カラッポ姫はがまんしない
一日働いた手に、ハンドクリームを塗り込む。騎士団御用達だというそれは、婦人用化粧クリームとは違い色も香りもついてない。その代わり効果は抜群だ。べたつかないし、触ったものを汚すこともない。まさにあたしたち職人にありがたい製品だった。
しっとり艶を帯びた手をかざして、ふふっと笑う。
「……うれしー……」
思わず、そんな声が出る。そうするとなお幸福な気持ちになった。
ひとの気持ちは、口に出せばより強くなるんだ。
今日一日であたしはそれを実感したのだった。
溜め息をついて、天井を見上げる。工房の二階、元来ノーマン寝室である所には今、ルイフォンが眠っている。それを考えると、自分の口からクスッと笑い声が出た。
……何にも可笑しくないのに、おかしいよね、あたし。
席を立ち、鏡の前へと移動する。今着ているのは安物だけど真っ白な綿のワンピース……うん、可愛い。
そう、あたしはもともと、ファッションが好きだった。親のお仕着せばかりで無気力になってただけで、ドレスが嫌いなわけじゃなかった。いや服飾職人目指してしまうくらいだから人一倍好きなんだ。
だからって髪を切ったことにも後悔はない。街を歩くにも少年のフリしてたほうが生き易い。この街で職人を続けたいという気持ちも本物だ。だけど『女性』を捨てたわけではなかった。
好きでもない男に媚びるのは反吐が出るわ。いいように弄ばれるのは論外。だけどノーマン含め世の中にはちゃんと善良な男性がいるのも知っている。
好ましいひとになら褒められたい、お洒落や化粧をしたいっていう気持ちも真実。どれもこれも、全部あたしだった。
「――そう。あたし……ルイフォンに綺麗だって言わせてみたかった」
それも、口に出してみれば分かる。あたしの真実の気持ちだった。
あの馬鹿王子の第一印象は、『綺麗な男』だった。ディルツでは美貌の象徴とされる白い肌に、それよりなお白く輝く銀の髪、瞳の色は真冬の湖みたいなアイスブルー。おとぎ話の王子様そのものだと思った。
だからって、それでときめくことはない。自分自身がさんざん褒め倒されてきたせいか、外見は人間を表す大きな要素に思えないのだ。それよりもあの、軽薄な笑い顔が癇にさわった。
最初は嫌いだった。嫌っていることを隠しもしなかった。変に甘い顔したらつけこまれるって学習済みだからね。
それでもあいつにはちっとも効かなかった。ヘラヘラするばかりで昨日も明日も態度が変わらない。まるで最初からあたしに好かれようともしてないみたいに。
そのくせこんな狭苦しい工房に足繁く通って、居心地よさげに長居して、それでもあたしの仕事は絶対に邪魔をしない。気まぐれで嘘つきなイタズラ者を気取りながら、時々――ほんの一瞬だけ、どきりとするほど切ない表情をする。
何がしたいの? あたしに何を望んでるの。歯の浮くようなお世辞じゃなくて、なにかもっとあたしに言いたいことがあるんじゃないの?
あたしはだんだん悔しくなっていた。
だって、むかつくでしょう。あいつが来るたびこんなことをぐるぐる悩んで、まるであたしのほうがあいつのことを気にしているみたいじゃないか!
どうにか意趣返ししてやろうと思っていた。
そんなとき王女様からもらった口紅を見て、ひらめいた。これであいつをアッと言わせてやろう。とびっきりのドレスアップをして驚かせて、一度くらいあの嘘くさい笑顔をこわばらせてやる。
それだけ、だったんだけども……。
なによ、あの反応。
あたしを見つめて、ぽかんと半分口を開けてさ。
いつもの気障な飾りっ気など何もなく、言葉少なく呟いた。可愛いよ、だって。
そんなの……嬉しくて……「そっちこそ可愛いぞ」なんて、思っちゃうじゃないか。
あたしはハアと溜め息をつき、顔を上げる。鏡には、だらしなく蕩けた女の顔があった。うわっかっこわるい。眉毛はハの字だし耳まで赤いし、表情筋がゆるゆるだ。
うそでしょ? あいつのことを考えてるとき、あたしってこんなかっこわるい顔していたの?
いつからだろう。ずっと前からだったらどうしよう。ただぎゃふんと言わせたかっただけ――それも、言い訳だったとしたら、どうしよう。
信じられない、目を背けたい、逃げ出したい。だけど――
あたしは手を伸ばし、鏡に触れた。指に触れるのは固い硝子の板。触ることは出来ないけど、たしかにそこに、あたしの真実が映っている。
「……これも、あたしの顔なのね……」
あたしは静かに呟いた。
今日はもう休もうと、釦屋の工房から二階へと上がる。自室の扉を開けてすぐ、あたしはずっこけた。
「ルイフォン! なんでここで寝てるのよ!?」
あたしのベッドはルイフォンに完全占拠されていた。あたしの体に合わせた小さなベッドは、長身の成人男性ひとりで満員御礼だ。なんなら足りず、縁から足が飛び出ている。そんな状態で熟睡しているルイフォン。部屋の入り口から大きな声で呼びかけてみたが反応無し。おそるべし二日貫徹の疲労。いつも飄々としている騎士団長が、これほど無防備に寝潰れるのか。睡眠は大事だぞとノーマンに口うるさく言い聞かされたのを思い出し、今更納得した。
「あー……どうしよう」
きっと部屋を間違えただけだろうから、怒りはない。ベッドを占領されているのもまあいいわ、あたしがノーマンの部屋へいけばいいだけだから。けどあたしはいつも寝間着をベッドの上に置いていたのだ。あれはどこにいったんだろう。暗くてよく見えない。
あたしは今の服装を見下ろした。普段着だったらこのまま寝ちゃうけど、おろしたてのワンピースに変なシワをつけたくない。
――そうだ。今日はたしかよく晴れていて、月や星がとびきり明るいはず……。
あたしはベッドに近づいた。その向こうの壁には大きな窓があり、カーテンを開けると、部屋が一回り明るくなった。
そうしてベッドを見下ろすと、ルイフォンの体の下に寝間着を発見。おいてあるのに気付かず寝転がったのね。じゃあこのまま引っ張りだして……。
そう考え、前屈みになった直後だった。
「うぅん……」
ルイフォンが寝苦しそうに呻いた、次の瞬間、服を脱ぎ始めたのだ! 目はしっかりと閉じたままで、ジャケットをバサリと脱ぎ捨てる。
えっ!?
な、なんで脱ぐの? えっなんで!? 寝てるのよねコレ、寝ぼけてる? そりゃこんなカッチリした服では寝苦しかろうけどもなんで今? よりによってあたしが目の前にいる今っ!?
さらに彼はジャケットの下、複雑な手法で結ばれたスカーフを抜き取ると、首元からボタンをどんどん外しはじめる。むき出しになった鎖骨の下――男なので当然膨らみなど無いはずだけど筋肉だかなんだかで案外丸みのある胸元――いかん! これはいけないやつだっ!
あたしは反射的に飛びついた。開かれた襟を掴み、慌ててボタンを閉じ直す。脱がせてはならぬという気持ちで頭がいっぱいだった。ところがこの馬鹿王子ときたら、あたしがボタンを閉じたそばからまた開いていくのだ。おのれ、負けるもんか!
上から下まで、閉じては開けられる攻防が二巡して、三巡目に掛かろうとしたときだった。不意に肩に重みがかかる。ルイフォンが仰向けのまま、飛びつくみたいにあたしを抱きすくめたのだ。体が傾ぎ、足が浮いて、バランスを崩す。そうしてあたしは、顔面から彼の胸に捕らわれた。
「る、い……っ!?」
全身の血が、一気に沸騰したみたいだった。
ある種の覚悟をしてギュッと目を閉じる――けど、それは杞憂だった。ルイフォンはまだ眠っていたのだ。夢の中で抱き枕でも掴まえたつもりだろう、あたしを抱いたまま微動だにしない。すぐ耳元で、平和な寝息をたてている。
このやろう。
「ていっ!」
あたしはルイフォンの顎に頭突きを食らわした。ルイフォンは小さく「んが」とか言ったが、それだけ。むしろ腕の締め付けが強くなる。あたしは彼をボカスカ殴り、全身をジタバタさせて、どうにか抜け出そうとした。しかしこの男、細身に見えて案外力強いのね。腕一本がずっしり重くて持ち上げることも出来ないの。いや、あたしが非力なのか。あるいはどうにも力が入ってないのかな。
だんだんこっちが疲れてくる。休憩のつもりで脱力すると、ルイフォンの肩に頭が乗る。ちょうど枕と同じ高さだ。ほどよく弾力のある硬さも、体温も、なんか、心地良い。
そう思った途端、とろりとした眠気に襲われた。
……むかつく。そのままたいして抵抗もせず、目を閉じてしまうことに。
悔しい。このまま朝を迎えても、まあいいかとか思ってることに。
笑ってしまう。実は彼は起きていて、あたしを抱きしめたんじゃないかと、期待している自分に。
……やれやれ、である。
あたしはもそもそと体勢を調節した。諦めてしまえば、本当に笑っちゃうくらい寝心地がいい。一人で使っても狭いくらいのベッドなのに、なぜか全然、邪魔に感じないの。気が合わないとばかり思っていた男だけど、くっついてみると不思議とはまる。まるで最初からセットだったみたい。
――ねえ、ルイフォン。
あたしたちって、似てるよね。
王宮でのことはよく知らないけど、あなたの微笑みに嘘があるのはすぐわかった。作り物みたいに綺麗な王子様は、まさに作られたものだった。わかるよ。あたしもずっとそうだったから。
――ねえ、いつまでそうしてるの?
その仮面って、どうしても剥がせないものなの?
あたしみたいに開き直って、本物の自分にはなれないのかな。
王族の責務は田舎の男爵令嬢とは次元が違う。それはあたしも分かってる、だけど本当の本当に、どうしようもないのだろうか。
あたしはずっと、カラッポの雛人形だった。家のため弟妹たちのためでがんじがらめだった。逃れられない運命のなかにいて、どうしようもないって思ってた。でも人間ってけっこうしぶとく頑丈でさ、嫌なものは嫌だし、やっぱり夢を諦められないし、自分の本心っていうものに目を背け続けるにも限界があるみたいだよ。
……もしかして、あなたももう、限界なんじゃないの?
ルイフォンが寝返りを打ち、あたしは解放された。するとなんだか泣きたくなった。さっきまであった腕の重みと体温が恋しくて、あたしは自ら彼に抱きついた。
ああだめだ。こんなことなら寝間着なんか諦めるんだった。ベッドに近づくんじゃなかった。彼を泊めるんじゃなかった。家に入れるべきじゃなかった。出会わなければ楽だった。好きになんてならなければ、こんなに切ない思いをせずにすんだのに。
だけど、もう無理だ。このぬくもりを、わたしはもう、手放せない。
後悔と同時に諦めて、清々しい気持ちになってくる。
だってしょうがないじゃん。好きになっちゃったんだから。
――ねえルイフォン。あなたはどうなの?
あたしと違って、何もかも諦めることが出来ているの?
顔も知らないひととの政略結婚も、本当にどうしようもないのだろうか。
だったら……だったらさ。真面目な妹は、不誠実だとかって怒るかもしれないけどさ。
せめて一瞬でも、今このときだけでも、楽しくやればいいんじゃないの。
結婚という未来の無い刹那的な恋、それでいいよ。今日だけ楽しければいいってのはダメ? 今日を犠牲にしてでも明日のことを考え続けなければいけないの?
そんなことない。明日って、昨日にとっての今日なのだ。今日を楽しくしないと、明日もあさっても何も変わらないわ。
狭いベッドの上、向かい合って寝転がっている。やけに平和なルイフォンの寝顔……今夜そこにある幸せを、今このときだけでも堪能したい。目の前にいるひとを、心を砕いて愛したい。その気持ちを……あたしはもう、我慢できなかった。
つま先に力を入れて、マットの上で背伸びする。もとよりほとんど重なり合っていたふたりだから、ほんの数センチ近づくだけで事足りる。
あたしは無防備な彼の唇に、押し当てるだけのキスをした。
朝になって、目を覚ますと、ルイフォンはもう居なかった。夜明け前に帰ったらしい。成人男性ひとりぶんのベッドのへこみは、もうすっかり冷めていた。
店のカウンターには眼鏡が置かれていた。先日から預かって、とっくに調整を終えたものだ。あいつはこれを取りに来たはずなのに忘れていくなんて、さては本気で慌ててたわね?
あたしは笑って、彼の眼鏡を指でつついた。今度来たらからかい倒してやろうと思う。そしてこれを渡したら、あたしのほうからちゃんと言おう。
もう理由なんかつけなくても、いつだって遊びにくればいい。歓迎するわ。だけど手土産のお菓子は忘れないでねって。




