嘘つき王子の仮面を壊せ④
グラナド城――二百年前、この地は国境間際だった。時の王弟は最高の建築技術者と兵力を率いて城塞を成し、ここを起点に南へと侵攻していった。戦後、王国は近隣国を支配して拡大し、王都もまたグラナド城を含む地まで拡がった。
ディルツ王国の南端、大陸の果てはグラナド公爵家の領地である。
小さな漁村に港を開拓し、王都までの運河を繋いだのはグラナド公爵。行商人からイプサンドロス商品を買い、王都に卸す商売を始めたのがリュー・リュー夫人。貿易船を使い、直接大量に買い付けて莫大な富をなしたのがキュロス・グラナドだ。
ディルツ最強の軍事要塞であり、最大の卸問屋であるグラナド城の門は、厚く強固で、しかしいつでも柔らかく開かれている。
僕の足音に気付いた門番が、顔を上げる。まだ十代だろう、年若く温和な雰囲気のある青年だった。名前は覚えてないけど顔なじみだ。
「ルイフォン殿下!? そのお姿は――」
いつもは愛想がよく、人なつっこいくらいの青年がなぜか言葉をよどませる。穏やかな眉を真一文字にしかめて、深々と頭を下げた。
「どうぞ中へ、すぐにお部屋を用意します」
「いやお気遣いなく。ただ近くまで来たから寄っただけなんで」
「今ちょうど旦那様はお出かけになるところでした。お早く、中へ」
「それなら出直すよ……いつかは」
実際、本当に用なんか無かった。そもそもここへ来るつもりでもなかった。僕はなぜ、この地に手綱を引いてきたのだろう?
首をかしげながら退こうとした僕を、門番の男は引き留めた。僕の腕を掴まえて、
「いいえ入ってください。ルイフォン様が来られたら必ず捕獲するよう、ミオ様からも言われております」
「ほ、捕獲?」
「ええ、正確には鳩が手紙を背負ってきたんですけど」
なんのことやら。振り払おうとしたが、門番の握力は『業務』のそれだった。
仕方なく、腕を引かれるままに入城する。
……まあいいや、キュロス君の顔だけみたら帰ろう。別れの挨拶はしないほうがいいだろう。でないとまた、アナスタジアの時の二の舞になりそうだ。
――目は月の――
その時、目の前を黒い鳥が横切った。ぎょっとして振り返る。烏のように黒くツバメのように速い鳥は、よく見れば鳩だった、あっという間に遠くの空へと去って行く。
ん? なんだか最近、別の場所でも何度か見たような?
鳩の飛んできた方向……城門を越えてすぐの広場に、グラナド家の侍従頭がいた。
ミオちゃんは僕をじっと見つめたが、話しかけはせず身を引いた。誰かに向かって招くような所作――柱の影から、一組の男女が姿を現す。
どちらも背が高い。豊かな赤毛の美女と、黒髪に褐色肌の男――僕が一番会いたくて、会いたくない親友がいた。
その瞬間、僕の視界が歪んだ。質の悪い硝子板で塞がれたみたいにだ。どこにいるのか、どんな顔をしているのか分からない友に向けて、僕は大きな声を上げた。
「やあ! キュロス君、ごきげんいかが? 今日はとっても良い日だね!」
足音が聞こえる。大男が革靴で路面を走る音。
「――ははっ、憧れの王子様がとつぜん遊びに来て驚いたかい? 特に用はないよ! いつも通り、ただ君を驚かせたくて」
どうっと重い衝撃。一瞬、馬車に轢かれたかと思った。それくらい強い衝撃とともに、僕の全身があったかい塊に包まれた。なにも見えないからなにがどうなってるかわからない、とにかく顔を、目を、口を、あの形に。
……どんな形?
「ぁ――は。は」
とりあえず声を出す。僕は背中ごと、キュロス君の大きな腕に抱き寄せられ、肩に口を塞がれていた。
なにをしている? おいやめろ、離せ馬鹿力。言葉が出せないだろう。僕は言わなくてはいけないことがあるんだ。
「――キュロス! キュロス……キュロス!!」
キュロスの胸を殴りつけ引き剥がす。さっきまで僕の顔が埋まっていた、キュロスの服が濡れていた。何の水気かと悟るより前に、また抱き寄せられる。僕の後頭部を鷲づかみにして、キュロスは自分自身を含め、僕の顔が他人に見えないよう隠していた。
「――キュロス……!!」
――ルイフォン・サンダルキア・ディルツが、キュロス・グラナドと出会ったのは十二歳の時だった。世界一美しい王子様、比類無き秀才――ただし実兄を除いて――と褒めそやされていた僕と、肩を並べる唯一の男。大嫌いだから一緒に遊び、大好きだから喧嘩をした。
彼と競う以外には、すべてを諦めて生きてきた。意に沿わない結婚も国のために心身を捧げる、憎まれ役も道化役も王子様の役もこなす。だって僕は王子だもの。僕にはそれだけの能力と覚悟があった。二十三年もそうしてきた、やればできるさ。キュロス君と違って器用だしね。どうにでもするよ、自分でやれるよ、一人でもできるさ。
できる――けど。
けど……もう、いやだ。
僕が脱力すると、キュロスも腕を緩める。僕はずるずると地面にへたり込んでいった。井戸水をかぶったまま馬に揺られ、ボサボサに散らかった髪が顔に垂れていた。女の拳でさんざん殴られ、腫れた口元はもう、笑みの形に持ち上げることが出来ない。ぼやけて見えない目からこぼれた水滴は顔中を水浸しにして、顎先から地面に滴っていた。
「……キュロス……君。僕……しんどいよ」
両手を地に着け、頭を下げる。
「一人じゃ、もう無理。力を貸してくれ」
頭上からドサッと布団――もといキュロス君の外套が降ってきた。同時に彼の声が聞こえる。
「貸さない。ぜんぶやる」
僕は自分の肩ごと外套を握り、これ以上無く格好悪い姿で泣き出した。
キュロス君が叫ぶ。
「ミオ! 鳩の準備はまだか? なるべく早く出立させてくれ!」
「おおせのままに」
侍女は速やかに回答すると、くるぶしまであるスカートを、カーテシーみたいに持ち上げた。中からボトボトと大量に黒い鳩が落ちてくる。その足首にはみな、小さな巻紙が括り付けられていた。鳩はすぐ地面を蹴り、ばらばらの方向へ飛び立ってゆく。
……侍女のスカートって鳩小屋を兼ねているものだっけ? グラナド城の門番なら状況説明してくれるかな、と視線をやると、彼は真顔で頷いた。
「殿下、気にしては負けです」
実際、ミオちゃんはもちろんキュロス君も、マリーちゃんすらも気にしていないようだった。それよりもっと重要なことで頭がいっぱいらしい、緊迫した声でマリーちゃんも叫ぶ。
「ミオ、あの鳩が港に着くまではどのくらいかかるの?」
「ざっと二時間ですね」
「ではマリー、手紙の続きを頼む。俺は公爵邸と教会を訪ねてから港へ向かう」
「いいえキュロス様、わたしも途中まで一緒に!」
そう言って彼女は大荷物を持ち、馬車に片足を乗せていた。
「こちらの縁者には直接わたしがお話したほうがいいでしょう。大通りまで乗せてください、そこからなら乗り合い馬車鉄道のほうが速いです。市場と病院と、それから学園にも」
「学園は俺が行く、王国兵が張ってる可能性が高い」
「だからこそわたしが。仮にも身内ですからスムーズに校内へ入れるでしょう。護衛はつけます。ミオ、は忙しいわよね?」
「はい、帰ってきた鳩たちから、お返事を受け取らなくてはなりません」
「ではトマス、一緒に来て」
「かしこまりましたぁっ!」
待ってましたとばかりに飛び跳ねる門番。なんだ? 何が起きてる? 何を起こそうとしているんだ?
キュロス君だけでなくマリー嬢までが侍従達に指示を出し、大急ぎで馬車に乗り込んでいく。
「手紙の草案とお化粧は移動しながら自分でするわ。ウォルフガング、あとはお願いね!」
「お任せをマリー様、旦那様。お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
「キ、キュロス君……君たちはいったいどこへ?」
とりあえず身を起こすべく膝を立てる、と、肩をぽんぽん叩かれた。振り向くと、ほっぺたに指が突き刺さる。くだらない悪戯をしたのは、名を確かチュニカとかいう髪結い師、いや風呂場専属の侍女だったか? 僕の視線と同じ高さにしゃがみ込み、ニコニコ笑っていた。
「ささ、王子様はあちらに。私に付いてきてくださいねえ」
「付いて……どこへ?」
「旦那様に、王子様がお見えになったらトコトン癒やして差し上げるようおおせつかっておりますので」
「返事になってない、何? えっ何っ!?」
袖を引かれ、城内へ連れ込まれる。そうしている間にキュロス君達は出発してしまった。おいおいおい、なにこれちょっと待って?
いくら脱力していても僕は騎士団長、侍女に力負けすることはない。回廊で手を振り払い、
「キュロス君達は何をしようとしている? 今は危険だ、外を出歩いちゃいけない、ライオネルに捕まる!」
僕は本気で怒鳴った。口にして改めてその可能性に気付き、ぞっとする。
どういった経緯か知らないが現状を理解しているキュロス君達は、僕のために行動を起こしてくれるらしい。心底嬉しかった、けどやっぱりダメだ。
僕がフラリアに婿入りしないと、ライオネルはグラナド商会の乗っ取り、キュロス君やマリーちゃんに冤罪をふっかける策略まで練っていた。キュロス君には自分自身と、大切な家族を守る仕事がある。僕は、無言で国を去るだけでは足りなかった、彼に警告しなければいけなかった。なのに助けを乞うなんて、僕はなんて愚かなことを!
今更ながら蒼白になり、僕は決起した。拳を握り、歯を食いしばって。
「キュロス君を追いかけよう!」
「その格好で?」
えっ、と見下ろすと、裸だった。
「ぎゃあっ!! な、なんで脱がしてるんだっ!?」
「だってお風呂に入るんだから、服は脱ぎませんとぉ」
「風呂!? いやていうか一体どうやって、いつのまに!?」
「王子様が深刻なお顔でお悩みの間に」
「せめて脱衣場で脱がせてくれ!」
「ごめんなさあい。お風呂場はあちらですぅ」
なんだか色んなものを諦めながら、僕は全力で回廊を走り抜けた。
グラナド城で風呂を借りたことは何度かあったが、今日は特別、すばらしい湯が張られていた。乳白色の湯は実際に牛乳が入っているそうで、蕩けるほど甘い匂いがする。どうやら僕の体はひどく冷え切っていたらしい。じわじわと内臓が温もると、思わず目を閉じてしまう。
……一瞬、眠ってしまったかもしれない。目を開けると、髪の毛をワシャワシャ洗われていた。顔面がヒンヤリして、薬臭い。なにやら薬液のクリームを塗りたくられたらしい。体は温かいのに顔は涼しくて、また眠い。
……次に目を覚ましたとき、僕はベッドの上にいた。バスローブとも寝間着ともつかない格好で、足をチュニカに揉まれていた。
「うわぁい王子様のお肌まっしろつるすべ、ムダ毛も無くて女の子みたーい」
……もう、抵抗しないことにした。
何時間経ったか、自分の胃がクウと鳴る音で目を覚ました。寝た子を起こすほどかぐわしい、料理の匂い。身を起こすと、プリッと景気の良い大きな尻がプリプリしていた。
「……料理長?」
「はい、王子様。おはようございまし」
「まし? ああ、おはよう……朝?」
「いいえ夜でございます。トッポはお夜食をお持ちいたしました、どうぞお召し上がりくださいまし」
ベッドの傍にテーブルが寄せられる。匂いが近づくとさらに腹の虫が鳴った。……考えてみれば早朝、間に合わせに腹に入れたものを吐き出して以来、何も食べてない。それでも僕は食事なんかしている暇は無い。
「キュロス君達は帰ってきたのか? 彼に話があるんだ」
「旦那様ならお出になられたままです。おそらく、一年は帰ってきません……」
「……はっ!?」
立ち上がった拍子にカトラリーがガチャンと鳴った。スープが少し、テーブルにこぼれる。料理長はハッと目を見開き、涙を浮かべた。
「スープが! トッポ謹製、スウィートなニンジンを丁寧に裏ごしし生クリームでコトコト煮込んだキャロットポタージュが!」
「ああごめん。でもキャロット、じゃなくてキュロス君が一年も帰ってこないってどういうことだよ!?」
料理長は「ほほほん」と謎の笑い声を上げた。
「トッポは料理人だから、商売や政治の話はわかりません。お二人が今どこに居るのかなんて知らないし」
「……そんなばかな」
「明日、ミオ様かウォルフガング様にでも聞いてくださいまし。だいぶ前から計画していて、ただルイフォン様待ちをしていたそうですから」
「僕、待ち……?」
「ああそれにしても寂しい。ほんとはトッポも連れてって欲しかったけど、王子様を癒すのにおまえの料理が必要だからって言われたの」
くすん、と涙をこぼす料理長。
キュロス君……君は、君たちは一体なにをしようとしている?
……僕のため? なんのため?
あぜんとする僕の前に、料理長はプルンプルンのオレンジゼリーを差し出した。僕は手紙を取った。
やけに小さな、手紙に、キュロス君の字で短い言葉が書かれている。
『すべて任せろ』
手紙を大切に畳んで枕元に置き、食事に取りかかる。
キュロス君、じゃなくてキャロットポタージュスープを掬って、口に入れる。
「……美味しい…………」
優しい甘みが胸に広がり、僕はまた眠たくなってしまった。




