王子たちの夜②
ライオネルは解説などしなかった。わたくしではなく、後ろのリヒャルトへ問いかける。
「グレゴール・シャデランの身柄はいつ確保できる?」
リヒャルトが居住まいを正し回答する。
「シャデラン領に続く道はすべて封鎖しています。次に学園を出たさいには、すぐにでも」
「私の質問に答えろ」
「……以前より脱走の常習犯だったそうで、学生寮は現在警備を強化されています。グレゴール自身にも見張りがつき、おいそれとは……」
「質問に答えろ」
「めどが立っていません。学園の塀は高く、よしんば潜入できても攫えません。学園に掛け合っても門前払い。強引に潜入するにはこちらも身分を明かし、王家勅令の札を使うほかないでしょう」
ちっ、と舌打ちの音がする。ライオネルが初めて面倒くさそうな表情をしていた。
「貴族の令息令嬢を預かる学園……なるほど堅牢で厄介だな」
「お、お兄様? 何の話ですの?」
ライオネルは立ち上がり、書棚へ向かった。分厚い本の間から、一枚の羊皮紙を抜き取ると、リヒャルトに手渡す。紙面には人名らしきものが並んでいた。
「仕方ない、先に容疑のほうを固めよう。この者たちをシャデランへ派遣しろ。従僕として潜りこませ、シャデラン家の不正を洗い出せ」
「屋敷にはもうグラナド家が入っています。運営は正されており、過去の失態の証拠が見つかるかどうか……」
「おまえがなにか考えろ」
――それは、自分で最適解に辿り着け、と突き放した?
それとも本当に、リヒャルトが勝手に創作――捏造しろという――?
リヒャルトの顔色で答えは明らかだった。黙ったままの弟に、王太子はさらに続けた。
「とにかく『容疑者』にできればこちらのものだ。そうなればマリー・シャデランは、罪人の娘。王の名のもと、キュロス・グラナドとの婚約破棄を命じることができる――」
……! な……なんですって!?
わたくしは驚愕のあまり、悲鳴も上げられなかった。どういうこと? お兄様たちは何をしようとしているの?
グレゴール・シャデラン男爵……マリーのお父さん? 罪って何――いや、きっとたいした罪じゃ無いわ。お兄様は今までに、ある程度把握しながらも、証拠固めに奔走はせず放置していたのだから。
兄の目的はシャデラン男爵の断罪じゃない。その娘マリーの名を貶めること、キュロス様との婚約を解消させること、そしてわたくしを後釜にねじ込むことだ。
わたくしはやっとそれを理解した。
「や、やめてくださいお兄様!」
長兄に駆け寄り、袖を掴むと、兄は静かにわたくしを見下ろした。
背筋が凍り付くように冷たい、アイスブルーの瞳――わたくしは震える声を上げた。
「わたくし申し上げましたよね? キュロス様のことは諦めたと! もういいのです。わたくしの気持ちなんてどうでもいいのですから――」
「よせレイミア、兄上はまさに、おまえの気持ちなどどうでもいいんだ」
リヒャルトがわたくしの肩を掴み、退かせた。やけに優しい声で言う。
「もとよりおまえの結婚相手は兄上が決めていた。おまえの婚約者は二転三転していたんだ。情勢に合わせ、もっともディルツにとって益となる男にと。そして最終的にキュロス・グラナドに決定しただけだ」
「では、わたくしの想いを汲んでくださったわけでなく……政略結婚で……?」
「ああ――今、ディルツの国庫はフラリアへの軍事兵器輸出で成っている。大型の兵器を送るのに、運河の使用が欠かせない。しかしその管轄がグラナド商会だ。所有権を国へ上納するよう何度も命じたが……軍事利用は許さないと――」
「そんなことどうでもいいですわっ!」
わたくしは次兄の弁舌を遮った。
「わたくしのこともどうだっていいっ! そんなことより、キュロス様はマリー・シャデランを愛してる! あの二人にはお互いしかありえませんわ、絶対に引き裂いてはいけない二人です。リッキ兄様だって見たでしょう!?」
わずかに顔をしかめ、気まずそうに黙るリヒャルト。
リヒャルトが女性恐怖症なのは、異常なまでに優しいからとも言える。リヒャルトだって腐っても王子様だもの、他人にどう思われようとも権力で支配して、我が物にすることはできたはず。そうしなかったのは嫌われたくないから。たとえ自分が病んででも他人に優しくありたい、楽しませたい、傷つけたくないという気遣いが誰よりも強く、誰よりも弱くなってしまった第二王子。
そんなリヒャルトが、夫婦を引き裂くのに手を貸すだなんて!
「お兄様はそれでいいの? マリーを罪人の娘にするなんて。マリーは途方に暮れてしまうわ、キュロス様のもとを離れ頼れる親もなくなって、どうやって生きるのよ?」
息を呑むリヒャルト。救いを求めるように、ライオネルを振り返る。長兄は、いともあっさり言った。
「疵瑕物を娶る貴族はおるまい。元男爵令嬢が労働できるとも思えんな。ろくでもない男にもらわれるか、路傍の娼婦と成り果てるか――」
「そんなっ!」
リヒャルトが、声も出ないわたくしのぶんまで叫ぶ。ライオネルは、ふと微笑みを浮かべた。
「ではおまえが身請けしてやれ。リヒャルト」
リヒャルトの全身がこわばった。
「……な……なんだって? ……」
「難しい話ではない。シャデラン男爵家から離縁をさせて、どこか上級貴族の養子にでもすれば、王族との婚姻は可能だ」
「……おれが……マリーと」
「ああ、むしろちょうど良かったな。おまえをどこかの王女にあてがうのは諦めていたところだ。マリー・シャデラン……田舎の荘園ではたいした国益にはならないが、生まれた子どもは使える。世界各国にばらまけば、国交の鎹となるだろう。たくさん産ませろ」
――ひどい。
わたくしは怒りのあまり涙がにじんだ。
そんなのリヒャルトだって許すわけがない……そう信じて次兄を見上げたが、彼はなんだかぼんやりしていた。まさか、とゾッとする。
「リヒャルト兄様!」
ハッ、と覚醒し、リヒャルトは頭を抱えた。長兄の暴言に怒ることもなく、部屋を飛び出していく。
嘘、うそでしょうリヒャルト。兄がマリーに惹かれているのは真実だけど、だからって、いやだからこそ、そんな甘言に乗らないわよね? ねえ!?
「これで、リヒャルトも仕事に身が入るだろう。罪悪感だかなんだか知らんが、いつになく作業が遅くて難儀をしていたからな」
『雨が降ってきたがちょうどカサがあった』みたいな口調で、ライオネルは言った。
わたくしは長兄に駆け寄った。そのまま殴ってやるつもりだった。だけどわたくしの拳は、ライオネルに掴まれ、止められた。
大きな手だ。わたくしの手首を握る指が一周してなお余る。さほど力を入れているように見えないのに、びくともしない。わたくしは全身を震わせながら、精一杯、兄を睨んだ。
「ライオネル……ライオネル! あなたは一体なんの権限があって……愛し合う夫婦を引き裂こうとするの。神でもあるまいに!」
「私は王だ」
ライオネルはそう言った。
「食い詰めた下級貴族のように、私利私欲で動いているわけではない。
グラナド商会は国政の邪魔だ。叩き潰してやろうと思っていたが……婚姻によって深い縁を成し、王国との共有資産として上納させられるならそれでいい。私は国のために働いているに過ぎない」
「それが……王の役目と……」
「その通りだ。おまえもその使命を担って生まれてきているのだぞ、レイミア王女」
わたくしはその場に崩れ落ちた。床に突っ伏し、涙を零す。
「……う……ぅ、くっ……」
悔しかった。悔しくて悔しくて、だけどどうしていいか分からなかった。
わたくしは王女だ。これでも政治経済の教育は受けている。
――フラリアとの縁は、ディルツにとって必要不可欠。そのためにグラナド家は邪魔である。すべての問題を解消するのには、王女とグラナド家との婚姻が最適解。
――それが真実。わたくしは理解してしまった。それが悔しかった。
いっそ何もかも理解せず、お兄様は酷い悪党だと罵れたら楽なのに。
「うう……うーっ……」
呻くわたくしを、見下ろすライオネル。慰める声は優しい。
「残念だったな、レイミア。……もう少し早く……あの末弟が、上手くフラリアに取り入れたなら、おまえの友人達は幸福な夫婦になれたかもしれないね」
わたくしは水浸しの顔を手のひらで覆い、黙って部屋を出て行った。
ふらふらと、迷子みたいに廊下を進む。
「マオ……マオ、どこへいったの?」
いつの間にか消えた侍女の姿を探す。
探さざるを得なかった。彼女に縋ったからって、何もならないとわかっていながら。
この王宮に生まれて十六年。こんなにも無力感に打ちひしがれたのは初めてだった。猛烈に、誰かに甘えたい。慰めが欲しい。自分ではどうしていいかわからない。
壁に体をこすりつけながら自室へ向かう。
わたくしの部屋はひとつ下の階、国王以外の王族が過ごすフロアにあった。
階段を降りたところで……足が動かなくなった。その場にしゃがみこみ、ただ泣く。
――涙が止まらない。どうせなら際限なく出たらいいのにな。決壊した運河のように、誰にも止められない大きな奔流になって、何もかも呑み込めたらいい。
わたくしは、この王宮が好きだった。
王女に生まれたことを嘆いたことなどなかった。だけど今、強く強く思う。何もかも海に沈んでしまえと。
――何時間そうしていただろう。
カツンカツンと硬い音がした。
顔を上げる。あたりの闇がずいぶん薄くなっていた。夜明けと言うにはまだ早い時刻、白い人影がやってくる。
白い肌に白銀色の髪、白の貴族服を着込んだ兄――三番目の王子、ルイフォン兄様だった。
ルイフォン兄様の朝帰りはさほど珍しくない。すぐ隣の騎士団で働くお兄様は、月の半分以上をそちらで過ごすのだ。わたくしと遭遇し、驚いたのは兄のほうだった。
「レイミア!? どうしたんだ、こんな時間に。何をしている?」
「ルイフォンお兄様っ!」
わたくしは駆け出した。兄に飛びつき、思い切り抱きしめる。
端整な顔を疑問符でいっぱいにしたお兄様に、わたくしは泣いて縋った。
「お願い助けて! わたくしのせいでふたりが引き裂かれてしまう。わたくしはマリーからキュロス様を奪ってしまうの!」
「……は?」
眉間に皺を寄せながら、まだ素っ頓狂な声をあげるルイフォン兄様。わたくしも平静にはなれない。ありったけの感情を、優しい兄に全部ぶつけていった。
「フラリアとの縁が要るの。そのためにわたくしはグラナド家と結婚しなくてはいけないの。ああ駄目、そんなのいけませんわ。だれも幸福にならない、みんな不幸にしかならない!」
「……フラリアと、なんだって?」
「嫌だ、嫌――助けてお兄様。マリーと……キュロス様を……不幸にしないで…………」
縋り付き、泣きわめくわたくしを、兄は抱き寄せた。
骨張った細い指、だけど大きくて温かな手が、わたくしの肩を慰める。
見上げると兄の笑顔があった。いつもと同じく甘やかで、なんでもないような優しい笑みだ。
「うん。わかったよ」
いつも通りの軽い口調。
だけどわたくしを抱く手のひらは、わずかに震えた気がした。




