嘘つき王子の仮面を壊せ②
ディルツの街を馬で駆ける。王宮や騎士団の砦はほど近い所にあったが、僕は何処も目指していなかった。
視界が白靄に覆われていた。僕は何も見えないまま、愛馬の気まぐれに揺られているだけ。どこをどう走っているのかも分からない。
まあいいさ、街路樹や建物に真正面からぶつかって、顔がぐちゃぐちゃになってみるのも楽しそうだ。
――だめよ、他人を轢くわ! そんな状態で馬に乗ってはだめ! ――
不意に脳内に響いた厳しい声に、僕は思わず手綱を引いた。
馬の足が止まり、馬上で体が振れる。それで目覚ましになったのか、急速に白靄が晴れていた。
明瞭になった周囲の景色を見回して、僕は首を傾げた。
「ここは……どこだ?」
愛馬は僕の問いに答えずに、勝手にトコトコ歩き続けている。
視界と同時に、僕の思考、打算という理性も明瞭に戻っていた。ここがどこだか分からないが、急いでフラリア大使館へ戻らねばならない。
あのフラリア王女に酷いことをし、そのまま飛び出してきてしまったのだ。あのひとの機嫌を損ねると恐ろしいことになる。僕は前かがみになって、愛馬の首をぺしぺし叩いた。
「止まってリンゴ丸。来た道を戻――っ、う!」
また、ぐるんと視界が反転した。猛烈な吐き気で、ほとんど落馬のように下乗する。霞む視界に、粗末な井戸が見えた。地域の共用場なのだろう、手押しポンプの下に桶があり、自由に使えそうだ。
ヒン、と馬が鳴き、井戸のほうへと歩き出す。
そうかリンゴ丸、水が飲みたかったんだなと思い、桶に水を張ってやったが、愛馬は蹄を鳴らすばかりである。……なんだ? 僕に使えというのか。
そこで初めて、僕は自分から酷い匂いがするのに気が付いた。女の香水と吐瀉物が混じった匂い。自分でも顔をしかめてしまうほどだから、においに敏感な馬には堪らないだろう。
「ああ、そういうこと?」
半眼で仰ぐと、愛馬は頷くように首を縦に振った。したたかな愛馬に苦笑いする。僕は馬の命令に従って、ポンプを押してみた。ちょっとした手応えがあって、案外簡単に大量の水が落ちてくる。
「……自分で水を汲むなんて、学生の時以来だな……」
井戸の水は冷たく、思っていたよりも清い。顔を洗うだけのつもりだったけど、口に含み、喉まで漱ぐ。そうするとなんだか爽快な気持ちになって、僕はとうとう頭から水をかぶった。当然ながら服まで濡れて、タオルも無い。それでもさらに二度三度、水を浴びる。
そうでもしないとこの悪臭からは逃れられない気がして。
「――ふうっ」
水浸しの髪を掻き上げ天を仰ぐ。背後から声を掛けられたのは、その時だった。
「……なにやってんの?」
聞き覚えのある声に振り返る。
幻覚みたいに唐突に、金髪の美女――ただし男の子のような格好をした――アナスタジアがそこにいた。
「えっ!?」
ぱちぱち瞬きをして凝視する。目を細めて凝視しても、やはりそれは眉を顰め、呆れたみたいに腰に手を当てたアナスタジアそのひとだ。
「なんで、君がここに!?」
「それはこっちのセリフよ王子様。妙な物音がすると思ったら、なんであなたがうちで濡れネズミになってるわけ」
「うちって……」
そこで、僕は初めてあたりの風景を見回した。
背の高い建物が連立する、都会の景色だった。しかし大通りというには道が狭く、建物についた扉も小さくて簡素だ。なにかの商店らしい建物なのに、看板はない。
「ここは、職人街なのか?」
「の、裏道。この扉は、釦屋ノーマンの台所に繋がる勝手口」
そう言われてみればバッチリ見覚えのある景色だ。何せ僕は三日とあけず彼女を訪ね、そのたびここに馬をつながせて貰っていた。つまりはリンゴ丸にとっても馴染みな場所で……すっかりくつろいだ様子で水を飲み始めている。
まだ呆けたままの僕を見下ろし、アナスタジアは吹き出した。
「なあに、また寝ぼけてる? それともこの真っ昼間に酔っ払ってたの。貴族様のお付き合いも大変ね」
「……いや……」
いつもなら、彼女は不機嫌そうな表情で「で、何の用事?」と聞いてくる。だが今日はそんな追及も無かった。
「タオルと、あったかい飲み物を出してあげるわ」
子犬のような軽やかさで、また家へと戻るアナスタジア。開けっぱなしの扉の向こうで、竈に火を入れるのが見えた。僕はその場で声を上げた。
「待ってくれアナスタジア、今日は僕、君に会いに来たんじゃないんだ」
アナスタジアは意外な反応をした。ボッと赤面し、声高らかに叫んだのだ。
「あ、あたしだって別にっ、あなたに会いたくて待ってたわけじゃないわよ!」
「…………うん?」
なんだこの反論。きょとんとする僕に、アナスタジアは更に何か言おうと口をパクパクさせてから顔を手で覆った。
「ごめん間違えた。今のはナシ」
「えっ?」
「ただの条件反射。ちゃんと治すから、もう少し日数というか、回数をください」
「うん、はい。え? どういうこと」
「えーっと、あっ、そうだ眼鏡! 眼鏡を取りに来たのね? じゃあちょっと待っててっ」
顔を覆ったまま、工房のほうへ引っ込んでいく。
いや、眼鏡を取りに来たわけでもなくただ馬が勝手に来ただけなんだけど、というか何だ今の? さっぱり意味が分からないけど、なんだかすごく楽しいことが起きたような気がする。嬉しいことを言われたような気がするぞ。何だ? 気になって、なかなか立ち去れない――今すぐ彼女を追いかけ肩を掴んで振り向かせてみたい。分からないけどなんとなくだけど男の勘だけど、すごく可愛い顔をしている予感がするぞ!?
僕は戸口に手を掛け、思わず足を踏み入れた。そこでギリギリ踏みとどまる。
……いけない。今日はこれ以上、アナスタジアと過ごすのは危険だ。
どうやら僕は自分で思っていたよりもずいぶん疲弊しているらしかった。さっきから体が思うように動かなくて、理性と違うことばかりする。今だってそう、彼女が戻ってくるよりも早く馬を出し、立ち去らねばと思うのに足が一歩も動かない。
理由はただ、名残惜しくて。
フラリア大使館に戻れば、ミレーヌ姫は僕を傅かせ、一晩中贖罪をさせるだろう。そのあとは十歳の娘と交流し、結婚式の段取りや衣装合わせだろうか。それとも王宮に引き渡されて、兄から有り難い訓戒を頂戴するか。いずれにせよ慌ただしく縁談は進み、僕は国を去る。数年に一度は帰国するかもしれないが、王女と妻を連れての外遊だ。職人街に立ち寄れるわけがない。アナスタジアとはきっと、二度と会うことはないだろう。
それはもう受け入れているんだよ、だから――これ以上は、ただ別れが辛くなるばかりじゃないか。
「おまたせっ!」
僕が逃げ出すよりも早く、君はまた顔を出す。
「歪んだフレームだけじゃなく、レンズを磨いてネジの緩みも直しておいたわ。前より視やすくなったと思う」
ぴかぴかの眼鏡を両手で持ち、自慢げに掲げる。それから僕の袖を引き、拗ねたみたいに唇を尖らせる。
「屈んで」
言われたとおりに従うと、低くなった僕の目の位置にまで背伸びして、眼鏡をそうっと着けてゆく。今までよりも明瞭になった視界の中で、笑う。
「あなたって、眼鏡があったほうがハンサムね」
一瞬、彼女の指が頬に触れた。井戸水で冷えた顔面に、彼女の温度が沁みこんでくる。彼女も僕の皮膚を冷たく感じたのか、心配そうに眉を顰めた。
「ねえ、着替えるくらいの時間も取れないの? せめてタオルで拭いて。そんなずぶ濡れで馬に乗ったら風邪を引いてしまうよ」
返事も聞かず、踵を返すアナスタジアの腕を、僕は掴んだ。
ぎょっとする彼女を無理やり振り向かせて、
「アナスタジア。君に話しておきたいことがある」
「な……なによ、そんな、改まって」
「結婚するんだ、僕。だからもう君とは会えない」
アナスタジアの表情が強張った。代わりに、僕は笑みを浮かべた。眼鏡をポケットにしまい、いつもの王子様スマイル。水浸しのままでも仮面は作れるよ。目は下弦の……口元は……お皿の形で。
アナスタジアは目を見開いて、グッと喉を鳴らした。僕から顔を背けるように、俯き、かすかに震える声で呟く。
「そ……そっか。……なんか、思ってたより、早かったね」
僕は笑顔で事もなげに返す。
「早すぎる年齢ってこともないけどね。それにほら、華は綺麗なうちに摘まないとっていうだろう?」
「相手はどんなひとなの」
彼女は僕の軽口の相手をしない。それはよくあることなので、僕は自慢げに笑って見せる。
「大物だよ、フラリア国の王女殿下だ。ディルツの三男坊じゃ僕のほうが玉の輿だな」
「フラリアに、あなたが行くの?」
「うん。だからもう、ディルツには年に一度帰って来れるかどうか? 輿入れの日までにソーセージを食い溜めしておかなくちゃ」
「いつ?」
「来週」
アナスタジアの肩が震えた。
さすがの彼女も、あまりにも突然の別れに動揺したらしい。いや少なからず、悲しんでいるような気がした。もしや寂しいと思ってくれただろうか、まさか、涙を浮かべていたりして――そんな淡い期待で、彼女の顔を覗き込む。
――いや、期待って何だよ? 僕は首を振った。むしろ逆だ、僕は彼女と笑ってサヨナラしたかった。いつものように快活に、ちょっと怒ったように声を張って、「奥さんを大事にしなさいよね!」なんて笑顔で檄を飛ばしてくれたら、そしたらもう何の未練も名残もなく、この国を去って行けるだろう。
「だから、さようならアナスタジア」
アナスタジアは顔を上げた。僕の予想した笑顔ではなかった。しかし期待した泣き顔でもなかった。
強い眼差しだった。まっすぐに僕を見つめる、真夏の空みたいな青い瞳――戦の女神を思わせるほどに凜々しく、彼女の視線が僕を射貫く。
そうして彼女は僕に尋ねる。
「……それで? あなたはあたしに、何を望みに来たの」
今度は僕が震えた。




