王子様、覚悟する
――時は少し遡る。――
暗く湿った石畳の上を、爪先で掴むようにじっくりと足を前に出していく。
一歩一歩、慎重に進むわたし。前を歩いていたキュロス様が振り向く。
「ここまで来たら大丈夫。少しくらいお喋りしても平気だ」
ずっと俯いていた顔を上げると、これまでよりも一段、天井が高くなっていた。出入り口からずいぶん離れ、もう街中にいるらしい。
わたしはホウと息を吐いた。思わず堅く握っていた手を、キュロス様がそっと掴む。少し気恥ずかしさがあったけど、それよりもぬくもりに安堵した。
「……ありがとうございます。わたし、閉所恐怖症のつもりはなかったのに、なんだか酷く疲れてしまったみたい……」
「当たり前だ、地下通路の進行は訓練された軍人だって消耗する。君はかなり気丈だよ」
「それでもキュロス様の導きと灯りがあるだけずいぶん楽です。地面はきれいに均されているし」
キュロス様は頷いた。
「軍事利用に作られた通路だからな。要人の逃亡はもちろん、各所に攻め込む戦隊すらも通れるようになっている」
「すごいですね。わたし、ちっとも知りませんでした。まさか王都の地下にこれほど大きな地下通路が張り巡らされているなんて……」
思わず、ため息が出る。キュロス様はイタズラっぽく微笑んだ。
「ディルツの守護神、グラナド城塞の秘密兵器だ。王族ですら、戴冠のさい旧王から新王へと伝えられるのみ。グラナド家でも当主にしか知らされていない、本物の国家機密だよ」
「……ごめんなさい。緊急事態とはいえ、わたしが知ってしまって良かったのでしょうか……?」
キュロス様の顔が一瞬、キョトンとなった。それからすぐに破顔し、クスクス笑う。
「何を言う、君は城主の妻で、女主人だぞ? いけないわけがない」
「でも……」
「今まで言ってなかったのはただ単に、使い道がなかったからだよ。……できればこれからも、使わずに済めば良かったんだが」
そう言って、彼は顔を曇らせた。わたしも黙って目を伏せる。
わたしたち二人の結婚式が、なぜかなかなか行われない――式場となる教会から日取りの連絡が来ない、最初はただ、それだけの問題だった。だけどミオが王宮に潜入し、明るみになった真実は、想像を絶する恐ろしいものだった。
教会は王家の圧力を受けていたのだ。わたしたちの結婚を阻み、王女レイミア様をキュロス様と婚姻させ、王家に取り込もうと。同時にキュロス様の親友、ルイフォン様の政略結婚を取り進め、グラナド家に保護させるよう誘導した。レイミア様との婚姻が頓挫したら、ルイフォン様の誘拐という罪をでっち上げてでも家督を没収しようという二重の策略である。
計画が明るみにでても、その理由はわからないままだ。公爵はたしかに王に継ぐ権力者だけど、政治とは距離をおいている。現時点、王家にとって目の上のタンコブにはなっていないはず……グラナド家を潰して、王家になんの得があるのだろう?
ミオから情報を聞いたとき、わたしは真っ先にその疑問を口にした。しかしキュロス様、ミオやウォルフガングまでもが首を傾げた。
「さあ……本当に何故かわからん。俺も父も、クーデターなど起こす気はさらさらないし、それっぽい気配を見せた覚えも全く無い」
「公爵家が邪魔ならばアルフレッド様を狙うでしょう。ライオネルの動き方は、まるで旦那様個人を狙っているかのようで、解せません」
「それこそ意味がわかりませんなあ。うちの納税額は莫大なものですぞ」
「うちが潰れたら、国家予算に響くよな?」
と、三人同時に反対側へと首を倒す。
この三人が見当もつかないなら、他の誰にも分からないだろう。悩んでも答えが出ないなら悩まない、わたしたちは行動に移ることにした。
わたしは大量の書状をしたためた。ミオはそれを鳩に託し、ほうぼうへと飛ばした。キュロス様はウォルフガングに指示を出し、執事はそれを使用人全員に行き渡らせる。
そして、わたしとキュロス様は城を出た。まず各々でやるべき作業を済ませ、合流し……今、この地下通路を進んでいる。
やがて、遠くへ旅立つために。
「すべて思うようにうまくはいかないでしょうね。相手は国ですもの」
わたしの弱音に、キュロス様は頷いた。彼は明るく自信家だけど、楽天家ではない。むやみに楽観はしていなかった。
「最悪でも、絶対に護るべきものは必ず護り抜く。マリーと俺自身、そして大切な人間たちはすべて、必ず」
「……それって城の使用人たちも……ルイフォン様も、ですよね?」
「もちろん。それから猫もな」
当たり前に、本当に何を当たり前のことを? と訝しげに、キュロス様はわたしを見返した。わたしは思わず眉を垂らし、笑ってしまった。
そうね。このひとがそう言ってくれたなら、わたしは何も不安になることはないわ。きっと、なんとかしてくれると信じられる。
それにもしも地位や財産を無くしたって怖くない。彼と出会う前のわたしは、何も持っていない、身も心もずたぼろの少女だった。また何もかも無くしたって――いいえ、夢から醒めるだけじゃないわ、わたしはもう強くなっていた。そして彼が隣にいてくれる。新しい家族がいる。それだけで、何も怖くなんかなかった。
キュロス様と手を繋ぎ、地下通路をまっすぐ突き進んでいく。
途中、ふとキュロス様が鼻を鳴らした。
「空気の匂いが変わった。出口が近いな」
ならばお喋りは控えた方が良さそうね。そう考えた直後、ふとあることを思いついた。彼を引き止めて尋ねる。
「ねえキュロス様、王太子殿下の、個人的な暴走ということはありえないの? 理屈じゃなく、ただキュロス様を陥れたくて」
「俺個人への恨み、か」
キュロス様はフムと唸り、少し天を見上げて考え込んだ。それからしばらくして、やはり首を振る。
「思い当たるものはないなぁ? 喧嘩どころか会話したのも数えるほど、祭典で挨拶するくらいしか会ってもいない」
「学生時代にライバル関係にあったとか……」
「長兄は八つも年が上だ、共に学園に通ったことは無い。競う機会は無く、俺にとってはただ過去の記録保持者でしか――誰だっ!!」
キュロス様は叫び、わたしを背に庇った。ランタンを前に突き出し威嚇する。
誰か……前からひとが来る!
カツ、カツと堅い音は、男性が革靴で歩く音。
わたしは息を呑み、キュロス様の服を掴んで震えた。
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僕がグラナド城にやってきた、その翌朝。
与えられた客室で目を覚ますと、窓辺に黒い鳩がとまっていた。足に結ばれた手紙、いわく。
『医者を手配した、念のため診てもらえ』
「……この字は、キュロス君?」
鳩からの返事はなく、代わりに、扉がノックされた。鳩が逃げるように飛んでいく。
やってきたのは医者だった。
「初めましてこんにちは、当方はグラナド家専属の医師でございますお体の具合を拝見、ああはいはい、軽い打撲と擦過傷ですね骨に異常は無し、こちらの軟膏湿布を貼り付けておけばすぐに赤みも引きますよお大事に」
「……はあ、どうも」
特に異論は無かったので言われたとおりにしてみると、言われたとおりに完治した。
さらにその翌日、また鳩がやって来た。
『何か足りないものがあれば使用人に言え』
「むしろ足りすぎてるくらいだけど。特にごはん」
そう、ここグラナド城の食事はとびきり美味しく、そして量が多い。僕は大食漢ではないので何度も『普通で良いよ』言ったけど、結局毎度、特大盛りでやってくるのだ。もしかしてこの城の料理長、僕を肥らせて食べる気じゃないだろうな……そう本気で疑い始めたころ、新しい手紙がやってきた。
『多すぎた場合も言え。当城の料理長と侍従頭は、満腹中枢が壊れている』
「先に言ってくれたまえよ」
僕が文句を付けると、鳩はクルッポーと鳴き、飛び去っていった。
翌朝。
僕は、幼女と遊んでいた。
「あははっ、王子さまボール投げるのへたくそね。ぶきよーだって言われない?」
「言われたことないよ。けどボール遊びはしたことなくてね」
「さてはモテないでしょ」
「……ボール遊びとモテと、なにか関係があるのかい?」
「ボールもオンナもおんなじよ。力加減と距離感、つかみ取る勇気と手放すタイミングが大事なのだわ」
「肝に銘じておきます」
幼女に向かって、軽く山なりにボールを投げる。実際なかなか力加減が掴めなかったけど、ようやく狙い通りの位置にいくようになってきた。
しかし突然、猫が空中で飛びついた。地面でボールを抱え込みじゃれはじめる。幼女は猫と組んずほぐれつ、ボールを取り返そうと格闘する。
「ずたぼろもヒマしてるのね」
「……ごめんよ。遊んであげられるのが、僕しかいなくなっちゃって」
そう言うと、彼女はキョトンとし、鼻で笑った。
ポケットからペロリと小さな紙切れを取り出して、
「ツェリがあなたと遊んであげているのよ? 旦那さまから言われたの」
キュロス君の字で、その依頼が書かれてあった。
「おしごとだから気にしないで。ツェリは侍女の見習いなのよ」
「……痛み入ります」
僕は深々と頭を下げた。
さらに、翌日。
『おまえの騎士団について、手配はしておいた。心配だろうがひとまず任せて欲しい』
「失礼しまーす」
鳩と同時に、知った顔の使用人が二人、部屋を訪ねてきた。銀髪を撫でつけた老執事と門番の青年だ。ふたりとも何故か、貴族さながらの礼装をしている。まるで騎士団の砦に潜入してきたかのように。
「ごきげんよう、殿下。団長室に置かれていた殿下の装備品や私物をお持ち致しました。ご確認下さいませ」
「ついでに大事そうな書類もあらかた、引き上げてきました!」
「ついでの順番が逆じゃない?」
荷物を受け取りつつ言ってからふと思い直す。先に突っ込むべきはそこじゃない。
「ていうか、どうやって?」
ホホホッと笑ったのは老執事。若い方と違い、なんとなく貴族服も着慣れた様子だ。
「このウォルフガング・シュトロハイム、こう見えて若かりし頃は戦闘兵として、騎士団に所属しておりました。砦の構造には多少なりとも通じておりまして」
「いやあ興奮したなあ! まさかいつも僕が立ってる城門が、砦まで繋がっているなんて! 僕ぜんぜん知りませんでしたよ!」
……ふうん。僕も知らなかったよ。
はしゃぐ若者を、執事が咳払いでたしなめる。どうやら内緒だったらしい。
別に驚きもしないけどね。どこの国にもこういった隠し通路はあるものだ。グラナド城があるこの地はかつての国境、ここは城塞だから伏兵用の通路があっても不思議は無い。
そこまで考えてから、ハッと気付く。
「もしかしてキュロス君は、その地下道を使って移動しているのか?」
彼はビクッと身を縦に震わせた。肯定と受け取って、続ける。
「ダメだ! 今すぐ追いかけて連れ戻してくれ!」
「えっ、なんでですか? 上水道の水路だからそんなに臭くなかったですよ」
「そういうことじゃないっ! 兄上に見つかる!」
「なあんだ、それなら大丈夫ですよ」
門番は脳天気な笑顔でパタパタ手を振った。
「あの道はグラナド城に伝わる秘密通路、王太子殿下といえども知らないはずです。なんでも即位した日に前王から伝えられるって」
「長兄じゃない、次兄のリヒャルトだ。あれは王になれる男じゃないが、国にいるどの文官よりも優秀な補佐官だ。王国の地図と建造物がまるごと頭に入ってる。そんな大規模な地下道、絶対に把握されているぞ」
――それに、長兄も……まだ王太子の身でありながら玉座にいた。父をうまく丸め込み、現王のみが知る秘密通路を聞き出している可能性は十分ある。
僕の必死の訴えに、門番は眉を垂らした。とはいえ大して焦ってもいないようで、ポリポリ頬を掻く。
「僕に言われましても、もう旦那様もマリー様も出て行っちゃったし」
「……彼らは今どこに? ミオちゃんは一緒にいるのか」
「それもワカンナイです。いや伝書鳩が行き来してるってことは予定通りに動いてるんでしょうけども、僕には内緒にされてるっぽいですね。きっと知らないフリさせるより知らせないほうがいいと思われたんだろうな、僕って嘘がつけないから。あははっ」
明るい笑顔で言うことかっ!?
僕は救いを求めて執事のほうに問いただしたが、こちらは穏やかに微笑むばかり。カマをかけても懇願しても、脅してもくすぐっても、絶対に口を割ることは無さそうだった。
「大丈夫でございますよ、ルイフォン殿下。どうぞ心やすらかに、我々と旦那様にお任せ下さい」
「……しかし……」
食い下がる僕に、砦から持ち出した、騎士団長の衣装を手渡してくる。
「そして、あなたの味方は我々だけではございません。今、あなたのためにとても多くの人間が動き出しております。それを泰然と見守り、任せるのも、王の器でありましょう?」
「……僕は、第三王子だ。王になるのは兄上だけだよ」
反論は、老執事はやはりにこにこ笑って聞き流された。
広くて、ふかふかで、あたたかいベッドに寝転がり、嘆息する。
……グラナド城の暮らしに不満は無い。
キュロス君のことも、信じていないわけじゃない。
一度は頼ったのだ、今更勝手に不安を拗らせ、独走するのは不義理だろう。
刻一刻と状況が変わる中、動いている計画にクチバシを突っ込んで邪魔をする気も無い。
ただ――だからこそ――僕は、覚悟を決めていた。
……もし失敗したら……キュロス君達に危険が及んだら、その時は。
三番目の子が王になることはあるまい、だけど僕は王族として、ディルツの帝王学は履修している。王の下には常に多くのひとが集い、動き続けている。それを泰然と見守り、任せるのが王の器。そしていざというときの全責任を、この身で償うのが王の仕事だと。
僕は穏やかな気持ちで目を閉じた。
――カローン――カロン、カロン、カローン――
遠く、教会の鐘の音が聞こえる。
その日は朝から、目が醒めるように青い空だった。眩しくて直視できないほどに強い青。あのひとの瞳に似ている気がした。
国民の休日を告げる鐘が鳴り終えた、まさにその時、扉がノックされた。
訪問者はまず、僕がすっかり身支度を終えているのに驚いたらしい。小動物を思わせるつぶらな目をさらに丸くしてから、いつもの仏頂面を、さらに渋い表情に変えた。
僕は軽く手を挙げた。
「やあ。そろそろ来る頃かと思っていたよ。……どういう結果にせよ、最後のナビゲーションは君の役だろうからね」
彼女――グラナド城の侍従頭、ミオちゃんは深々と丁寧にお辞儀した。
「恐れ入ります、ルイフォン様。城門にお迎えのかたがこられています」
「……うん。どっちが来た?」
「第二王子、リヒャルト殿下です。王太子ライオネル様は教会……結婚式場でお待ちでいらっしゃると」
僕は笑った。
案外、それは辛い作業ではなかった。作り笑いじゃない、自然と笑みがこぼれたんだ。
「キュロス君達の、安全は保証されているのかな」
僕の問いを、ミオちゃんはすぐに肯定した。ならもう何も聞くことはない。
襟を正して、僕はグラナド城をあとにした。




