嘘つき王子の仮面を壊せ③
「えっ……?」
何を言われたのか意味が分からなかった。
「いや……ただ僕は、別れの……挨拶にきただけ……」
彼女の視線は変わらない。確信的で、逃げる術が思いつかない。僕は両手を広げてヘラリと笑った。
「そ――そうだ。ノーマン……ノーマンに仕事を頼もうかと思ったんだ」
「ノーマン爺ならまだ入院中よ。目の手術は上手くいったけど、経過観察だって。前にも言ったでしょ」
「ああ、そうか……じゃあ、君にお願いするよ。ええと……」
口に出してから考える。
「そう――指輪を。結婚式用の指輪を用意していないんだった。工房で販売してるよね? ただの儀式用だから、石も無くシンプルな金輪でいい、適当なヤツをひとつ売っておくれ。サイズは君と同じくらい?」
僕はアナスタジアの手を取り、言った。小柄で華奢な彼女の指はすんなりと細く、十歳児とさほど変わらぬように見えた。
アナスタジアは眉を顰めて、僕の顔と、自分の指とを見比べる。職人が検分をする眼差しではなく、なにやら不機嫌な半眼だった。虫でも払うみたいに僕の手を叩いて、きっぱり言った。
「やだ」
「えっ?」
「売ってやんないって言ったの、奥さまへの贈りものは余所を当たって。……用事はそれだけ? じゃあばいばい」
あっ、と追いかける間もなく、彼女は背を向け駆け出した。家に戻ろうとした、後ろ手を思わず掴む。掴んでしまってから理由を考えた。何も思いつかなくて停止する。
驚き、目を見開いて振り向くアナスタジア。引き止める理由なんてない、だってそんなの、僕にどうしろっていうんだよ。
彼女が僕に、弱音を吐かせようとしてるのは察していた。慰め励まして見送りたいのだろう。キュロス君たちと相談して、盛大な送別会を開いてくれるかもな。
でも駄目だアナスタジア、僕を甘やかしてはいけない。僕の仮面はボロボロで、脆く崩れ落ちる寸前だ。君の想定以上のことを、口に出してしまいそうになる。
お皿の形が崩れて、割れてしまう。
「――あ……アナスタジア。僕が、もし……」
ひび割れた隙間から、漏れ零れてしまう。
「……もしも……例えば、僕が王女との婚約や、王族としての責任を投げ打って……王族の立場も全部、捨てて……」
アナスタジアの視線が続きを促す。
「騎士団長でもなくなって、ルイフォンの名前すらも、何もかも失くして――ただカラッポの男に、なったら」
「なったら?」
焦れたように問い詰められる。
「そうなったら、あたしにどうしてほしいの」
アナスタジアの頬が突然、水に濡れた。びしょ濡れだった僕の髪から水が落ちたのだ。彼女は瞬きひとつしなかった。顎から滴り落ちる水滴を、僕が拭っても逃げない。
短い髪を指で掻き分け、耳の横を抜け、後頭部まで手で包む。
親指で唇を撫でられても、このひとは――逃げない。
「その時は、僕と……一緒に来て」
彼女は小さく微笑んだ。その意図は分からず、返事もない。ただ目を閉じる。
レモンイエローの睫毛が白い頬に陰をなす。
僕は吸い寄せられるみたいに、彼女と唇を重ねた。
僕の知る、ほかの誰よりも甘く、短い――薄皮一枚、触れるかどうかの浅いキス。温度も湿り気も共有せず、柔らかな肉を潰すことすらなく離す。そうしてもまだ目を閉じて、続きを待っているようなアナスタジア……僕は身を離した。
「――やあ、どうもありがとうアナスタジア! 素晴らしい餞別をもらっちゃったね!」
「えっ?」
アナスタジアが目を開ける。その時には僕はもう数歩の距離を取っていて、両手を広げ、満面の笑みを浮かべて見せた。
「……ルイフォン?」
「どうも、ごちそうさま! それじゃあ僕はこれで。忙しいんだよ僕は、なにせ王国の女性がみんな行列を作っているからね。フラリア王女との結婚まであと数日、全員にキスをしてあげないと」
ぽかんとしていたアナスタジアの顔が、みるみる曇る。僕はさらにヘラヘラ笑った。
「今日のことは僕と君だけの秘密だよ。君が順番抜かしをしたってバレたら全国の婦女子にイジメられちゃうからね。ああ、贔屓してあげたお礼は要らないよ。僕にとってアーニャは、友達の奥さんのお姉さんという大切な存在だもの」
――バチッ! と、目の前に火花が散った。アナスタジアに引っぱたかれたのだ。勢いで伏せた口元で、僕は笑う。……ああ良かった、期待をした通り。
バシン! 二発目が来た。まあ、想定内。僕は両手でホッペタを押さえるおどけた仕草で、
「いったぁーい、なにするんだよアナスタジアのエッチ!」
ガツッ、と真正面に正拳が来た。思ってたよりは強い。けど、うん、許容の範囲内。
僕は鼻を押さえながらさらに笑い、後ろに退きながら頭を下げた。
「ごめんごめん悪かった、唇にキスまではやりすぎた。いやあごめんよ、だってほら、王子様のキスってのはフリー素材だから、僕は貞操観念なんてものが無くて」
ゴッ。頬骨めがけて横殴りにされた。ちょ、ちょっと奥歯が半分ズレたような感じがしたが、仕方ない。僕はそれだけ怒られることをしている。
ボカスカと滅多打ちにされながら、満足していた。
――これでいい。これで良かったんだ、本当に。
僕は国を捨てられない。王宮に生まれ、一般国民よりもずっと恵まれた暮らしをしてきた。餓えに怯えることもなく、夏は涼しく冬は暖かく安全で清潔な部屋のなかで、健やかに学び育ってきた。世界一美しい王子と言われる容姿だって、農家に生まれていたら日焼けしボロを着て、見る影も無く汚れていただろうさ。彼女の妹がまさしくそうだ。今の僕があるのは王宮のおかげ、そして国民のおかげだ。受けた恩恵は返さなくてはいけない。
僕には、国民を幸福にする義務がある。だからこれでいい。
……最後に、本当に好きなひとと口づけができた。そして嫌われて、喧嘩別れすれば、未練も消えるだろう。作戦通り、なにもかもうまくいった――と、にやりと笑った横顔に。
――ゴヅッ!
アナスタジアの拳が突き刺さる。
「ぉグッ! ちょ、ちょっと待って!」
きっぱりと想定外な大ダメージに思わず悲鳴を上げる。いやほんとに痛いんだけど! さすがに攻撃が激しすぎる!
いくら女の細腕でも、これだけ殴られれば顔の形が変わってしまう。結婚式まで間が無いってのに、新郎が顔を腫らすわけにはいかないぞ。僕は両腕で防御した。
「ごめんってば! お詫びなら慰謝料でも反省文でもあとから送――あだっ! 痛い!」
腕越しでもお構いなしかよ! ああもういいや、アナスタジアに悪いことしたのは事実だし、彼女の気が済むまでいくらでも……。
と、覚悟を決めた直後。僕は反射的に、アナスタジアの手首を掴んだ。間断なく左拳が来たのも手首ごと捕まえ、押さえ込む。そうすれば一瞬で、アナスタジアは動けなくなった。
僕は怒鳴った。
「やめろ! 君の手が壊れる!!」
そう、アナスタジアは小さな女性だった。僕の指で一周できる細い手首、それに見合う小さな拳と華奢な指。その皮膚がすり切れ、赤く腫れ上がっていた。
アナスタジアと僕には男女の性差、そして元深窓の令嬢と、騎士団長という職業の違いがあった。筋力、体格、骨や皮膚の頑丈さは比べものにならない。殴られた僕よりも、殴るアナスタジアのほうが傷ついていた。このまま続けたら、殴る指を骨折しかねないほど。
「……っ……!」
両手を拘束され、剥き出しになったアナスタジアの顔が悔しげに歪む。身を捩っても、たいした抵抗に感じない。体重が軽すぎるのだ。それであれだけのダメージを受けた瞬間に気付くべきだった。僕は馬鹿だ! アナスタジアが、何を犠牲にして攻撃力に変えていたか!
「本当にごめん。いつものイタズラのつもりで、悪いことをした。君は職人だ。いくらでも詫びるから、その手を大事にしてくれ」
アナスタジアの腕から力が抜けた。説得が通じたと感じ、こちらも身を離す。
直後、腹を蹴飛ばされた。よろめく僕に、自分のほうが尻餅をついてしまってから、アナスタジアは初めて喋った。
「あなたがもっと、上手に嘘がつけたなら怒りはしないわ」
「……え?」
「ていうか、なんてことないし。こんなもの」
座り込んだまま、手を振って、鼻で笑う。
「ノーマンは盲目で見事な細工をしていたわ。あたしだって指の二、三本くらい壊れても、残った指で何でもできる。手が無ければ足や歯を使う。デザインだけ提案して、他人に作業させることもできる。この工房以外の場所だっていい」
……そ……そういう問題ではないような……?
僕は半分呆けながら、とりあえずアナスタジアに手を差し出した。助け起こそうとした手を、彼女は乱暴にはね除ける。一人で立ち上がり尻の土埃を叩き落とし、薄い胸を張って。
「あたしはね。ド田舎のシャデラン領にいた頃から古着を寄せ集めて作ってたの。道具も場所も身分もお金も、失ったら最後なにもかもオワリなんてことはないわ。どうにかする、どうにだってできる。あたしがあたしである限り、勝手に幸せになってやる!
王子様なんかいてもいなくてもいなくてもいても、どうしたって変わりはしないのよ! 女を舐めんなバァーーーーーーッカバカバカ、馬鹿王子っ! アホボケナスタコチビデブハゲオヤジ! 他人の拳より自分の仮面の状態を心配しなさい!」
猛々しい咆哮とともに扉が閉められ、アナスタジアはその場を去った。
え――……ええと……?
……ええと。
……僕、チビでデブでハゲでオヤジではないぞ……。
ついさっきまで、足に根が生えたように動かなかった愛馬は、僕の前で膝を曲げ、どうぞ乗りたまえと促してきた。跨がるとすぐ勝手に歩き出す。
僕はもう、どこに行くのかと問わなかった。どこへ行けとも命じなかった。砦で生まれ訓練を受けた軍馬は、騎士の望みに逆らわない。ときには騎士自身よりも完璧に、その意思を汲み取って、まっすぐにその途を行く。
ふんわり握っているだけの手綱から、馬は明確に行き先を感じ取っていた。馬の気まぐれに任せるまま――僕は僕の望みのまま――王都を下り、南の果てへと進む。
平和な時代に似つかわしくない、石の城壁が見えてきた。
……僕は……ここに、何をしに来たんだろう。何を望みに来たのだろう?
答えが分からないまま、城門の前で馬を下りる。
……目は……皿? 唇は……何だったっけ。
あるべき形を思い出そうとして、顔に触る。だがいつもと感触が違った。ツルリと滑らかな肌や整った造形があるはずのそこは、アナスタジアにさんざん殴られたせいで傷が付き、腫れて歪んでいた。




