俺はマリーを娶りたい 前編
ぼんやりと、夜空の星を数える。俺はもう数時間、そうしていた。
バルコニーテーブルには早採れの葡萄酒。熟成させたワインと違い、若く鮮やかで透き通った赤色をしている。
まるでマリー・シャデランの……俺の婚約者の、髪の色。俺はため息をついた。
「……綺麗だ……」
「なにがキレイダですか旦那様。現実逃避はおよしなさいませ」
ごとんっ、と乱暴に水差しを置いて、ミオが剣呑な声で言う。
俺は彼女を睨んだ。一応、素直に水を受け取りながら、
「別に酒に逃げてなんかいない。むしろ機嫌はすこぶる良いぞ」
「それこそが現実を見ていない証拠だと申し上げております」
なにがだと聞き返すと、ミオは心底呆れたように眉を寄せて、腰に手を当てた。こういうときの彼女は容赦がない。
「マリー様は、婚約を拒否なさいました」
「うっ。……いや、しかし。……俺は確かに、求婚の手紙をシャデランに送った。そして彼女はやってきた。もうこの時点で婚約は成立しているかと」
「んなわけないでしょ、っていうか真ん中ゴッソリはしょりましたね」
ううっ。言い返せず、黙って水を飲む。ミオに慈悲はない。
「あなたが求婚したのはアナスタジア・シャデラン。シャデラン家の亡きご長女です」
「……う。……いや……しかし、それは」
「そして彼女はマリー・シャデラン。アナスタジア様の妹でした」
「……うん」
「ということで初回の求婚は無効です。マリー様に対して求婚したことはたったの一度もありませんね」
「だって、仕方がないだろうっ!?」
俺は声を張り上げた。
「――パーティーの主役が暗闇の中、一人でしゃがみ込んでいるなんて、そんなわけがあるかっ!?」
「……事実、そうであったのだから仕方ないですね」
ミオも嘆息し、珍しく、渋い顔をした。
そう、俺だけじゃない。彼女もまた誤解したのだ。
姉妹の立場とその名前を。
金髪の令嬢がマリー。あの夜――俺が一目惚れをした、赤い髪の少女はその姉、アナスタジア・シャデランだと。
シャデラン男爵家が困窮していることは、貴族内輪でも噂になっていた。何だかんだと理由をつけて社交界に出てこないのは、その路銀すら無いからだと。
そして、娘の誕生日パーティーへの招待状。それがめぼしい独身男にのみ宛てられていたこともだ。
初春の社交界で、友人、ルイフォンが同じ招待状を持って笑っていた。
「いやあ、すがすがしいほどあからさまだ。金持ちか大貴族と政略結婚したいってのが見え見えだね」
「……全く、卑しいことだ」
俺は嘆息した。ちょうど側に寄ってきた貴族娘から、チョコレートを受け取り、礼だけ言って背中を向ける。
ルイフォンはクスクス笑った。
「しかし実際、相当な美女らしいよ、シャデランの娘ってのは。ぼくはもう婚約者がいるから無理だけども、キュロスは行ってみたらいいんじゃない?」
「……俺は、貴族の女に興味がもてない」
俺が言うと、ルイフォンは鼻で笑った。
「はいはい、知ってますよ、普通の貴族娘は、東部を野蛮な地だと嫌ってるからね」
「……口には出さないけどな。俺の肌や瞳の色を、嫌悪しているのがバレバレだ」
「それでもモテはしてるじゃないか」
「地位と金と顔目当てだろ。色味を除けば、俺の容姿は非の打ち所がない」
「自分で言う」
「いっそそのまま侮辱してくれたほうが無視できる。口元だけヘラヘラと笑いながらすり寄って、目では俺や母を蔑んでいる。あんな気持ちの悪いものと子が作れるか! 庭に入れたくもないっ!」
「あーぁーまたそんなことを言う。キミね、そうやって人を選んでるから、使用人も友人も少ないんだぞ?」
「ミオと、ルイフォンがいれば十分だ」
俺が返すと、友人は肩をすくめて苦笑した。
「……いい男だねぇーキュロス君。キミの心を射止める女性がどんなひとか、僕はとっても楽しみだよ」
俺は無言になり、チョコレートを噛み砕いた。そんな日が来るわけがない、と心の中で断定しながら。
それでも、俺には生涯独身という選択肢は無い。
伯爵という地位にあり、公爵家唯一の男児。独身のままでは公爵の地位を継げないし、さらに子供を作る義務がある。そして相手の女も、それなりの家柄でなくてはいけなかった。
女は地位と金目当て、こちらも義務と責任。お互い様だ。愛のない結婚に、俺は何の躊躇もなかった。
だがしかし……側室は取りたくない。たとえ愛のない結婚でも、妻は正室ただ一人がいい。
母、リュー・リューと、父の第一夫人との確執を知っているから。
父、アルフレッド・グラナド公爵の正室、ローラ夫人は貴族の娘で、やはり政略結婚だった。彼女もそれは割り切っていたのだろう。父との子を三人産むと、その後は父と一切の会話もなく、公爵城で明るく過ごしていたという。
しかし父が側室を迎えてから、彼女は変わった。リュー・リューを激しく嫌悪し、暴言と暴力でもって侮辱した。
それでもまだ良かった。やがてリュー・リューは父の子を産んだ。イプサンドロスの特徴が色濃く出た男児だった。
公爵家はいずれ、この男児に相続させることにする――
そう、ローラ夫人が伝え聞いた翌日……彼女は自害した。
彼女が産んだ父の子は、みな女児であったから。
それから……父はリュー・リューを正室に格上げしたが、母は公爵家を出て行った。わずかな侍従と古城だけ譲り受け、かつての旅芸者仲間のツテを使い、東部共和国との貿易で財を成した。公爵夫人としては避けられない公務をこなすだけ。まるで自分はあくまでも、側室に過ぎないのだと誇示するように。
それが、俺とグラナド家の歴史。
正直言って、俺も公爵の城は心地悪い。貴族の集まりも嫌いだった。社交界は何かと言い訳をして不参加、まして貴族娘との結婚話など、全力で逃げ続けてきた。
嫌い――いや、怖いとすら思う。
人を愛すること、愛されること。結婚をすること、子供を作るということ。
真剣に考えれば考えるほど怖かった。
何も考えたくない。恋など一生しなくていい。
俺は、手に持った封筒……誕生日パーティーの招待状を熟読した。
マリー・シャデラン。十八歳、シャデラン男爵家の次女。
聞くところによると男爵家は、相当に困窮しているという。爵位も高くない。
……ちょうどいいのかもしれない。
どうせ無能で傲慢な貴族娘なら、御しやすいほうが楽でいい。
美女らしいぞと吹き込まれたけども、どうでもいい。子供が出来ればもう二度と見ない顔だ。
俺はそんな、完全なる打算だけで、マリー・シャデランの誕生日パーティーに向かった。
そして――その『主役』と出会うより早く、『彼女』に出会ったのだ。
お世辞にもつややかとは言えない肌。ボサボサの毛玉のような赤い髪。
質の悪い木綿だろう、灰色のダサいワンピースを着ている。
怯えるロバのように背中を丸め、縮こまっていた。
なんだこいつ……こんなパーティーの夜に、中庭で何をしている? 使用人にしても挙動不審だ。おれは疑いの目を持って、『彼女』に屋敷への道を聞いた。
ミオはシャデランの令嬢ではないかと言ったが、疑惑は晴れなかった。さては泥棒じゃないか? 尻尾を掴んでやる。そうほくそ笑みながら、俺は『彼女』にカマをかける。
『彼女』は俺を見た。瞬間、顔つきが変わった。
――もしかして、イプサンドロスの方ですか?
正直、俺はこのとき、混乱した。
東部共和国は名前の通り、大陸東部の諸国、小民族をいくつも孕む大国だ。この黒髪と褐色の肌は、東部全体の特徴である。しかしイプサンドロスと特定されたのは初めてだった。おそらくはこの闇でも煌めく瞳のせいだろう。
だが知識が無ければわかるはずもない。
試しにイプス語で肯定すると、『彼女』はイプス語で応じた。ほとんどの王都民が知らない、東部共和国の真の姿を、『彼女』はよく知っていた。想像以上の教養。そしてなにより、その表情の変化に俺は驚いた。
さっきまでの曇った顔と全く違う。伏し目がちだった双眸を大きく見開き、イプス語を発音するため口を縦に開け、ハキハキ喋る。
俺に少しでも近づこうとして、背筋を伸ばしていた。
――あははっ、卿はお洒落なのね――
……美人だ。間近で見ると、その素材の良さがわかる。細い顎、小さく品の良い鼻筋に、切れ長の瞳。呼吸で震えるほどに豊かな睫毛。愛嬌は無いが、左右対称に整った造作をしている。
それを満面の笑みでくしゃくしゃにして、幼女のように笑っていた。
ほんの少し浮かんだそばかすの上で、山吹色の目をきらきらさせて、俺の顔をまっすぐ見上げて。
――わたし、イプサンドロスの物語が大好きなの――
……家柄がちょうど合い、子を産んでくれるなら誰でもいい。できればイプサンドロスに理解があればありがたい。
そんな打算はすべて吹っ飛んだ。
彼女が何者か、そんなことはどうでもいい。
俺は彼女に恋をしたのだ。
次回もキュロス視点です。




