がまんできない④
ベッドは、ノーマンの寝床にしては小さい気がした。無造作に全身を倒れ込ませると、足の先がはみだす。でもまあ、寝られないことはない。それになんだか良い匂いがする。御年六十、熊族ヒト科みたいな爺さんのくせに、女の子の体臭みたいな香水使ってるんだなとぼんやり思った。
……寝転がると、自分が限界まで疲れ果てていたのを改めて自覚した。
アナスタジアのお節介は実際ありがたかった。ぶっきらぼうな話し方だけど、地はとても面倒見が良く、優しい人間だと思う。――自分こそ、たくさん傷ついてきたのに。
数年前、彼女は家のため、社交界では朗らかな笑顔を作り続けていた。僕はあれほど、上手に笑うことが出来ていない。
――あなたって嘘吐くのがヘタよね。
――おまえ、嘘吐くのヘタだよな。
まどろみのなかで二種類の声が重なった。ひとつはアナスタジア。もうひとつは、キュロス君だ。
あれは……あのセリフを言われたのは……いつだったかな……。
「おい、ルイフォン」
不機嫌な声で名を呼ばれる。教室間を移動する廊下、レザモンド学園二年目の春。去年より背が伸びたキュロスは、僕の前に立ち塞がっていた。
僕はにっこり笑った。
「やあ。なんだいキュロス君?」
「なんだその気持ち悪い呼び方……」
君がそうして、心地の悪そうな顔をするからだよ。答えない僕に、キュロスはさらに語気を強めた。
「おまえ、最近手を抜いてるだろ」
「なんのことかな? 順位が落ちたことなら、抜いた自分を誇りなよ。君、休日まで自学に励んでいたじゃないか」
「そうしないとお前に勝てないと思ったからだ。なのに今年度に入ってからのおまえときたら、テストの日に市場へ抜け出して、優雅にランチを食べてたって?」
「先週オープンしたワニ肉のステーキってのがどうしても気になってね。寮食はちょっと味気ないじゃない?」
「だったらせめてテラスじゃなく、奥の席でこっそり食えよ! 指導員が巡回してるの知ってるだろう!」
僕はヘラヘラ笑った。真面目に話せば話すだけ馬鹿を見る、飄々とした笑顔の仮面だ。こうして笑っておけば、先生たちは呆れて諦める。
だがキュロスは激怒して、僕の胸ぐらを掴みあげた。
「俺との勝負から逃げるのか?」
「……僕はもとより、勝ち負けとか順位なんて、興味ないんだ」
それは真実だった。
リヒャルトに言われる前からずっとそうだった。そう、前からうすうすは分かっていたんだ。家庭教師の表情や、採点基準のブレで、なにかがおかしいとは思っていた。
――五問中三問正解、あと一歩ですねルイフォン様。ライオネル様は全問正解されたから、次は四問正解を目指しましょう――
――五問全問正解? ええ、ああ……いえ、ここの文字は少し崩れすぎていて読みにくいので減点です。四問正解です――
――最近、ぐんぐん剣の腕を伸ばしておられますね。剣聖と呼ばれたライオネル様に迫るほど……。しかしあんまり急成長を望むと体を傷めます。これから三ヶ月、剣を握ってはいけません――
どうしても釈然としなくて、しだいに僕はやる気をなくしていった。
そんな違和感も、この学園に来てからは忘れていた。この男には負けたくない。僕は生まれて初めて、本気で勉強した。
その結果、悔しがるキュロスの顔が可笑しくて仕方なかった。……嬉しかった。
けど、今は――
「嘘を吐くなよ。俺にあれだけ張り合っといて、そんなわけないだろ」
「嘘じゃないよ。去年はただ……君にイジワルしたくて、イタズラしただけさ」
キュロスは黙って手を放し、立ち去っていく。
ひどく不機嫌な背中を、僕は無性に蹴りたくなった。そうすればきっと、彼は全力で殴り返してくるだろう。だけどそれは出来ないまま、ただ笑って見送る。
目は下弦の月の形。口元はお皿の形。
顔面にその形を、刺青のように刻みこんで。
それから、キュロスとはロクに口も利かなくなった。
それでも同室だったので、彼の立ち振る舞いは目に映る。
相変わらずの勤勉、努力家。特に経済学には十三の年ですでに一家言を持ち、成長したらあれを売買したいこんな商売がしたいのだと、教授と熱心に話し込んでいた。成績優秀、恵まれた体格でスポーツも剣技もなんでもこなす。
……なんだよ。ライバルなんかいなくても、ちゃんとやるんじゃないか。
僕はつまらない気持ちで、時々答案を白紙で出し、わざとヴァイオリンの音を外して過ごす。だって常に七十点を目指すより、ときどき百点ときどき零点を出すほうが簡単なんだもの。実力はあるのに、気まぐれでイタズラ好きなせいで不安定――それが僕の評価になった。
「本当、残念な王子様ね」
「王太子様はあんなに立派な方なのに、第三王子ときたら……」
多くの大人がそう言う。僕は笑って聞き流した。
「……目は下弦の月の形。口元は、お皿の形……」
呪文のように唱えながら、今日も明日も繰り返す。
春が終わり、夏が過ぎて――心地の良い、秋の夜だった。
「おい、ルイフォン」
低い、不機嫌な男の声で名を呼ばれる。
レザモンド学園の寮室だ。ベッドに寝転がっていた僕は、声のしたほう――隣のベッドで頬杖をついた、キュロスを振り向いた。
「なに? こんな夜中に」
「こっちのセリフだ。消灯からずっとモソモソ動いて、うるさくてこっちまで眠れない」
「あ、ごめん」
反射的に謝ってから、口を押さえる。
しまった。とうとう感染ってしまった……。
実はこの男、存外素直な性格らしく、庶民の同窓生や出入り業者にまで詫びや礼を簡単に言うのだ。プライドが無いのかと心から馬鹿にしているのだが、ずっとそばで聞いていると釣られて僕も――くそっ。ほんとこいつ嫌いだ。
キュロスは寝返りを打ち、僕に背を向けた。壁のほうを向いたまま、ぼそりと言う。
「よく、そうして夜更かししてるよな。王宮が恋しいのか?」
僕は驚いた。キュロスの口調が、からかいではなく真剣に、心配しているように聞こえたから。
僕はハハッと軽やかに笑った。
「ああ、君と違って僕は育ちが良いからね。水鳥の羽毛を使った枕でないと寝付きが悪いんだよ」
キュロスは一度、「そうか」とだけ言って黙り込んだ。僕も背を向け、彼が寝付くまでなるべく静かにするよう努めた。息を殺して、死んだように。
いくばくもしないうちに、またキュロスの声が聞こえた。
「おまえ、嘘吐くのヘタだよな」
僕は横になったまま、何度か深呼吸した。
心を安静にするのに必要な作業だ。ゆっくり、吸って、吐く。
いや違う、吐くのが先だ
運動の授業でそう指導された。深呼吸はまず吐いて、それから吸う。胸の中に溜まった空気を全部吐き出して、それからでないと、新しく吸うことは出来ないって――
「――僕、不眠症なんだ。昔から」
僕は言った。キュロスに背を向けたまま、独り言みたいに勝手に喋った。
「王宮でもずっと。僕の部屋には鍵がかけられない。夜明けと同時に侍女達が入ってきて、朝の支度を始める。寝ている僕の健康状態を確認して、微熱でもあれば医療班が押し寄せてくるんだ」
「そうか」
短い相槌がきた。
「王宮って、窮屈だな」
「……兄妹達はみんな気にしない。おまえは神経質だって笑われたよ。だから誰よりも早く起きることにした。夜明け前、空が少しでも色が変われば目が醒めるようになった。……それからは……今日みたいに月や星が明るい夜は、眠ることも出来なくなった」
「そうか」
また短い返事。それきり黙り、眠りに入ってしまったらしい。僕は音を立てずに嘆息すると、掛け布に顔を埋めた。
そうして全身を布に隠せば、少しくらいは安心できた。
再びキュロスが声を出したのは、結構な時間が経ってからだった。
「俺は、朝の支度は自分でやる。侍女は朝食を持ってくるだけだ」
「……いいねそれ、羨ましい」
「去年からな。それまでは平気でくつろいでいたんだが、突然真顔で言われた。『坊っちゃんもようやく毛が生えましたか、御目出度う御座います』と」
ぶっ――布の中で吹き出す。彼は更に続けた。
「『別に、私としてはいつまでも可愛い坊っちゃんのオムツを替えてさしあげるのもやぶさかではございませんが、異性相手に取るべき距離感というものがあります。坊っちゃんの将来のためにもそろそろ学習してくださいませ』――だと。そんな風に言われたら、急に恥ずかしくなった。……こういうのはアレだな、相手が恋愛対象でないからこそ、ものすごく居心地が悪くてダメだな……」
「そりゃ、そう、だ、くくっ」
「考えてみれば侍女だって嫌だよな。恋人でもない男の寝室に、まだ暗いうちから入っていくなんて怖いだろう。男の俺が思いやるべきだったんだ」
……その侍女さんはそんなことないような気がするけど……でも、確かに。侍従が主に押し倒されたなんて話も珍しくない。そして王宮に勤める侍女はそれなりの令嬢で、婚姻前のハク付けにと来ている場合が多い。まんがいちにでも、間違いがあってはいけない……。
「いっそ裸で寝るって宣言したらどうだ?」
寝ぼけた声で、キュロスはそんなことを言った。
「そうでなきゃ寝られないとか言って。そうしたらノックも無しに入ってくるとか、不用意にシーツをひっぺがされることはなくなるだろ」
「…………そうだね。いいなそれ。そうしよう」
僕が頷くと、彼は満足したのか、枕を直すなりスウスウと寝息を立て始めた。
僕は試しに寝間着を脱いでみた。素肌にシーツの感触が心地良い。
「……うん……いいなこれ……」
僕は目を閉じた。
月と星の明るい夜、その空に朝日が昇っても、僕は目を覚まさなかった。
そして、
「ああああ遅刻だ! 朝礼もう始まってるっ!」
「急げルイフォン、ウェスラー先生に尻を叩かれるっ」
「キュロス君のせいだぞ、責任とって僕の分も叩かれろ!」
「むしろおまえのせいで俺まで寝坊したんだ! って、いいから走れ走れ!」
僕たちはまた怒鳴りあいながら、学園の廊下を駆けていった。
あれから十年以上。僕たちはずっと、並んで走ってきた。
三年目になると科目が増え、講義を選択できるようになった。僕は兄が取ってなかった科目を狙い、たいてい『最優』を取った。もちろんキュロス君もだけどね。
特に伸びたのは模擬剣技。兄はかつての騎士団長じきじきに教え込まれていたから、学園ではやってなかったらしい。一年後には講師すら、僕の剣を止められなくなった。いや、たった一人だけ。
「ルイフォン、対戦するぞ」
キュロス君が手招きする。僕は不敵に笑った。
「競走では後れを取ったけど、剣なら絶対負けないよ?」
「今日こそ俺が取る。実は新しい必殺技を考えたんだ」
「それ先週も言ったじゃないか。いいよ、なに賭ける?」
「商店街のドネルケバブとドンドゥルマ」
「よし、乗った」
僕が力一杯振った剣を、彼は力一杯で弾いてくる。
――キュロス君。君と出会えて良かった。これからも仲良くしていて欲しいと言ったら、照れくさがって逃げるかな。尊敬してると言ったら、冗談だと思うだろうか。
憧れてるなんて言ったら、笑うだろうか。
笑っても良いよ。卒業してもずっと一緒に遊ぼうよ。そうしていれば、僕はずっと、少年のままでいられる気がするんだ。
――耳の裏を、尖った爪がくすぐる。
香水がたらふく塗られているのだろう、手首が、横顔を通過しただけで目にしみた。
「あなたがディルツの第三王子? 『男』というにはまだ早いけど、とても……綺麗な顔ね」
フラリアの姫は艶然と微笑み、僕の耳元に唇を寄せ、囁いた。
「好みよ」
僕は困惑して、背後の兄を振り向いた。兄は冷たい目で僕を見下ろす。
「フラリアの姫をおもてなししろ。おまえの部屋で、丁重にだ」
「……ぼ……僕は、先日シャイナの姫との婚約が結ばれたのでは? それにミレーヌ様も……。異性の私室でもてなすのは、問題があると思いますが」
兄は目を細めた。
「では、このディルツのためにおまえに何が出来る?」
僕は答えられなかった。
眠い、眠れない。眠い。
どろどろした紫色の雲の中、ふと知らない匂いを嗅ぎ取った。いや、初めてじゃない。僕はこの香りを知っている。かすかに甘く爽やかな花の――スミレの匂い?
つい最近に、誰かがこの匂いを……。
「――アナスタジア?」
自分の呟く声で、僕は目を覚ました。
頬に触れる枕の感触で、ここが王宮ではなく釦職人の寝床であり、泊めてもらったのだと思い出す。もう夜明けが近いのか、部屋はすでに薄明るい。
僕はベッドに横たわり、胸元にアナスタジアを抱いていた。
……。…………。
………………ええと。
……二日ぶんにしてはまだ少々足りない睡眠時間でも、視力と、正常な判断能力くらいは戻っていた。とりあえず状況を確認する。
僕は裸で、肩に、アナスタジアが頭を乗せていた。いわゆる腕枕である。アナスタジアは目を閉じて、くうくうと平和な寝息を立てていた。僕の胸に頬を寄せ、体を丸めて眠っている。
彼女は寝間着ではなくワンピース、昨日着ていた服装だった。
しかし僕は裸。僕も、服を着たままベッドに入ったはずだが。
そしてここはノーマンの部屋――だから――ええと。
……構図としては、アナスタジアが僕の寝込みを襲ったということに……?
「んなわけあるかい」
僕は天上を仰ぎ、ハハッと笑った。
きっと何か、間抜けな事故が起きたんだ。えーと例えばそう、アナスタジアが部屋を間違えて……いやきっと間違えたのは僕だ。ここはノーマンではなく、アナスタジアの寝室だったんだろう。
夜、仕事を終えたアナスタジアは、僕に気付かずベッドにダイブして……いやそれも不自然だな、これもたぶん僕がやらかしたやつだ。僕を叩き起こそうとして、寝ぼけた僕に捕まったとか。そしてそのまま彼女も力尽きたとか。
僕が裸なのは謎だが、とにかくこの同衾は彼女の意思じゃない、絶対に――
でなければ……そうでないとしたら。
……このまま、抱きしめてしまってもいいってことになる。
僕は横を向いた。すぐ目の前にアナスタジアの顔がある。警戒心ゼロの暢気な寝顔は、すべてを受け入れるつもりとも取れる。
昼間の言動を考えても、それは、ありえない妄想ではないかもしれない――けど。
たとえそうだとしても、無理だ。
僕は笑った。
アナスタジア……僕は、彼女を尊敬していた。キュロス君と同じように。
しがらみだらけの生家を捨て、夢を叶えるために、まっすぐ走っていく後ろ姿に僕は惹かれた。
それは男女の色恋などよりずっと強い、憧れという感情だった。
僕に出来ないことをする、君のようになりたかった。
君は君のままでいてほしいと思う。僕の腕の中では、それは叶わないだろうから。
僕はそうっと、アナスタジアの頭を持ち上げ、腕を抜いた。起こしてしまわないよう慎重に、体を起こしベッドから降りる。
床に掛け布と僕の服が落ちていた。彼女に布を掛け、服を着る。
ドアノブを握ったところで、ふと足を止めた。
「一宿の礼として、挨拶くらいはして出た方が良いよな?」
ベッドサイドへ戻り、寝ている彼女を覗き込む。
本当に安らかな寝顔だった。こうしてじっとしていると、本当に作り物みたいに整っていた。起きているときはよく動く視線も口も、指も。
気が付くと僕は、その手をニギニギしていた。
「――はっ! 僕は何を?」
自分で驚いて手を放す。違う、僕は声をかけるために近づいたんだ、触る必要はない。
「あ……アーニャ。起きてー……」
なぜか超小声で囁いてしまう。当然、ぴくりともしないアナスタジア……の、ほっぺたを、抓む。手のひらで揉むように握る。むにむにしている。とてもむにむにしている。
「――はっ!?」
慌ててバンザイし、飛びすさる。
「……んん……」
アナスタジアが呻いた。目はしっかり閉ざされているので、ただの寝返りだ。ベッドサイドに佇む僕の方を向いて、掛け布の中で身じろぎしている。……寒いのかな? どうしよう、毛布か何かないかな?
二の腕をさするアナスタジア。僕は思わず、肩ごと掴んで温めた。僕の手の温度で、アナスタジアは表情を蕩かせ、また深い眠りに落ちていく。
ほっ、と安堵――してる場合か!
なにさっきからちょいちょい触ってるんだ僕はっ!?
部屋から飛び出し、階段を降りようとして、扉をちゃんと閉めたか気になって戻る。顔に髪がかかってるのを除けてやって、ついでに耳たぶを抓んで、また出ていって――
「ああ、あああもうっ!」
僕は頭を掻きむしった。そしてその勢いで身を屈め、彼女に覆い被さるように抱きしめた。ぎゅっと強く腕の中に閉じ込めて、もう逃げ場が無いくらいに自覚する。
――ああ、そうだよ。可愛いよ!
もう思いっきり好きになってるよ!!
尊敬とか憧れとか、崇拝じみた尊重をしたいってのも真実だよ、でもそれはそれとして可愛いんだよ。当たり前だ、アナスタジアは明らかに可愛いのだ。もし性格最悪で大嫌いでも可愛いことに変わりないのに、中身まで好きになったらどうしようもないだろう!?
触れたい、抱きたい、連れて帰ってしまいたい。
離したくないし、離れがたい。だからダメだ。これ以上触れてはいけない。
どうせ失うことが決まっているんだから。
アナスタジアから手を離すとき、皮膚が剥がれて、肉ごと持って行かれたような気がした。
きっともう限界なんだ僕は。だけどまだ我慢をし続ける。
僕には、ディルツ王国の未来がかかっているんだ。壊すわけにはいかない、たとえ僕が壊れたとしても。




