目は下弦の月の形、唇はお皿の形。
白磁で舗装された床に、まっすぐ伸びる真紅の絨毯。銀糸で描かれたアカシアの花――フラリア王国の紋章を、踏まないように避けて歩く。
数メートル進むたび、メイドや執事らしい侍従達に止められた。
「これはこれは、ディルツのルイフォン殿下ではございませんか。ようこそフラリア大使館へ……」
消えた語尾の中に、「何のご用で?」が含まれている。
僕はへらりと笑って、手を振った。
「遊びにきただけだよ。ミレーヌ王女殿下にお茶に誘われてね」
「……さようでございましたか。失礼致しました」
普通、事前の約束も無しに大使館へ、それも異性が訪ねてくるなどありえない。だけどミレーヌの侍従達は一切追及せず、止めもせず、案内もしなかった。ふだんの彼女の……あるいは僕の評判が知れるな。
僕は自嘲気味に苦笑しながら、迷いなく回廊を進んでいく。
「目は下弦の月の形。唇はお皿の形……」
――ここへ来る前――僕はたくさんの場所へ足を運んだ。
まず真っ先に、長兄の部屋。続けて次兄リヒャルトを訪ねた。夜明け前という時刻では二人ともが休んでおり、どれだけ強くノックをしても出てこなかった。朝を待ってまた訪ねると、今度は二人ともが留守で顔を見ることも出来なかった。
急いで城の離れ、円塔へ駆けた。年に数度しか会わないが実父が暮らす部屋がある。心身の調子を崩し半隠居状態とはいえ、国の王はこのひとだ。
――だが。
「鉄錠っ!?」
塔へ入る扉は、外側から頑丈な錠前で閉ざされていた。
そんな馬鹿な! こんなもの、数ヶ月前には無かったぞ!?
僕は守衛の胸ぐらを掴み、この錠前はなんだと問い詰めた。囚人ではなく一国の王だ、あれでは監獄、あるいは監禁ではないかと。
しかし守衛は穏やかに笑う。
「ああ、心配ありませんよ。それは王太子殿下がお付けになったのです」
「兄上が!?」
「二ヶ月ほど前です。王宮内で物盗りがあって……いえ、新人の使用人が同僚の財布に手をつけただけで大したことでもないのですが。それにより警備の気を引き締めて、国王陛下をお護りせねばということになりまして」
さらに聞くと、初日はもちろん内側に錠をつけ、国王が鍵を所持していたものの、なぜか当日に鍵を紛失。その時ともにいたライオネルが予備鍵を持っていたので事なきを得たが、シャレにならないウッカリをやらかした父は、自ら鍵の管理を放棄した。
「わしはもうボケてしまったようだから、しかたない。鍵は外側から掛けて、ライオネルが管理をしておくれ。塔の中は快適だし、用があれば守衛のひとたちに言えばええんじゃろ?」
……もしかしてと思って、尋ねてみる。
「父がその選択をする前……鍵を無くしたことを、ライオネルにこっぴどく怒られていた?」
「ええ、それはもう」
守衛は苦笑いした。
「陛下は御年齢もありますし……もともと、国政に就かれると昼夜を忘れて励まれる方ですからなあ。王太子殿下に、王妃様の看病にも不手際があったのではないかなどと詰め寄られてしまって――」
「兄上が、母の病死を父のせいだと言ったのか」
「いえ、いえいえそんなまさか。王太子殿下は決してそのような言い方はなさりませんでした! ただ、『父上の呆け具合は深刻なのではと以前より思っていました。母上の看病をなさっているときにも、間違いなく正しく薬を飲ませたのですか?』と……」
それでは言ったも同然ではないか。実際、父はそれを機に自ら隠居した。
「父上!」
塔を見上げた。もともと見張り塔であるそれは、王宮のどの建物よりも背が高い。最上階の部屋まで声が届くと思えない。まして登ることなど不可能だ。
「くそっ……!」
苦々しく見上げる視界を、黒い鳥――ツバメだろうか? が横断する。鳥のように空が飛びたいと、本気で願ったのは初めてだった。
最後に、レイミアの部屋を訪ねた。
昨夜からずっと眠れなかったらしい、泣きはらした顔をしていた。
「わたくしに出来ることはないのでしょうか」
十六歳の妹は、そんなことを言った。
「わたくしは、お兄様達のように出来の良い子どもではありません。それでも王女です。……わたくしに、キュロス様達の幸せを壊す以外の利用方法はないのでしょうか?」
――無いこともない。
僕はそれを口にしなかった。レイミアの頭を撫でてやる。
「レイミアは、その優しくてまっすぐなところが一番の取り柄だよ」
「茶化さないでくださいまし」
「茶化してない、嘘じゃない。君は父上に似ているんだよ。家族を大切にし、他人を思いやる心を持っている。それは民を護り国を治めるのに何よりも大事なことだよ」
背中を優しくポンポン叩くと、レイミアは僕にしがみつき泣き出した。
……王族にレイミアのような存在は必要だ。そして幼いレイミアにもまだ、この故郷が必要だった。年頃の王女はこれから社交界や外遊で多くのひとと出会い、多くのことを知る。この国に新しい風を吹き入れるのは、このお騒がせな少女に違いなかった。
「この国のために、レイミアにしか出来ないことがある。レイミアにも出来るけど、僕にも出来ることがある。だからこのお兄様に任せて、もうお休み。徹夜はレディの肌に障るよ」
やがて泣き疲れ意識が落ちた妹を寝そべらせ、僕は王宮を出た。
もしかしたらもう、二度と帰って来ないかもしれないと思いながら。
――そして、フラリアの王女が言う。
「あなたがここへ来てくれるなんて、とても嬉しいわ。ルイフォン・サンダルキア・ディルツ殿下」
第三王子の訪問に、お辞儀どころか椅子から立ち上がりもしない。黙って手を伸ばし、指で空中をくすぐって、僕を挑発するような所作をした。
彼女は国王の一人娘とはいえ、フラリアには女王制が無く、次期国王は彼女の息子が成る。王女ミレーヌはあくまでも、『王の娘』という立場だ。序列で言えば、王位継承権のある僕のほうが身分は高い。
それでも僕は跪き、ミレーヌの手を取り、その爪に口づけた。
「突然の訪問をお許しください。今朝ツバメが飛ぶのを見て、よく似たあなたが恋しくなってしまいました」
「……ツバメとわたくしのどこが似ていると?」
「美しいところと、夏が終わればすぐに他の国へといってしまうところ」
ミレーヌはフフンと鼻を鳴らす。
「社交界シーズンが終わるからもうじき帰るだけですわ。でもまたディルツに来てしまう。わたくしはあなたのそういうところが、可愛くて仕方ないのだから」
「……美女に弱いところかい?」
「やむなしとあれば自ら跪くことを辞さない、打算的でプライドの無いところ。お兄さん達は駄目ね。媚びるのが下手と言うよりも、納得していないのだわ。まだ自分の国がフラリアより強いと思いたがっているのね」
ミレーヌの言うことは事実だった。
フラリアは土壌の豊かな国だ。
百五十年戦争で共闘関係にあったさい、ディルツに物資を支援し、ディルツ兵の胃袋を支えてくれた。
その代金としてディルツは兵器をフラリアへ流した。自国都市が頑健な城郭に護られているぶん、攻め込む力に欠けていたフラリアはたいそう喜んで、両者は対等な相棒だった。
その均衡が崩れたのが、終戦。
戦時中、さらに豊かな農地や酪農技術を育ててきたフラリア。兵器の開発に没頭していたことで大幅に遅れを取ったディルツ。戦争が終われば火を吐く鉄は不要になり、ディルツには売り物がなくなった。しかし人の口が減ったわけじゃない。食料は輸入に頼りながら、外貨を稼ぐための産業を慌てて育てているところである。
人も技術も育てるには金が要る。しかし和平が成り在庫がダブついた兵器以外に、ディルツが売れる物は無かったのだ。
「ディルツの工業技術は大したものよ。そこはフラリアも高く評価はしているわ、ただ要らないだけで」
「……鉄くずを買い取っていただけて、王女殿下には感謝しているよ」
「それで、今日はお礼の言葉だけを言いに来たの? そんなの伝令にでも任せれば結構。顔も見たくない女に、無理して逢いに来なくていいわ」
「どうしてそんなイジワルを言うの、ミレーヌ。これから君に会えると思って、僕はスキップをしてここまで来たのに」
ふふっ――と笑い声を漏らすミレーヌ。フラリアの女は、こうしたジョークを愛する。目が笑ってしまったのを扇子で隠し、
「しらじらしくてよ。この外遊期間中に、わたくしが何度王宮を訪ねたことか」
「騎士団長の仕事が忙しかったんだよ。居留守じゃなくて、本当に王宮にいなかったんだ」
「では休日、いえ半日でも時間が取れるたびにいそいそと馬を出して、いったいどこへ?」
僕は笑った。やれやれ。騎士団の門番を懐柔したのか、王宮内にスパイでも忍ばせているのか知らないが、マメなことである。
職人街まで後を付けられてはいないだろうが……誤魔化すのは無理だろう。
僕は立ち上がった。ツンと拗ねたようにそっぽを向いた、王女の顎を掴み、強引に傾ける。
親指で強く、唇を突いた。
「その口紅の色が気に入らなかった。国中を探してやっと僕好みのを見つけたから、今すぐ塗り直して」
実際に市場で買ってきた、女性用の紅を差し出して言う。ミレーヌは今度こそうっとりと、蕩けたように目を細めた。
「……ルイフォン。あなたはほんとうに、美しい嘘をついてくれる」
「嘘なんてついていないよ」
「ふふふ……いいわ。あなたのお願いならば、なんだって聞いてあげる。今日は本当に、なんのおねだりにきたの? うちの息子とディルツの姫との、頓挫した縁談のやり直し?」
ぼくは首を振った。
「では何を売りにきたの。煙草を点けるのに便利な火炎放射器? 五十メートル離れたら当たらない拳銃? それとも青銅の盾と矛かしら」
そんなのあったら逆に貴重だよと苦笑して、僕は再び、ミレーヌの前に跪いた。
「この僕を。ルイフォン・サンダルキア・ディルツを買い取ってください」
唇を寄せた指先から異様な匂いがした。薔薇を練った香水と煙草が混じった甘苦い匂い。ミレーヌが興奮し、体温を上げたせいだった。




