物語のおしまいと、遥かなる旅のはじまり
――彼らの様子を、わたしは少し離れた場所……闇に隠された馬車から見ていた。
城門に背を向け、こちらへ歩み寄ってくるキュロス様。車体がノックされてすぐ、わたしは扉をひらいた。
「キュロス様! お怪我はありませんか?」
「無いよ。でも正直、ちょっと疲れた」
「お疲れ様です、さあどうぞ中へ入って、お休みください」
ハンカチーフを差し出したが、彼は断り、自身の胸元から出したもので目元を覆う。
秋の夜だというのに滴るほどの汗。わたしは今更ながら心臓がキュウっと縮まった。
「本当にお疲れ様……ああよかった、勝てて……」
ああいけない、わたしのほうが冷や汗が出てきた。ハンカチーフを握る手が震えて冷たい。その手を、キュロス様がそっと両手で包んだ。
「ヒヤヒヤさせたか?」
「いいえ、きっとあなたが勝つと信じていました。だけどやっぱり怖くて、キュロス様にもしものことがあったらと、ああ、ごめんなさい」
「心配かけてすまない。危ないことはもうしないよ。俺一人の身ではないと分かっているつもりだ」
「キュロス様……」
そう、彼には護らなくてはならない人間がたくさんいる。だけどわたしにとってはたったひとりの夫。そして彼の妻も世界でただひとり、わたしだけだ。
わたしはキュロス様を抱きしめ、胸の中であやすように慰めた。キュロス様は脱力し、大きな猫になったみたいに頭をすり寄せてきた。こういうとき、恥ずかしがって逃げない彼がいとおしい。同時にわたしも彼の体温に溶かされる。ここしばらくは緊張状態で、地下道と裏宿を巡っていたのだ。やっと人心地がつけて、わたしたちはお互いを労わり合っていた。
しかし、
「……それほどゆったりしている時間はないだろうに」
斜向かいに座る乗客は、そう不機嫌そうにつぶやいた。
あらいけない、存在を忘れていたわ。わたしはキュロス様から身を離したが、彼はわたしを放さない。わたしの腰を抱いたまま、機嫌のいい声で囁いた。
「見逃せ、シャデラン男爵。やっと二人きりになれてホッとしているところなんだから」
「二人きりじゃない、私がいるだろうがっ」
かんしゃくを起こしたみたいに叫ぶ、お父様。フンと鼻を鳴らしてそっぽを向いたりして、我が父ながら、拗ねた子供のようだ。
「まったく。ひとを突然ひっ攫っておいて、急遽予定変更で城に戻るだの待っていろだの振り回しおって。あげくの果てにはイチャつき待ちとはどういうことだ」
「おや男爵、あの学園の寮から連れ出してくれてありがとうと礼を言われるかと思っていたが。案外心地よかったのか」
「なんでそうなるっ!」
ああ……本当に子どもの喧嘩みたい。わたしは困りながらもちょっぴり愉快で、思わずクスクス笑ってしまった。
あの地下通路からレザモンド記念学園へと潜入し、父を学生寮から連れ出して以来、ふたりはずっとこんなかんじ。キュロス様が何か言うたび怒る父だけど、毎度言い返すあたり、へこまされてもいないらしい。案外、何も知らない他人からは、仲のいい舅婿に見えるかも。
……良かった。異国で結婚を承認されるには、新婦の親の同席が必要と分かったときはちょっとどうしようかと思ったもの。この調子なら問題なく、旅を続けられそうね。
「行くならさっさと行くぞ!」
「そんなに急がなくても、外洋船の出航は俺たちが到着次第となっている、置いていかれることはないぞ」
そう言いながらも、キュロス様は御者台に顔を出し、出立を促した。
これからわたしたちは王都を出て、運河沿いの宿へと向かう。夜明けまで体を休めたら、馬車ごと船で運河を下り、王国の最南端にある港町へ。そこから外洋船に乗りこむ予定だった。
わたしは過去一度も、いや田舎の男爵の娘には一生経験できない長旅だ。たとえ急ぐ必要が無くても気が急いていた。
だって、外国へ行くのよ。それもこの、キュロス様との結婚式で!
不安と緊張はゼロじゃない、だけどそれ以上に、わくわくが止まらないの。
ともすれば声を上げて笑ってしまいそうなくらい浮かれている。どうにかそれを抑え込み、わたしは父親に話しかけた。
「ところでお父様、さきほどから言葉がディルツ語になっていますよ。これからの会話はフラリア語でと決めたじゃありませんか」
「話せないもんは仕方がないだろうが!」
と、ディルツ語で言い返されたけど、話しかけたわたしの言葉はフラリア語。聞き取りはできたということだ。
それを絶賛すると、父はまたプイと横を向いた。
「ふん。朝から晩まで同じ部屋で、フラリア語しか話せないやつといたらいやでも聞き取れるようになるわ」
「あの学園は異国の貴族も多く留学に来てるからな。生きた異国語が一番覚えられる環境だぞ」
「素晴らしい部屋割り、良かったですねお父様。羨ましいわ」
心からそう言ったわたしを、父は睨むようにじっと見つめた。
「皮肉か。ほんの何ヶ月か前までは、ハイイイエもろくに言えなかったくせに……」
「本心ですよ。わたしもまだまだ未熟、これから海外を巡るのに不安でいっぱいですもの。ほら」
と、鞄から大量の本を出して見せる。全部、異国で生活をするための言語や文化を学べる教科書だ。わたしの外国語はほとんど本での独学なので、現地のひとと会話が成立するか怪しい。
「道中、一緒に勉強していきましょうね、お父様」
「……おまえというやつは、昔から、そう……」
お父様は、何かぼそぼそ呟いた。聞き返すと黙り込む。
過去ならば、ここで言われる言葉は定番で決まっている。『可愛くない』と――
「男爵、もう素直に口にしたってなにも問題ないんだぞ」
キュロス様が父をつついて言った。
「父親がなんと言おうとも、マリーはもう揺るがない。だからもう、隠す必要はないんだ。言ってしまえ――娘は綺麗で、可愛いと思っているだろう?」
お父様の目が真ん丸になった。
結局なんにも言わずそっぽを向いて、黙り込んでしまったけれど、そんなわけないと反論はしなかった。
キュロス様は苦笑いして、わたしにそっと耳打ちする。
「惜しい、もう一息ってところだな。酒でも飲ますか」
「無理に言わせなくていいですよ。どんな態度でも、腹も立ちませんし。むしろ最近、なんだか父がかわいく思えてきました。ああして横を向いてると、アナスタジアに似ていますよね」
「……強くなったなぁ、マリー」
「強くならざるを得ません。わたしはこの国で一番強い男の妻なんですもの」
わたしはキュロス様の手を握る。彼は嬉しそうに目を細め、わたしを撫で撫で甘やかした。それからフラリア語でぼそり言った。
「それはそうと、あの親父を結婚式で泣かせてやりたい」
「誰が泣くか!」
父がディルツ語で叫んだ。
小舟は馬車を乗せて運河を下り、やがて港の街へ着く。一度下船し、港町を往く。
王都とはまた少し違って、たいそうにぎやかな街だった。どうせ馬を走らせることはできないので、わたしたちは車を出てゆっくり歩いた。
なんだろう、不思議な……匂い。
めいっぱい息を吸い込んで、その町の香りを楽しんでみる。
やがて視界が開けてくる。とつぜん地面が無くなっている――と思ったら、先に見える青は空ではなかった。
視界一杯に水がある。さっきから感じていた匂いはここから始まっていたらしい、その正体に気が付いて、わたしは思わず足を止めた。
「もしかしてこれが、海……!?」
「うん、そうだよ」
これまで何度も外界に出て、海を見慣れているキュロス様だけど、わたしを笑ったりしなかった。むやみに声をかけもせず、わたしを感動に浸らせてくれる。
海。これが海――ああなんて青くて大きいの。
川に流れているものと同じ、水のかたまりだとは思えない……いや、同じではなく塩水だったわね。見渡せないほど大きな海、いったいどれほどの塩が溶けているのだろう。この塩はどこから来たのだろう。そしてどうして誰も取ろうとしないのだろう。シャデラン領では、塩は決して安いものではなかった。国は塩を盗まれないよう、衛兵を置かなくていいのかしら。そういえば獣も見当たらないわ。ヤギなんて、牧場に岩塩を置いたらべろべろ舐めに群がってくるのにね。
不思議……海って不思議。水平線の果てはどうなっているの。目で見えるところの向こう側には、何があるのだろう……。
「マリー、あれが船だ。グラナド商会が持っている外洋貿易船」
キュロス様に肩をたたかれる。彼の指差す先に、大きな黒船が停められていた。鋼鉄の外装と天を刺すほど巨大な帆。蒸気の力で動くのだというその船は、屋敷よりもずっとずっと大きくて、街のようだった。あれが貿易船……運河の渡し船とは全然違うのね。あんな大きなものが水に浮くの? そしてあの大きな大きな海を渡るの?
「マ、マリー……食料はどうなるんだ? 肉はいつ買うんだ」
なぜか小声でわたしに尋ねるお父様。わたしにも分かりません、中には冷凍庫も調理場もあるらしいけど――と答えてあげたいが、わたしはもう言葉を失くしていて、というよりはあまりにも浮かれすぎていて、なんだかもうお父様の声がなにも聞こえなくなってて、ああ。わああ……。
わたしをそばに置きながら、積み荷の確認をしていたキュロス様。ふと顔を上げ、不意に大きく手を振った。
「おぉーうい! リヒャルト殿下!!」
グラナド商会の船のそばに、二回り小さく、しかし性能のよさそうな美しい船があった。波止場にある馬車には、見覚えのある紋章がついている。その馬車から現れたのは、やはり見知った顔の青年だった。
ディルツ王家の第二王子、リヒャルト様。彼はキュロス様に気付いてから、一度は気まずそうに目を逸らしたが、すぐに顔を上げ、こちらへ歩み寄ってきた。
「グラナド伯爵。このたびは……面倒をおかけした」
「とんでもない、こちらが礼を言う立場です。リヒャルト殿下の手引きが無くては、もっとずっと面倒で危険な賭けをしなくてはいけないところでした」
朗らかに言うキュロス様。すると、リヒャルト様も相好を崩す。
「……誰かのためにしたことじゃない。おれは……ひとに嫌われるのが、嫌なだけだ」
そんな話をしている最中、「キャー!」という悲鳴が聞こえた。先ほどリヒャルト様が出てきた馬車から、少女がひとり、転がり落ちていた。
慌ててリヒャルト様が駆け寄る。少女は彼の手を取り、よろめきながら立ち上がった。年の頃は十二、三歳。華奢な体に不釣り合いなほど豪華なドレス……フラリアの王女、名をクローデッドという姫君は、わたしたちに気付くとまた悲鳴を上げた。リヒャルト様の背中に隠れてしまう。あらまあ……わたしも臆病で人見知りだけど、これは……。
キュロス様は苦笑いした。
「令嬢というものは、やたらと気が強いか箱入り娘かのどちらかだが……これは筋金入りだな」
「そう言うな、母親がアレだぞ。それに王女はこれから、おれのエスコートでフラリアまで帰るんだ。可哀想に、さぞ退屈をさせてしまう……」
「いやどうかな、案外、殿下は面白――」
「だいじょうぶでェすっ!!」
突然、姫が絶叫した。
わたしたち三人、それに御者や積み込みをしていた船員までが一斉に振り返る。王女はハッと息を呑み、またリヒャルト様の背中に隠れた。
「あ、あの、大丈夫です。私もリヒャルト様と同じ、話すの、苦手で。男のひと、こわくて。でも。あの……同じ。リヒャルト様は、同じだから……っキャァー!」
「うん?」
王女は突然顔を覆い、きゃあきゃあ言いながら船へと走っていってしまった。
リヒャルト様は目をちかちかさせて、キュロス様は大笑い。うーん、わたしはどういう反応をしたらいいものかしら。
とりあえず当たり障りなくいこう。わたしはリヒャルト様に話しかけた。以前の学びを活かし、視線はわずかに外しながら。
「リヒャルト様は、そのままフラリアへ留学されるのですね」
「……ああ、王女の安全を考えて、まめに補給しながら大陸沿いを北上するが。それでもひと月もあればフラリアへ着けるだろう」
「おめでとうございます、リヒャルト様。フラリアが良き学びの地となりますように」
「……うん」
彼は、とても素直にうなずいた。
「おれはフラリアで、出来るだけ多くの建造物を見て回る。フラリアは歴史のある国だ。今は失われた技術や文化、古い建物がたくさんあるんだ」
「お疲れの出ませんように、がんばってくださいね。きっと次の国王はあなたですし」
「……は? おれは第二王子――いや、ライオネルが失脚したとしても、順当に考えてルイフォンだろう」
「どうでしょう、ルイフォン様はともかく姉は王妃という柄ではありません」
「それでいうとおれは最も王座から遠いな。国王には子孫を作る義務がある。おれは妃を娶れる気がしない」
「ええ、ですからそれが、大丈夫のようなので」
首を傾げるリヒャルト様。あまり言ってしまうとうまくいくものもいかなくなるかしら? なんでもありませんと手を振った。
「……それに、おれは弱い。この軍国ディルツの王子がこれではだめだろう。剣を振るうのに向いてない。臆病者で、自分が傷つくのも人を傷つけるのも嫌なんだ」
苦々しく吐き捨てるリヒャルト様。お世辞にも雄々しいとは言えない拳を握りしめ、静かに。
「フラリアは軍国ディルツと違い、守りに徹することで国を豊かにしてきた国だ。これからはディルツも他国を侵略するのではなく、自国内で科学と文化を育て、発展していく。古城にはそのノウハウが詰まっている。おれは攻める技術じゃなく、守る技術を学んでいきたい……」
わたしは破顔した。隣のキュロス様を見やると、彼も顔をほころばせている。
「やっぱり、リヒャルト様がディルツの王に向いておられますわ」
「リヒャルト様ッぁぁああああっお急ぎください! 船が出ますよおおおおおっー!」
甲高い声が港に響く。クローデッド姫が両手をぶんぶん振って、リヒャルト様を呼んでいた。
先に発つ彼らを見送って、わたしたちも、馬車を貿易船に搬入する。
「ディルツに帰ってくるのは何年後になるのかしら」
「どうだろうな。結婚式場まで直行直帰で往復するなら一年足らず、補給用の町で交易をしたり、数日滞在しながらでも二年もあれば帰ってこれるが……」
と、キュロス様は鞄から、革の袋を取り出した。そこには大切に保護された紙束が入っている。
「婚約式に来られなかった者や、マリーの手紙を受けてぜひ直接会いたいと言っている王侯貴族が世界各国にいっぱいいる」
「グラナド商会としても、取引のいいキッカケになり得ますよね」
「国の情勢にもよるが、出来れば極東、シャイナの果ての島国まで行きたいな。素晴らしい真珠産業があるらしいんだ」
「……わたしはこれからいろんな国へ行けるのですね。はるか遠く、絵本でしか知らない国にまで」
「ああ、もちろん」
キュロス様は頷いた。
「俺は君を、異国に連れて行ってあげたかった。初めて会った時からずっと。自分に自信が持てないという君に、世界の声を聞かせてやりたかった。
大好きだという絵本や図鑑に載っているものが、現実にあるのだと伝えたかった。
本で名を識ることしかできない英雄や、詞だけでメロディが分からない古い歌。虹色の羽を持つ巨大な鳥の、この世のものとは思えない奇妙な声……。
俺の家や財産なんてちっぽけなものじゃない、もっともっと大きく得難いものを、君にプレゼントしたかった」
「……本当に……夢のようだわ」
大きすぎて、幸せすぎて、不安になるほど。
だけどわたしの隣には、かならずキュロス様というひとがいる。明晰夢ではないかと疑っても、彼の背中が、瞳が、手が、わたしに現実だと教えてくれる。
やがてわたしは彼の子を身ごもるだろう。その子が幼いうちは世界各国を見て回るのは難しい。この旅は最初で最後の航海になるかもしれない。
世界中、すべての国を回ることはできないだろう。だけど後悔はしないわ。だってわたしはもう知っているもの。たとえこの目で見れなくても、それは現実にあるものだと。
わたしはもう、いつか魔法が解け消えてしまうだなんて思わない。もう何も不安はない。
あなたはいつでもそばにいてくれるって、あなたがそう教えてくれたから。
「マリー、旅はそれなりにきついぞ。たくさん歩いたり、山を越えたりしなくてはいけない」
「あら、わたしはもともと、たいそう働き者なのよ。力仕事でも汚れ仕事でも何でもやるわ」
「そんなことさせるか、全部俺がやる」
「頼りにしています。だけどわたしのことも頼りにしてね……あなた」
「うん。一緒に行こう」
船室に荷物を積み込み、しばらくはくつろぐ。出航の直前に昼寝を始めてしまった父を置いて、わたしたちは甲板に出ることにした。
「わあ……高い」
どこまでも続く青い海。
振り返ればディルツの港町。
出航の汽笛が鳴って、船体がゆらりと傾ぐ。
おっとっと、とたたらを踏むわたしに、キュロス様が手を差し出した。
わたしは迷うことなくその手を取り、ぎゅっと力を込めて握る。
わたしが倒れないよう支えてもらうためでも、彼のもとへ引っ張ってもらうためでもない。
ただその手が心地よくて、繋いでいたいから。
放さないわ、あなた。
放さないでね、わたしを。
ずっとずっと、二人で共に歩き続けて行くために。
これにて、ずたぼろ令嬢の続編であるカラッポ姫~本編の完了。
次回、後日談の短編をもって、全編の完結となります。
最後までお付き合いをよろしくおねがいします。




