がまんできない③
一度目よりも、ずいぶん短い時間で降りてきたアナスタジアは、確かに着替えていた。鮮やかなブルーのプリンセスドレスから、白い綿のワンピース――すなわちまた女性の服である。
その格好で、洗顔のついでに髪まで洗ったらしい。布でワシワシと適当に拭きながら、リビングテーブルへと戻ってきた。
「夏も暮れてきたわねー、水が冷たいわ」
「……そうだね」
相槌を打つ僕。いやそれより、なんでまたスカートなんだよ。
「お湯を使った方が良いと思うよ。風邪ひかないようにさ」
そもそもなんでドレスアップして見せたんだよ。
「そうねえ――ッくちっ」
「はは、言わんこっちゃない」
「うー、あったかいお茶でも淹れようっと。ルイフォンも紅茶飲む?」
その言葉が聞きたかった、ってなんだよ。僕に綺麗だと褒められたかったってこと? そしてくしゃみが可愛いぞ。
「――ルイフォン?」
「ああ、紅茶。紅茶か、いいねもらうよ。君が美味しく淹れられるのなら」
「ふふん、実は紅茶はちょっと自信があるんだ。ほらあたし、しばらくグラナド城で厄介になってたでしょ。そのときミオさんに教えてもらったの」
容姿を褒められるなんて慣れきったものだろう、それこそお茶を淹れるよりもずっとたくさん、美しいと言われてきたはずだ。彼女と対面し、そう思わない者はない。
ましてやそんな風に、自然な笑顔を向けられて……舞い上がらずにいられる男など、この世のどこにも。
紅茶がテーブルにセッティングされていくのを、じっと見つめる。いや見つめていたのはカップではなく、手際よく動くアナスタジアの手だった。
小さい。とにかく小さい。柔らかそう、握ってみたいというよりもまず先に、それが僕の感想だった。
「いただきます。うん美味しい」
手が小さい。……とても、とても小さい。とても柔らかそうなのでとても握ってみたい。
「ねえルイフォン、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「なんだい?」
「チュニカさんが言ってたの。男のひとが、真顔で黙ってどこかを見つめているときは、大概いやらしいことを考えているから気をつけてって。本当?」
僕は盛大に紅茶を吹き出した。
すぐに立ち上がり、ポケットから絹のハンカチーフを取り出して、テーブルを綺麗に拭き上げる。濡れた面を内側に畳み、再びポケットへ。椅子に腰を下ろす。紅茶のカップを傾けながら、僕は言った。
「うそだよ。ところでこのお茶おいしいね」
「いいけど、カップもうからっぽよ」
僕は自分で、ポットからおかわりを注いだ。
何事もなかったように飲む僕に、アナスタジアはクスクス笑う。
そして驚くべき事を言った。
「前から言おうと思ってたけど、あなたって嘘吐くのがヘタよね」
うっかりまた吹き出すところだった。少なからず動揺した口元をカップで隠す。
「……そうかい? 掴み所が無いとかなに考えてるのか分からないとかよく言われるけど」
「最初はね。でも長い時間いっしょにいたら……うん、むしろ分かりやすいかも。伯爵様なんかもそう言わない?」
「……昔一度、言われたことがあるな」
アナスタジアはイジワルっぽい笑みを浮かべた。頬杖をつき、僕の顔を覗き込んでくる。
「伯爵様と出会ったのは、十年以上前だっけ?」
「ああ、学園に入ったときからだから、もう十二年だね。初めて会ったときには、こんなに長い付き合いになるとは思わなかったなあ」
「第一印象、悪かったの?」
問われて、僕はククッと笑った。
悪いも何も、最悪だよ。殴り合いの喧嘩をしたんだから!
急に笑い出した僕を不思議そうに見つめるアナスタジア。どうしよう、これ話してもいいかな。以前、マリー嬢にこの話をしたときは顔を青くして驚いていたけど、アナスタジアなら案外面白がるかもしれない。
キュロス・グラナドとの思い出話――どこから話すのが、彼女をいちばん楽しませることが出来るだろうか。
僕は目を閉じて、古い記憶を呼び起こしていった。
――ディルツ王国立レザモンド記念学園。
市井の学校のように、生活に関わる読み書き計算を教わるわけじゃない。王侯貴族の社会でつつがなく過ごすための教養、政治経済のための知識全般、高等数学や語学、帝王学。
貴族の子なら普通、ほとんど学習を家庭教師で賄う。しかしレザモンド学園はそれ以上の教育と、何より他の生徒たちとの交流――競争させつつ、人脈を作ることが出来るのだ。
当然、生徒は上級貴族ばかり。
王家の次に高位の家がグラナド公爵、そしてその嫡男、キュロス・グラナドだった。
褐色の肌に、艶やかな漆黒の髪、そして闇夜でも輝く緑の瞳――異国人を母親にもつ彼は、明らかに王国人とは違っていた。今は正妻に格上げされたといっても元は異国の流浪人、彼は庶子に過ぎないとして、見下す人間も多くいた。
だけど僕は彼を評価していた。
――グラナド公爵の息子。今から懇意にしておけば、将来、王家のいい駒になる――
そう考えて、気さくに話しかけた。「今日は良い天気だね」と同じく、絶対に同意がもらえるであろう、共通の話題で。
「来年度から庶民の特待生枠が出来るらしいよ。臭くて息がしづらくなるから、食堂には出入りしないでほしいよね」
彼はジロリと僕を睨み付けた。自分を侮蔑する連中に対するのと、全く同じように。
「庶民も異国人も、同じ物を食べ風呂に入り、寝て起きれば同じ匂いになる。王族だって同じだ。臭いやつも馬鹿なやつもいるさ。おまえのようにな」
「……なっ……!?」
言葉を無くした僕に、キュロスはすぐ背を向けた。美術室へ続く回廊を、まっすぐに進む後ろ姿――その堂々とした背中に、無性に腹が立った。
僕は彼を追い、肩を掴んで無理矢理振り向かせた。そのまま殴りつける。不意打ちのおかげか綺麗に拳が入った。よろめいた彼を鼻で笑う。
「誰に向かって口を利いている? 僕はディルツの第三王子。僕に逆らったらおまえなんてこの学園、いや王国に住んでいられなく――ぐぎゃっ」
突然の衝撃で倒れ込む。目の前がチカチカする――まさか、殴られた!?
「先にひとを殴っておいて、殴り返されたら驚くのか。変わったやつだな」
フン、と鼻を鳴らし、また歩き始めるキュロス。僕はすぐに立ち上がり、全体重を乗せた跳び蹴りを入れた。今度こそ本気で不意打ちだったのか、キュロスはきもちいい勢いで倒れた。見下ろし、指さして笑う僕。その足首を掴んで持ち上げるキュロス。僕は逆さづりになったまま、彼の肩に踵を食らわす。痛みに顔を曇らせ、キュロスは僕を庭へブン投げた。僕は庭に落ちていた石を拾って投げた。受け止められて、投げ返された。
彼は僕より少々腕力と体格があったけど、まだ手加減していた。僕の方は本気だ。そのぶん喧嘩は拮抗した。殴る、蹴る、引っ張る、噛みつく。担任のミセス・ウェスラーが通りがかるまで、僕たちは取っ組み合いをしていた。
その後、少し遅れて入った音楽の授業では、二人ともボロボロの格好でハープとヴァイオリンを弾いていた。お互い背を向け合って、目を合わせもしないで。
それ以来、お互い顔を見れば喧嘩。後ろ姿を見かけても喧嘩。
「おい、ついてくるなよ」
「寮が同室なんだから仕方ないだろ」
「なんで僕より先に便所を使った?」
「おまえの後が嫌だからだ」
「よくも俺のチョコレートを食ったな、最後のひとつだったのに!」
「寮にお菓子は持ち込み禁止だろ。ウェスラーが見回りに来たから隠してやったんだよ」
「口の中以外にも隠すとこあっただろーが!」
「おやおやキュロス君、その解は間違えてるよ? 問題文の言い回しに騙されたな、注意力散漫だね」
「え、ああ本当だ。ありがとう」
「……どういたしまして?」
ここまでを、かいつまんでアナスタジアに聞かせると、彼女は高らかに笑った。
「なんだ、しょっぱなから超仲いいじゃん!」
「どこがっ!?」
僕は断固否定した。
「とにかく、半年くらいはずっとそんな感じだったよ。さすがに殴り合いまではしなかったけど、テストもどっちが一点高いの低いの、走るのが一秒早いの遅いのって。ずっと、毎日競争して、勝った負けたって一喜一憂して――」
共同生活半年目、秋の暮れ。
「いい加減うんざりだ、あいつとの同室を解除してください!」
僕はそう、ウェスラー先生に直談判した。ウェスラー先生はダメですと即答し、かすかに笑った。
「ルイフォン。当学園が、なぜ全寮制なのか知っていますか? あなたのように身分の高い者や、この学園からほど近いところに家がある子でも、週三日は強制ですね」
「……競争のため、ですか?」
「半分正解。それは功を奏しているようです。あなたたち二人の成績は拮抗し、三位以下からは群を抜いています」
「では、もう半分は」
「気が合わない、嫌いなヤツと、それでも一緒に居なくてはいけないという状況作りのためです。無理に好きにならなくても良い。それでも快適に過ごせるよう、最低限の付き合い方を覚えなさい。少しでも仲良くなれるよう、相手の良いところを探しなさい。それはあなたたちが大人になったあと、おおいに役に立つのだから」
ウェスラー先生はそう僕に言い聞かせた後、深く頷いた。
「在学中に親友になれたなら、それは生涯続く縁となるでしょう。いつかあなたが挫けたとき、ひとりではどうしようもない困難を抱えたとき、泣き叫ぶこともできないとき――きっと彼は、あなたを助けてくれますよ」
……ウェスラー先生の言ったことは、今でもあまりよく分からない。
あれからキュロス君とは仲良くなり、付き合いも長くなったけど、助けを求めたことなどなかった。
公爵令息といえども、王族の僕より身分は下だ。政治に関わらない彼に、助けを求めるわけがない。大体、僕は何も困ることがない。家柄と経済力はもちろん、容姿にも学力にも恵まれて、不自由なことなど何も無いのだから。
――そう、何も困ってない。求めていない。キュロス君に出来ることなど何も――誰も――
「――何だこの成績は!」
耳が痺れるほどの大声で、次兄が叫ぶ。
王宮に帰省したときだ。入学して初めての年度末、「おかえり」よりもまず最初に、成績表を見せろと言われて出した。六つの科目に『最優』、『優』が二つ『良』が一つ。『不可』はもちろん『可』も無い。学年順位はキュロスも制して一位。リヒャルトはこれの何が不満なんだ?
「すべて『最優』を取れってことですか? 無茶言わないでくださいよ。リッキ兄さんだって大した成績じゃなかったでしょう」
「おれはいいんだ。おまえもいいんだよ」
……? 意味が分からない。
その時、リヒャルトの背後から、長兄ライオネルがやってきた。長兄は数年前から父の仕事を手伝って、いつも忙しくしている。移動中にたまたま通りがかったらしい。従者に指示を出しながら、ついでのように僕に問うた。
「年度末か。成績はどうだった、ルイフォン」
「ええ、『最優』が六――」
「ほとんどが『優』と『良』で、『最優』は三つだけです!」
リヒャルトが遮る。なに!? 声を上げるより早く、ライオネルは鼻で笑った。
「そうか。悪くはないが、王族として優秀とは言いがたいな。私は当時五つ『最優』を取った。学友と遊ぶのは楽しいだろうが、やるべきことはやらないと落ちこぼれるぞ」
「はい、よく言い聞かせます! とはいえライオネル兄さんに敵うことはないでしょうが」
またリヒャルトが答える。ライオネルは機嫌良さそうに微笑んで、仕事に戻っていった。その背中を見送ってから、リヒャルトは息を吐く。僕を睨み、剣呑な声で言った。
「次期国王の威光を曇らせるな」
僕は、それですべてを悟った。
真剣に頑張ってはいけないんだって。
「……フォ……ルイ――ルイフォン? ルイフォン!」
ぱんっ、と軽い衝撃音で、僕は目を見開いた。ぼんやりした視界には、痩せた教師でも褐色肌の少年でもなく、短い金髪の美女がいる。
「あれっ?」
「なに、話してる途中で黙り込んじゃって。目まで閉じてたわよ」
「えっ、あ――ああ……あれ? なんか、夢を……」
「もしかして寝てた?」
どうやらそうらしい。頷くと、アナスタジアは一度笑ってから、眉を寄せた。
「あんた、もしかして体調悪い? 来たときからなんだか疲れた顔してた。時々ぼーっとしたり、ろれつが回らなくなってるわよ」
「いや、ただ二日徹夜で、眠いだけ……」
「二日! 徹夜!? 大変じゃないの!」
アナスタジアは思いのほか大騒ぎした。僕の腕を引き、無理矢理立ち上がらせてくる。僕はまだぼんやりする目元を抑えながら、とりあえずフラフラと歩き出した。
「そういえば長居してるよな……僕帰る。おじゃましました……」
「そんな状態で馬に乗る気? だめよ、うちで仮眠を取っていきなさい」
「……いやそんなわけには……気をつけてゆっくり歩かせるから平気……」
「だめったらだめ。他人を轢くわ。もうなんでもっと早く言わないのよ」
ずっと年上のひとみたいな言い方だった。そういえばアナスタジアは『お姉ちゃん』だったなと思いながら、手を引かれてフラフラ進む。
う……たしかに、これはダメだな。眠気ががまんできない次元まで来てる。
階段のそばまで来てから、ふと違和感を覚えて振り返る。
「アナスタジア。もう夕方だから、僕きっと朝まで寝ちゃうよ」
「いいわよ、それで」
「……君はどこで寝るの」
僕に問われて、アナスタジアは一度きょとんとした。それから赤面し、怒った。
「あたしは自分の部屋に決まってるでしょ! あんたはノーマンの部屋!」
「ああ、そう……そういうこと」
「当たり前よ馬鹿。ほらさっさと階段上がって、上がった先を右に曲がったら廊下に扉がみっつあるけど進行方向で左手側に二つ並んでるほうの向かって右側があたしの部屋だから、その横で寝てね。おやすみ!」
「……おやすみ」
とん、とん、とん、と階段を上りながら、首を傾げる。
……右……の……左? なんだっけ?
あかん、前後編くらいで終わるつもりだった章なのに筆が伸びすぎる。果てしなく書いてしまう。
すいません、書かせて下さい。




