ずたぼろだった令嬢と硝子の靴
自分の体から、薔薇のような香りがする。
「さあマリー様、こちらです」
ミオに手を引かれるまま、長い長い廊下を進む。
わたしの足下には、美しい靴。透き通った宝石がいくつもついていて、まるで硝子で出来ているよう。
慣れないハイヒールで、何度もつまずきそうになった。そのたびミオが支えてくれる。そうしてどうにかたどり着く。
白亜の城の中心部は、漆黒の扉で閉ざされていた。
ミオが扉を開く。
「どうぞ、中へ」
そこはパーティー会場だった。
この城で最大のホールだろう。とにかく広く開けていて、百人が激しく踊れそうな空間だ。
磨きぬかれた石床に、扉からまっすぐ伸びる一条の朱絨毯。それを囲むようにして、ずらりと人が並んでいる。この城の従者たちだろう。みな両足を揃え、腰をかがめて、わたしの入場を待っているようだった。
「どうぞ……そのまま進んで下さい」
ゆっくり、ゆっくり。
歩きながら、辺りを見回す。
側面の壁は、一面、鏡張りになっていた。
わたしはそれをぼんやり眺めた。
……これは、誰?
……鏡の中に、わたしの知らない女性がいる。
背の高い女性だった。
ふんわりと、柔らかく広がる朱色の髪。腰よりも少し短いくらいだが、クセが強くボリュームがあるので、まるで大輪の花のよう。
ほっそりとした顎を縁取って、誇らしげに咲いている。
端正な顔立ち。日焼けした肌は、やや濃いめのファンデーションにより滑らかに整えられていた。ふっくらとした唇は紅が塗られ、甘やかな桜桃色。
切れ長気味の目は、知的さを感じさせるシャープなメイクで。
長身を隠すことなく、むしろヒールで嵩上げし、長い足が映えるマーメイドフレアの、真っ赤なドレス。腰回りには金糸で蔓を描き、くびれをより際立たせていた。
わたしはぼんやりと、『彼女』を眺めていた。
――綺麗。
……誰?
「マリー様。旦那様のほうへ、どうぞ」
ミオがわたしを促す。わたしはぼんやりしたまま歩きだした。
ホールのちょうど中程、絨毯の上に伯爵はいた。
特にどうと言うことはなく、ただ普通に立っている。わたしはなんとなく気圧されながらも、またミオに言われて、歩み寄っていく。
瞳の色が分かるまで近づいて、一礼。そして顔を上げた。
彼は無表情だった。無言のままだった。
キュロス・グラナド伯爵は背が高い。男性並みに長身のわたしが、ヒールを履いても見上げるほど。緑色の目がわたしを突き刺す。睨まれている? いや、その眼差しに敵意はない。むしろ蕩けるほどに温かい。
彼は言った。
「――マリー……」
「……キュロス様?」
呼びかけたが返事がない。彼はわたしから視線を外さぬまま、自分の顎を押さえて震えた。意味が分からない。
……どうしたんだろう。怒っているのだろうか。呆れたのかも知れない。
せっかく風呂に浸けてやったのに、なんて汚い赤毛なのかと。
せっかく上等なドレスを貸してやったのに、醜い娘なのだと。
きっとそう思われているんだわ。わたしは俯き、こっそりと唇を噛んだ。申し訳なくてたまらない。やっぱりわたしは――
涙がこぼれる直前、キュロス様が声を張り上げた。
「リュー・リュー! リュー・リュー、来い!」
りゅーりゅー?
ほとんど怒鳴るような呼びかけに、「はいはぁーい」と軽い声がした。ほど近いところにあった柱から、ひょこっと女性が顔を出す。
とても美しい人だ。彫りの深い顔立ちに、エキゾチックなメイクが負けていない。褐色の肌に、豊かな睫毛に縁取られた双眸、緑色の瞳。
「そんな怒鳴らなくったって近くにいるんだから聞こえるわよ」
年齢不詳の美女はフフンと鼻を鳴らし、キュロス様とわたしをニコニコ眺めた。視線がわたしのほうで止まる。
「へーっふーんほぉーぉ。なるほど。キュロス――あんた案外、メンクイだったんだねえ」
めんくい?
意味の分からない言葉に、きょとんとする。
何かニヤニヤしている女性に、キュロス様は眉を寄せた。
「リュー・リュー、ふざけてないでちゃんと見ろ」
「だってあんたもう決めたんでしょ」
「……これは正式な儀式だ。ちゃんとしたい。ちゃんとしてくれ、母上」
母上?
そういえばキュロス様は混血児で、お母様のほうが純血の東部共和国民だと言っていた。ではこのリュー・リューという女性が、彼の母親なのか。
緑の瞳を持つ女性は、わたしを正面からじっと見る。強い目だった。
わたしは目をそらした。
「……。だめね。足りないわ」
「…………母上」
「圧倒的に、自信が足りない。未来の公爵夫人は、もっと自信満々に胸張って、強く気高くならないと――結婚式の日までにはね」
キュロス様がアッと声を漏らした。母親を見下ろし、目を煌めかせる。
「では、母上」
「ああ。今日一日で体裁を整えたんだろうけど、化粧や服に飲まれちゃってるんじゃまだまだだね。これからが本番だよ。あたしも協力するからさっ」
「ああ、頼む。……ありがとう母上」
「何を畏まっちゃって、気持ち悪っ」
どうしよう……何もかも、意味が分からない。
完全に置いてけぼり、状況がサッパリ。かといって問いただすこともできなくて、わたしはぼんやり立っていた。するとチョイチョイと袖を引かれる。振り向くとミオがいた。
「おめでとうございます、マリー様」
「う? ありがとう。うんっ? おめでとう? 何が?」
「キュロス様との婚約が公爵夫人に認められました。これで、あなたはキュロス・グラナド伯爵の正式な婚約者です」
「……んっ?」
……え? ……ん……え?
えっ? ――ええっ!?
使用人達の列から、わあーっと大きな歓声が上がった。
「おめでとうございます!」
「ご婚約おめでとうございますキュロス様、マリー様!」
「おめでとうございます!」
盛大な拍手と大歓声。
訳が分からなくて、声も出ない。わたしはとりあえずリュー・リュー夫人を見下ろした。小柄な婦人はニコニコしながら両手を広げ、わたしの体を、ぎゅうっと強く抱きしめた。
「ようこそマリーさん! グラナド伯爵城へ!」
「……え……えと……」
「あたしゃ嬉しいよぉー。公爵の体調が悪くてさ、なるはやで爵位を譲りたいのに、この馬鹿息子がいつまでもえり好みして。しょーがないからどこぞの姫をあてがうかってな所でポンと決まって、良かった良かった一安心」
「え。……え」
「リュー・リュー、気が早い。まだ婚約だ。それも婚約の儀が済むまでは正式に結んだとは言えないだろう」
キュロス様が厳しい声で言う。でもなんだか目が笑っている。
「ミオ、シャデラン家に使いを出せ。婚約の儀の日取りを決めるぞ」
「畏まりました。しかしこれから早馬を飛ばすと、あちらの馬車を追い越してしまうと思いますが?」
「ああそうか。いや、ゆっくりいこう。色々と準備も必要だ」
「え……」
「シャデランも古い家ですからね、もしかしたら特殊な信仰や習わしがあるかもしれません。婚約式は両家の儀式ですから、慮らなければなりませんよ」
「そのあたりのことも丁寧に聞き出していく。まずは伝令を頼む」
「あの……」
「いやぁー息子もとうとう結婚かー! さすがに感慨深いわね。もしかしたらあたし、来年にはおばあちゃんになったりして!?」
「あ――わ、わたし」
「やめろリュー・リュー、昨今、そういう言動は嫌がる嫁が多いそうだから」
「あの! わたし――無理ですっ!!」
わたしは絶叫した。
伯爵城のメインホールに、わたしの悲鳴が響き渡る。三人の言葉と数十人分の拍手が止んで、みな一斉にわたしのほうを振り向いた。
そして全員の目がパチクリ、剽軽な仕草で瞬いた。




