鋼鉄の箱の中
「父上……なぜ……この場所に」
「なぜ? なぜ問う。我が息子の結婚式に父親が参列して不思議はないじゃろうに」
ライオネルの問いに、父は簡単に即答した。
丸眼鏡の向こうにあるつぶらな目を細め、猫をなだめるような穏やかな声。誰もが親しみを感じる笑顔のままで、
「そんなに不思議か? 王が自由にこの地を歩いていることが。外鍵をかけ、天高い塔に監禁したはずなのに、と」
ライオネルはその場で硬直した。
父は歩みを止めなかった。長男の前を通り過ぎて、僕とアナスタジアのほうへ近づく。そして目をまん丸に見開いて、両手を広げた。
「ふおおおっこりゃあ別嬪さんじゃぁぁ!」
いきなり大声を上げられ、アナスタジアの全身が猫のようにビクッと跳ねる。心なしか、僕の背後に隠れながら、
「……ど、どうも。恐れ入ります。国王陛下におかれましては、ご機嫌うるわしゅう……」
「ああーかしこまるでない、今日の主役はあなたがたじゃ。ああ、話には聞いておったが本当にええ子じゃのぉ。ルイフォンおまえ、どうやってこんな可愛い娘を口説き落としたんじゃ? ええ子じゃのぉー」
「はは……父上、お変わりないですね」
思わず僕も苦笑い。
そう、我が父上……ディルツの王は、こんなひとだ。いつもこうして朗らかで、どんな身分の人間にも分け隔てなく優しく、安心感を抱かせる。
誰よりも優しくおおらかな柔王――ディルツの泰平はこの王があってこそだと、国民はみんな知っている。しかし……。
その穏やかな笑みのまま、父は王太子を振り返った。
「――して、ライオネル。先の質問に答えてもらおうか。おまえはいつ、国王に即位したんじゃ。わしゃ譲位したおぼえがないぞ」
……黙り込んでいるライオネル。
その表情は、もはや『鉄面皮』と呼べる物ではない。審問を前にした罪人そのものだった。
この反応は僕にとって意外だった。父は母を亡くして以来ふさぎ込み、王太子に全権を譲り渡して隠居した――はず、だ。実際、父が母の葬儀でしょげかえり、兄に政治を託したのを、僕自身が目にしている。塔に引きこもったのも父の意志のはず。
だけど、何かが、違う? 父は思っていたよりもずっと元気そうだし、ライオネルに怒っているようだった。
「『鳩』が届けてくれた文によると……儂への報告とは、ずいぶん違うことになっとるようじゃのぅ?」
ライオネルは拳を握りしめた。王の前で片膝をつき、顔を伏せたまま、ゆっくりと話し始める。
低い声をやっと絞り出すようにして。
「……私は……あなたに言われたとおり、このディルツのために粉骨砕身しておりました。誓ってそれに嘘はございません」
「ああ、おまえは真実、真面目でよく働く男だと評価しておるよ」
「その私に、王の代わりに政治をしろとおっしゃったのは、あなた自身です」
「ふむ。たしかにそれは、その通りじゃがの」
父はアゴヒゲを指でクルリとねじり、幼児みたいに首をかしげた。
「しかしのぉ、ほかにも色々、言わなかったかの? わしが戦後数十年、泰平の世が末永く続くよう進めてきた政策を。農業など第一産業の技術改革。それから工業や科学技術の促進。またウィークポイントである芸術や伝統工芸発展への惜しみない投資を、と」
「えっ……!」
僕は思わず声をもらした。それって、僕が考えていたことそのままじゃないか。
「そしてそれを流通させるため、国内最大の商家、グラナド家と良好な関係を築くようにと。わしゃあそこんところ、おまえに強く言うたはずじゃが」
「それは……進めてきました! かのキュロス・グラナドとレイミアを婚姻させることで、グラナド家を王家で支配できるように――」
「支配は良縁ではない。レイミアとの縁談はともかく、すでに愛し合う婚約者がいるのを引き剥がしてどうすんじゃい。たとえ謀略が成ったとしてもひどく恨まれるじゃろ。王宮内で姫婿に寝首をかかれやしないかと、気になっておちおち眠れやせんわ」
父は語気を強めた。
「ライオネルよ。わしゃーお前に、キュロス君と仲良ぅなれと言ったんじゃ。喧嘩してどうする、たわけ!」
「…………っ……!」
ライオネルは再び口を閉じた。
ああ、そうか。……そうだったのか。
なるほど兄は父の言葉を誤解してしまったのだな――
などと、思えるほど、僕らはお人好しじゃない。
グラナド商会との縁結びが目的だったなら、僕を誘拐監禁した罪を着せる理由が無い。政略結婚にせよ、レイミアをグラナド家にやるのではなく、あくまでも王家優位にこだわり、キュロス君を取り込もうとしていた。ライオネルはむしろ、グラナド家を没落させたかったとしか思えないのだ。
それに他の執政も行われていない。荘園であるシャデラン男爵領は放置され、没落し、ほかの農村も離農が加速している。食料はフラリアとの貿易頼り、工業は過去の遺産である兵器を売り捨てて、ディルツの発展は止まってしまった。貿易商のキュロス君が若くして成り上がったゆえんである。
ライオネルは、父王の代わりをしていない。
ただライオネルの思う政治をしていただけだ。
「これでは、次期国王どころか王の代理も任せられんな」
ディルツ国王は静かに言った。
「……どこか……東の果ての国にでも留学するか、ライオネルよ。一度は国元を離れ、そこで帝王学というものをイチから学び直すといい……」
え。そ……そんな……本当に?
僕は慌てて、父と兄の表情を見比べた。そして両者の顔つきから、父の言葉の真剣味を悟る。
王太子が留学――それは決して悪いことでも珍しいことでもない。少年期、勉強の一環として、あるいはコネ作りとして他国に駐在するのはよくあることだ。僕が通っていた学園にも、そんな異国の令息令嬢が多くいた。だがライオネルはもういい大人だし、当人は王になったつもりですらいたのだ。今になって学び直せというのは、侮辱であり屈辱であり……王位継承からの落第通知でもあった。
「……お兄様……」
レイミアが小さく呻く。
「残念だよ、ライオネル」
父の声は優しくて、本当に、残念がっているようだった。
「……残念なのは、父上です。あなたが、間違っています」
ライオネルは、独り言のように言う。
「……このディルツは、軍国です。小さな領土から、たぐいまれな統制力で他国を侵略し、支配下に置くことで大きく強くなっていった。我ら王族は――グラナド家もまた、その誇りを忘れてはならない。
私がやっていたのは兵器の売り捨てではない! フラリアに前時代のものを買い取らせ、それを資金に新技術を開発させていた! 五十年後にはフラリアに攻め込む。この神聖ディルツ帝国が、大陸の王になるのだ!!」
ライオネルは叫ぶ。彼にとって、それは最終兵器だったんだろう、確実に。だが父の反応は鈍い。舌打ちをし、さらに叫ぶ。
「父よ! 王よ! 己の手をしかと見よ! 爪の端にまで行き渡る、帝王の血を!
そして嘆け、己の愚策を!
おまえの政治が成ればディルツは腐る。農民や商人が金という力を持ち、王都を我が物顔で闊歩する。職人は商売人となり、その高い技術を女子供の飾り造りに費やすことになる!」
…………うん?
「騎士団は剣を抜くこともなく、ただの象徴や市街地の衛兵に成り下がる。そこにあるのはもはや戦士ではない、ハリボテの飾り物だ。どいつもこいつも――見た目だけ華やかで、中身はからっぽの人形――この出来損ないの三男坊のようなゴミクズになるのだぞ!」
父の眉がつり上がった。微笑みを浮かべていた口元が、一瞬への字に噛みしめられる。やがて大きく開かれ、何か発言しようとした、その直前。
「いい加減にしなさいよこの、すっとこどっこい王太子っ!!」
――世にも可愛らしい声が、神聖な教会に響き渡る。
アナスタジア。
「……す? ぉ、っッくッ」
ライオネルは、喉にカエルが詰まったような声でシャックリをし、国王は、「ほほっ」と楽しそうに笑った。
アナスタジア・シャデランは、美しい。
数々の美姫や令嬢と対面してきたこの僕でも、彼女より美しい女性をほかに知らない。
くすみひとつない純白の肌に、黄金色の髪。夏空のような青い瞳。顔の造形はまったく非の打ち所がなく整っている。
『まるで生きてるみたいな人形』よりも人形らしい、その美女は――額にクッキリ青筋を立て、ウェディングドレスで仁王立ちになっていた。……王子と国王を背後に控えさせ、王太子に向かって、まっすぐに。
「ひとがブリッコして黙って聞いてりゃ、好き勝手なことばっかり言いやがってこんちくしょうめ。なんだか大層なこと言ってるけど、ただあんたがそういうのが趣味ってだけでしょ」
「ア、アナスタジアさん、おいおい」
僕以上に困惑しているのがライオネル。前屈みに崩れた姿勢から、上目遣いで、アナスタジアをぼんやり見上げる。
「し……趣味、だと?」
「違うとでも?」
……え。そ、そういうやつなの?
回答を求めてとりあえず、父上を振り返ったが、父はふふふっと笑うだけだった。
「確かに、ライオネルの思うものをふくめ、国の方向性っちゅーもんは色んな形がある。その中からどれを選ぶかは……王の趣味じゃなぁ」
「ええ、王太子様の独断と偏見よ。当人もそれが分かってたから、陛下に内緒で勝手にやってたんでしょう。バレたら王太子の権力を失うから、父親を塔に閉じ込めて、『王の代弁』のフリをして。
――卑怯者。本気で自分が正しいと思ってるなら、きっちり父親説得しなさいよ。自分のやりたいことを、ケンカしてでも勝ち取りなさいよ!
そんな勇気も無いなら独りでどこか遠く御山の大将やって、国民に迷惑掛けないで!!」
「……っ――こ――この、女っ――」
「それと!」
アナスタジアの口上は止まらない。
ちっちゃな、子供みたいな細い指を王太子に突きつけて、彼女はきっぱり言い切った。
「あんたのその服、イプスシルクに東部の金糸細工でしょう。カフリンクスのダイヤをブリリアントカットにしたのは職人街の技術。胸の釦、黒蝶貝に真鍮の飾り細工は間違いない、釦屋ノーマンの仕事だわ」
「ん? うんっ?」
次々指刺されて、キョロキョロ自身を見回すライオネル。アナスタジアは待たない。
「王子様らしいずいぶんカッコイイ衣裳を着てるわね? ……職人の仕事を否定するんなら、その服いますぐぜんぶ脱いで。古代の剣闘士よろしくスッ裸で剣を振ってて」
「……そ――そんな――」
みっともないことできるか、というセリフの形に口がパクパク動く。
「あんたが強さに憧れるのと同じ、あたしたちは、自分の仕事をカッコイイと思ってる。人を傷つけるだけの兵器より、わあ素敵って笑顔にできる服を作っていきたいのよ。
それのどこが悪いの。なんで着飾っちゃいけないの。見た目が綺麗だからって、中身はからっぽとは限らないでしょうに。
どうしてそれが分からないの。自分にも大事なものがあるくせに、他人様の大事なものを馬鹿にするの。自分の弟――ひとの夫のこと、ゴミクズだなんて、二度と口にするんじゃねぇわよこのっ――アンポンタン!」
「あ……アナスタジア」
ひとしきり叫んだあと、アナスタジアの目から、突然ぼろっと大粒の涙が零れた。それで堰が壊れたみたいに、ぼろぼろと雫が溢れて滴る。僕が思わず抱き寄せると、肩をふるわせ、しゃくりあげていた。ヒンヒンと子供みたいに泣く妻を、頭ごと抱いて慰める。
「……ありがと」
囁くと、
「アンタのために怒ったんじゃないわっ」
と、胸板を拳で叩かれた。
ほほっ、と父が笑い、「ええ子じゃのう」と呟いた。
……兄上は、きっとこんな風に、怒鳴られたことがなかったんだと思う。
まして女性に、すっとこどっこいだのアンポンタンだの、全く初めての経験だ。
その体験は、ライオネルの中で何か、大きな衝撃になっているようだった。父王に怒鳴られたときよりも、よほど大きく動揺し、呆然と天を仰ぐ。
ぐらりと体が傾いだのを、二人の騎士が慌てて支えた。国王から「連れて行け」という号令がかかり、騎士は敬礼する。
そうして長兄は……ディルツの第一王位継承者は無言のまま、引きずられるようにして退場していった。




