がまんできない②
それからアナスタジアはやけに上機嫌だった。ケラケラ笑いながら僕から離れると、やりかけの作業に戻り、手早く終わらせてすぐ立ち上がる。
伸びをしながら僕を振り向き、
「もうお昼ね。ごはん行こっか」
「行く? 外に?」
「そう。あなたお腹空いてないならお茶だけでも付き合いなさいよ。奢るわ」
「えっ、いやぼくも昼食まだだし、奢りならこっちが――」
という返事を待つこともなく、アナスタジアは帽子を被り、外靴に履き替え始めている。
この職人のタマゴは基本的に動作が速い。人より小柄で歩幅が狭いのを取り返すかのごとく、いつも小走り気味なのだ。子ネズミのようで可愛いと密かに思っているのは内緒。たぶん怒るだろうから。僕が何時間でも飽きずに見ていられるゆえんである。
かといって短気でもない。僕がマントを付け直すのを、決して急かしたりはしなかった。
王都を南北に貫く中央市場通り、もといた職人街から南へ進むと、食べ物の屋台群が見えてくる。ちょうど昼時。あたりは買い物客がごった返していた。
僕は眉根を寄せた。
「人が多いな……ぶつかりそうだ」
「市場の醍醐味みたいなもんでしょ、なにを嫌そうに。あなたもこのへんは来慣れてるんじゃないの?」
問われて曖昧に笑う。僕が危惧したのは自分のことじゃなくて――
前を歩きながら、アナスタジアは独り言みたいに話す。
「この間、イイカンジのお店を見つけてさ――」
と、その瞬間。真正面から中年男が突進してきた。女性としても小柄なアナスタジアは、男の視界に入らない。二人は激しく衝突した。
「あっ!」
倍以上の体重差で後方に吹っ飛ぶアナスタジア。腹肉を揺らしただけの男が怒鳴る。
「なんだぁ痛ぇな坊主。気をつけろ!」
――えっ!? そっちがぶつかってきたんじゃないか!
一瞬で頭に血が上り、僕が前に出るよりも先に。
「はぁっ? てめぇこそ前みて歩いてなかっただろうがよっ!」
アナスタジアが男以上の声量で即、怒鳴り返した。男は一瞬だけたじろぎ、そして怒りの表情になった。後ろの僕が連れだとは思わなかったのだろう、少年を見下ろし、野太い声ですごんでみせる。
「威勢がいいな。この俺とやりあおうってか? 良い度胸だ、かかって来――」
「いや勝てるわけねーだろ、おとといきやがれ!」
「……んっ?」
疑問符は、僕と男が同時に浮かべた。
発言したアナスタジアはむしろ胸を張り、教師のような姿勢で説く。
「見りゃわかるじゃん、オイラがオッサンよりも全然弱いってことくらい。ホラどうだいこのちっちゃなお手々、生まれたての子猫のようにちっちゃくてプニプニだろうが。イマドキ白魚だってもうちょっと逞しいぜ」
「んあ……ああ、まあ」
「そんなか弱いオイラが短い足でオイッチニサンシと日進月歩、三歩進んで二歩下がるとがんばって歩いて進んでたってのに、オッサン魅惑のマッスルボディでブッ飛ばしといてそりゃねえや。けなげに生きてるってのにヨォ、可哀想に」
「……おう。うん」
「だよな。だからここはオイラの顔に免じてオッサンのほうがオトナになろう? 幼気な少年に道を譲ってあげようじゃないか」
「うん? んん?」
男は二度三度首を傾げて、やっと状況を飲み込めるとブッと激しく吹き出した。天を仰いで大笑い。そして、なぜか得意げなアナスタジアの肩をバシンと叩くと、
「ああ俺が悪かったよ、確かに不注意だった。この市場にお前さんみたいなチビは珍しいからな、今度からは下も見て歩くようにする」
「そうしてくれたら助かるよ。ありがとうおじさん、オイラもごめんね。バイバイ」
両手を振られて、男はまた吹き出した。すっかり眉を垂らして、ちゃんと「バイバイ」しながら離れていく。
僕はポカンと眺めるだけ。アナスタジアは帽子を直し、小さく息を吐く。
そして、
「――でね、その店ってのに一回行ってみたかったんだけど、あたし一人だと入れなくてさ」
何事もなかったかのように話しながら、歩みを再開したのだった。
連れてこられた店は、いわゆる喫茶店だった。本当に普通の店である。怯えるほどガラが悪いわけではなく、尻込みするほど高級すぎるわけでもない。一昔前のように女人禁止ではないし、それでいうとアナスタジアは男装している。なぜ「一人で入れない」のだろう?
「あっカレー味ソーセージがある。あたしこれ好き」
注文を決めるのも早い。ルイフォンはどうすると聞かれたので、同じ物にすると答えると、やはりすぐに手を挙げて店員を呼び――はせずに、黙ってそうっと手を下ろした。
……?
「……の、飲み物はどうしようかしら」
「ああ、そうだね。黄金の組み合わせといえばグリーンビールだけど、パンと一緒に食べるなら甘いコーヒーでもよく合うよ」
「じゃあそれで」
アナスタジアは頷いて、今度こそ注文をするべく手を挙げ――そのまま黙って俯いていた。
なんとなく察して、僕は半眼になった。
「もしもしアーニャさん、どうしましたか?」
「……いや……店員さん、今ほかのテーブル掃除してるからさ」
「声だけかけておけば、少々お待ちくださいって言ってくれるさ。認知されなきゃ永遠に注文取りになんて来ないよ?」
ううううう、と野良犬のような唸り声を上げるアナスタジア。完全に理解した僕は、両手で口を押さえた。そうしないととんでもない大声で叫ぶところだったのだ。
だって信じられない。うそだろ? この男爵令嬢、店員を呼べないのか!
「――ぶふっ」
塞いだ手の隙間から空気が漏れる。だ、だめだ我慢できない……アナスタジアは眉をつり上げた。
「しっ、仕方ないでしょ。シャデラン領で外食したことなかったし。職人街の屋台なら、目の前にあるもの指さすだけだし……」
小さな声で、早口で言い訳してくるが僕は笑いをこらえるのに必死、返事も出来ないでいると、頭をバシバシ叩かれた。それでも止まらない僕。
「釦屋のお客さんだって、イラッシャイマセだけ言えば用件はあっちから言ってくれるわけで……何よもういつまで笑ってんの!」
「や、だって、君。さっきコワモテの大男にあれだけ威勢良くタンカを切っておいて」
「アレもあっちから絡んできたでしょっ。ていうかあたし、男のひとに自分から話しかけたことないの、黙って立ってただけ。背中向けてるひとに、声をかけるのは……な、慣れてないのよ」
なるほど、なるほど。だから一人では来れなかったんだな。
僕は笑顔のままだったけど、彼女を馬鹿にして笑ったのではなかった。胸の中に、ふんわりあたたかな喜びが広がっていた。
とても純粋な評価――ああ、可愛いなという感想。
そしてその同伴に、僕を選んでくれたこと。僕にはもう何度も、話しかけてくれていること。
「……嬉しいな……」
本音がぽつりと漏れる。アナスタジアは眉をひそめ、僕から体ごと顔を背けた。そして今度こそ真っ直ぐ真上に手を挙げて、
「――こんにちは! ごはんを食べさせてください!」
そう高らかに宣言し、また僕を悶絶させた。
二人で無事に昼食を終えて、また工房へ戻る。
いつものアナスタジアなら、ここらで「いつまでいる気? いい加減出て行ってよ」などと言う頃合い。それを聞いて帰ろうと思ったが、なぜか彼女は、僕を引き止めた。
「ちょっとだけ待って、くつろいでて」
言われるまま、リビングチェアに腰を下ろして待つ。いつもの通り、小動物の足取りで二階へ上がっていった彼女は、なかなか降りてこなかった。
「……なにしてんだろ?」
独り言といっしょに大きな欠伸をひとつ。
……眠いな。食後の昼下がり、心地良い残暑の風に瞼が重くなる。そういえば二日徹夜してるんだったと思い出すと、いよいよ眠気に襲われた。
テーブルに頬杖をつき、欠伸との連戦が始まった。おおむね負ける。まずいなこれ、本当にこのまま、居眠りしてしまいそうだ……。
――と――考えている間に、本当に数秒、眠っていたらしい。
まどろみの中ふわっと甘く爽やかな匂い……スミレの香りを嗅ぎ取って、僕は目を開いた。
そこにアナスタジアが居た。視界がいっぱいに埋まるほど近く、僕の顔を覗き込むようにしている。僕は一気に覚醒した。
「あ、アナスタジア。その顔っ……!」
そう、アナスタジアの顔が変わっていた。いや別人になったわけじゃない。ただ化粧をしただけだ。甘やかなピンク色で飾るのではなく、もとの顔立ちをより魅力的に引き立てるシャープなメイクである。
変わったのは顔だけじゃなかった。服装も……ドレスアップしている。もちろん女性用の、それも覚めるような鮮やかな青のパーティードレス。
ぽかんとしている僕の前で、アナスタジアは、クスッと笑った。
「どう?」
「どう……どうって?」
「髪は短くなっちゃったけど、男に見えるってことはないわよね」
僕はコクコク頷いた。もともと、僕は彼女の男装には無理があると思っている。薄汚れた衣装と帽子、口調でどうにか少年を装えているに過ぎない。
こうしてスカートを穿けば――そうでなくたって――。
「もちろん、女性に見える」
その答えで、彼女は満足しなかった。
数歩下がり、手を後ろで組んで、胸を張る。
「綺麗? 服じゃなくてあたし」
「き……きれいだよ」
「かわいい?」
「……可愛いよ」
戸惑いながらも、確信を込めて、僕は断言した。
アナスタジアの真意は分からない。けど、その質問には明確に、即答できる。
「綺麗だ。可愛い。アナスタジアは、とても可愛い女性だ」
うん……本当に。アナスタジアは綺麗だった。
想像していたよりもずっと華奢で……背丈だけなら少年のようでも、やはり彼女は成人女性なのだ。伸びやかな手足は大人のそれである。
髪が短いせいで、剥き出しになった首や肩。手折れそうに細く白く、眩しくて、目眩がするほど柔らかそうで。
ああ――なぜ、僕の前に、そんな姿を現した?
だめだよ、アナスタジア。僕の手の届くところに来てはいけない。触れたくなってしまう。
僕はゆっくりと、手を伸ばした。
アナスタジアは、フフンと鼻を鳴らした。
「うん。よし。その言葉が聞きたかったのよ」
ウンウン頷き、よし、と手を打つ。そして彼女は踵を返した。
「じゃっ、着替えて顔洗ってくるわ」
「なんでだっ!?」
僕は今度こそ絶叫したが、彼女は止まらず、また二階へ上がってしまった。
すみません長引きました。次回、ルイフォン様がさらに我慢と戦います。




