王子たちの夜①
夜の王宮。ガス灯があちこちに掛けられているので、歩けないほど暗くはない。そんな薄暗い廊下の、さらに闇が深くなった物陰に、わたくしは人の気配を感じた。
「そこに居るのは誰ですの?」
呼びかけるのに恐怖心は無かった。ここは王宮、そしてその最上階――国王夫妻の私室があるフロアだ。警備はこの国のどこよりも厳重で、賊が入り込めるわけがない。王族の誰かだろうと確信していた。
案の定、人影は「くっ! 見つかったかっ!」なんて抵抗したりせず、すぐに闇から出てきた。
年の頃は二十歳前後、ダークブラウンの野暮ったい前髪に分厚い眼鏡。ひたすらに地味で印象に残らないシルエット――わたくしの侍女、マオだ。マオはスカートの裾を優雅に広げ、わたくしの前で一礼した。
「これは、レイミア様。夜分にどうなさいましたか」
逆に問われてしまった。わたくしも別にやましいことは無いので回答する。
「わたくしはライオネル兄様にお話があって。お兄様、昼間はずっとお忙しくてなかなかお会いすることもできませんもの」
「……王太子様はレイミア様と同じ、二階のお部屋では……?」
「ああ、マオは王宮に来たばかりだから知らないのね。その通りですけど、ライオネルは国王代理として、すでに国政の中心人物。執務室と繋がっているからって、お父様の部屋で過ごしておられるのよ」
マオの前を過ぎ、歩みを進める。ライオネルは本当に忙しく、部屋でゆっくりお茶を燻らせることはない。早く部屋を訪ねないと、明日のためにと眠ってしまうだろう。早足で歩いていくと、後ろからマオが話しかけてきた。
「私は、王太子様は次期国王としての実践練習で、王の業務を担っているのだと考えていました」
「ええ、国民にはそう周知していますわね」
「違うのですか? 代理としても、私室まで明け渡すとは奇妙に思います。そういえば一昨年頃より、公の場に国王陛下のお姿が見えませんが……」
なんだか珍しく、食い下がって話しかけてくるマオ。その声が極端に低くなった。
「もしや陛下は――なにか、お体を患って――」
わたくしは笑い声を上げた。
「ないない、お父様はお元気ですわ! つい先日、わたくしの社交界デビューにもお会いしたばかり。この指輪を贈って下さったのよ」
振り返り、右手の薬指をかざしてみせる。薄明かりのなか、サファイヤのリングがキラリと光った。女子ならみんながときめく輝きだったけど、マオは目つきを厳しくした。
「それは、もしや王妃様の……?」
「ええ、形見ですわ。父が贈ったものなんですって」
わたくしは笑って言った。
お母様……エカティリーナ妃が亡くなったのは、もう五年も前。それも長年の闘病の末なので、わたくしたち兄弟妹は母の死を穏やかに受け入れている。
それでいうと、誰よりも父が悼んでいた。当たり前に政略結婚、結婚式で顔を合わせたという二人だったけど、父は母を愛していた。妻の死に強いショックを受け、喪が明けてもなかなか立ち直れなかった。そう、それこそライオネルが表に出た理由だ。
そこでハッと用事を思い出し、わたくしは再び歩き始めた。
「ライオネル兄様は気難しいけれど、立派なかたですわ」
マオの足音が後ろに続く。
「愛想笑いも出来なくなってしまった王の代わりに、公務をこなしたのはお兄様ですもの。でなければディルツは今頃、国際連合からつまはじきにされていたかもしれません」
「……国王陛下は、未だ塞ぎ込んでおられるのですか」
わたくしは一度頷いて、そのあと首を振った。
「いえ、さすがに持ち直しましたわ。二年前――今までありがとうとライオネルにお礼を言って、王座に戻られました。だけどそのあとすぐ、胸がぜろぜろすると言って……」
マオが息を呑む音がする。わたくしはまた慌てて首を振った。
「大したことはありませんわ。しかしその原因が不明で、症状が母の病に似ていたために大事を取ったのです」
「その症状が、今もまた?」
「ええ。良くなったと思ったらまた繰り返しで。父は離れの円塔で養生することになりました。もうライオネルは国王代理役にも慣れているから、無理をする必要もありませんしね」
「離れの円塔……」
「もとは見張り塔でしたけど、王宮でいちばん空気がいいからと、ライオネル兄様が改装を手配しましたの」
わたくしも二度ほど訪ねたけど、とても素敵な部屋だった。円塔の最上階なのでとても見晴らしが良く、窓からは園庭を一望できる。そこには母が好きだった花がいつも植わっていて……父も心地が良いと気に入っていた。ライオネルお兄様って案外気が利くのねと見直したものだ。
「ライオネルお兄様はきっと、本当は優しくて家族思いのひとなのです」
わたくしは確信を込めてそう言った。
「時に酷く冷たく見えるのは、王太子として誰よりも国を思うゆえ。……わたくしこれでもライオネルお兄様を敬愛しておりますのよ」
マオは静かになった。
あっ、そういえば彼女がなぜここにいるのか、問うのを忘れていたわ。
彼女はわたくし個人の侍女だから、ほかの王族と関わる必要はない。お兄様に何か用事かしら。いや、マオはもともと、このフロアには国王がいると考えていた――?
口を開きかけたその時、目の前の扉がガチャリと開いた。おっと、いつのまにか最奥、王の部屋まで来てしまったのね。ちょうど出てきたらしい長兄との対面に備え、わたくしは身を引いてカーテシー。一度頭を下げてから、すぐに眉を垂らした。
「なんだ、リッキ兄様じゃありませんの」
「なんだってなんだ。レイミア、おれだってお兄様だぞ」
拗ねたように唇を尖らせるリヒャルト。彼を舐めきっているつもりはないけれど、ライオネルと比べれば格段に気楽な相手である。わたくしは肩をすくめて冗談を言った。
「リッキ兄様に頭を下げるなんて、損なことをしましたわ。まぎらわしい。今度からは、『おれはリヒャルトだあ!』と叫びながら扉を開けてくださいますこと?」
「こんな時間じゃ寝ているひとに迷惑だろうが。住み込みの使用人達は、だいたい朝が早いんだし」
「正論はやめてくださいまし。リッキ兄様も、ライオネル兄様に御用ですの?」
次兄は肩をすくめた。
「今日の報告と、明日おれがやるべきことを聞いていた。毎日の定例だよ」
「ライオネル兄様は、もうお休みに?」
わたくしが問うと、リヒャルトは体を引いて部屋にわたくしたちを導いてくれる。
その部屋――国王の私室であり、王太子ライオネルの執務室であるそこは、広く豪奢で、同時にたくさんの物があった。子供が寝られるくらいの巨大なデスクに、壁一面の蔵書、夜でも書類仕事に事欠かないよう、あちこちに灯りが置かれている。
書類の山に囲まれて、長兄ライオネルはそこにいた。ペンを走らせながら、顔も上げずに言う。
「リヒャルト、まだ何か用か。まさか良心の呵責などと言い出しはしないだろうな」
「夜分に恐れ入りますお兄様、レイミアですわ。ごきげんよう」
声をかけても、ライオネルはやはり書面を見下ろしたまま。
「レイミアが来るとは珍しい。夏も暮れて冷えるようになってきた。用なら早く言って、部屋に戻れ」
ぶっきらぼうな言い方だけど、気遣いが嬉しい。うん……やっぱり、ライオネルお兄様は優しいひとなのだ。
かつて、お兄様が持ち込んだ縁談を泣いていやがったわたくしに、ではキュロス・グラナドと縁を結べと言ったのはライオネルだった。きっとわたくしが、彼に片想いしているのを知っていたのだわ。お兄様は妹のことも、父や亡き母のことも愛している。もちろん国民みんなのことも。
それで話は終わりとばかりに、執務に集中するライオネル……怖くて、話しかけづらい。でも逃げてはいけないと踏ん張る。
――マリーは、貧しい男爵家の出身でありながら、伯爵城のみなとあんなに仲良くなっていた。女嫌いのリヒャルトとも、男装してまで交流した。わたくしだって、きっと――ちゃんと主張をすればお兄様だって――
わたくしは胸を張った。
「お兄様が進めてくださっていた、わたくしとキュロス・グラナド卿との婚姻の件……もう、結構です。わたくしは辞退致します」
初めてライオネルが視線を上げた。
「……どうした。おまえはグラナド卿に懸想をしていただろうに」
「え、ええまあ……しかし実は先日、お城を訪ねまして……婚約者のマリー・シャデラン嬢との仲睦まじいようすを目の当たりにし、打ちひしがれたのです。わたくしの恋は、ただ子供の憧れだったのだと」
自分の失恋話を、実兄に語るというのは気恥ずかしい。わたくしは赤面しつつ、苦笑いした。
「わたくしに恋はまだ早かったのですわ。婚姻の相手は社交界を通じて、ゆっくり探していきます。お兄様にはご心配をお掛けしました」
腰までしっかり曲げて、最上級の敬礼をする。床を見つめて、わたくしは微笑む。
――これで、わたくしの恋は本当におしまい。これからはなんの忌憚もなく、グラナド城に遊びに行くことが出来る。
あの男装服を仕立てた理由も、半分はそれだ。マリーとの会話の種になるだろうと……途中でちょっと目的を見失って、十着も注文しちゃったけど……それはそれ。あの男装の職人とマリーとの関係は不明だけど、もしかしたら三人で、お茶をする機会も作れるかも。
おかしいわね、わたくし。失恋の悲しみより、わくわくのほうがずっとずっと大きいのよ。未来がこんなに楽しみなんて、初めてかもしれないほど。
ふと浮かんでしまった笑みを噛み殺して、わたくしは頭を上げた。
相変わらず、ライオネルは書類仕事を続けていた。わたくしに視線もくれぬまま、ただ短く、言い捨てる。
「駄目だ。奪え」
「…………えっ?」
意味が分からなくて、硬直した。




