていうかこれから、どこに向かうの!?」
アナスタジアはキョトンとした。青い目を二度ぱちくりさせて、
「何のって……そりゃあ、入院してるノーマンへの差し入れよ。言ってたじゃない、今度時間が取れたときにはお見舞いがてら、ノーマンに挨拶をしないとね――って」
「そういうことかああああああ!」
地面に座り込んで悶絶する僕。仁王立ちになったアナスタジアは、心底不思議そうにつぶやいた。
「いや、なんなの」
一通り買い出しが完了したら、市場を抜け、大通りに出る。ちょうどやってきた鉄道馬車に乗り、西へ向かって進んでいく。
ほとんどの乗客が降り、車内が空いてくると街並みも寂しくなってきた。終点で降りる。
遠く、丘の上に大きな建物があった。瀟洒なレンガ造りで、どこか堅牢な空気を感じる。それを紛らわせるためか、周辺は素晴らしい花園になっていた。
スミス・ノーマンが目の治療をしている病院だ。
「あまり騒がないでね。目以外でも、町の診療所じゃ手に負えない患者が来るところだから」
そういうアナスタジアも、手術の翌日に一度面会に来たきりだという。受付で、スミス・ノーマンの見舞いだと言うと、丁寧に部屋番号を案内してくれた。
ディルツ王国最高峰の病院は、医師だけでなくスタッフもみな優秀で、親切だった。キュロス君の手配により、部屋はいっとう空気のいい個室。
「ノーマン、起きてる? 入ってもいい?」
アナスタジアがノックし、声をかけると、どうぞと返事が来る。
柔らかそうなベッドの上に、目に包帯を巻いたノーマンが体を起こしていた。目から下の肉が、すべて笑顔の形になった。
「アナスタジアか? よく来てくれたな」
「ええ、久しぶり。要りそうなものをいろいろと持って来たわ」
「ありがとう……さっそくだが何か、甘いものが欲しい。菓子など無いか?」
「それならクッキーを持ってきてるよ」
僕が言うと初めてノーマンは連れがいるのに気付いたらしい。一瞬、不審がるような沈黙をしてから、ああと声を漏らした。
「ルイフォン殿下か……よくぞ、お越しくださいました。療養中につきこのような格好で、お迎えもできず申し訳ありませぬ」
「いやいや、とんでもない。こちらこそ、親子水入らずをお邪魔してしまって」
「ふ……親子というても、書類だけです。愛弟子があなたと成婚するために必要と言うから、諸々協力したまで」
……なんだろう。目元が隠れているので、その表情がいまいちわからないんだけど……なんとなく、ごりっとしたものを感じたような。
僕とノーマンは、もともと既知の仲である。しかし王族とその御用達の職人で、いわば客と店主。僕としては、わりと友好的な関係だと思っていたが、ノーマンとしては仕事で愛想よくしていただけかもしれない。
僕の好感度、意外と低かったりして?
彼ら師弟の信頼関係は、僕もよくよく知っている。……彼がこの結婚に大反対だったら……アナスタジアは説得されてしまうかも……。
僕の緊張を知ってか知らずか、アナスタジアは荷物を出しながら、明るく話しかけていく。
「目の調子はどう? 手術は成功したって聞いてるけど」
「ああ、ずいぶんいい。まだ強い日差しはよくないので、昼間はこうしているだけだ」
「なら予定通り来週には退院できそうね。よかった!」
声を弾ませるアナスタジア。その彼女がいる方向を、ノーマンの手が掻いた。空気を搔き混ぜただけで終わったが。ノーマンは少しの逡巡のあと、僕の方を向いた。
「殿下、恐れ入ります。カーテンを閉じていただけますか。部屋を暗くして欲しいのです」
「は、はい」
言われた通り、カーテンを引く。すると真っ暗闇とまではいかないが、色が分からないくらいになった。
そこで、ノーマンは自らの包帯をといた。固く閉ざしていた目をゆっくりと開ける。
深い皺に縁どられた、こげ茶色の瞳が、ぐるぐる動いて、あたりを見回す。まだぼんやりしているのだろうか、また何も無い宙を掻く。その手をアナスタジアが握った。
「どう? 見えるの……?」
ノーマンは、指先から順番に視線を上げて、アナスタジアの顔をまじまじ見つめた。
「……アナスタジア……?」
「そうだよノーマン爺、あんたの愛弟子、アーサーさ」
アナスタジアはそう言った。
彼女の顔を見つめ、ノーマンは手を震わせた。
「……そうか……アーサー。おまえさん、こんなに可愛い顔をしていたんじゃなぁ」
顔をくしゃくしゃにしたノーマン。フフッ、とアナスタジアも笑った。
「あとで鏡も見るといいよ。ノーマンも、自分で思ってるよりずっと優しい顔をしてるから」
ゆっくり、酷く遠慮がちに手を伸ばすノーマン。飛びつくように抱きしめる弟子。そうして二人は、初めて出会ったのだった。
……こういうとき、『僕の顔は見ない方がいいよ、眩しくて目に悪いからね!』とか言うのが僕という人間である。しかし今日は、言葉が出なかった。なんというかそのちょっと……感動してしまって……。
近況の話を始めた二人に背を向けて、こっそり洟をかんでから、
「それじゃあ僕は飲み物でも買ってくる。師弟で積もる話があるだろうから、ごゆっくり」
「お待ちください殿下」
歩き出したところをノーマンに止められた。
「殿下はここに。買い物はアナスタジア、おまえさんに頼む」
「え?」
「ん、わかった! 行ってきまーす」
アナスタジアはすぐに頷いて、僕の横をすり抜け、すごい速さで出て行った。
「え。あっ、ちょ。え」
病室には僕とノーマンの二人きり。
「どうぞ……そちらの椅子にお掛けください」
言われるがまま、腰を下ろす。そうするとちょうど、ベッドのノーマンと向かい合う形になり……。
僕はフラリアの女帝や、王太子との対面よりはるかに緊張して、苦い唾を飲み下した。




