がまんできない①
――どう、声をかけていいものか。
「おぅい。お邪魔してるよ?」
呼びかけてみる。だがジャキンジャキンと硬質な音に掻き消されたのか、アナスタジアは反応しなかった。僕はとりあえず、すぐそばまで近づき、壁に背中をもたれさせた。
そのまま、黙って待つ。
ジャキジャキジャキジャキ――散髪は、そんなに長い時間をかけずに終わった。顔を上げたアナスタジアは、濡れた犬みたいに頭を振った。肩の髪束をたたき落とし、床を掃き始める。僕はちりとりを持って屈んだ。
「……なにやってんのよ」
アナスタジアのひどく不機嫌な声が降ってくる。僕は首を傾げた。
「掃除の手伝い」
「…………ああそう。ありがとう」
そう言ったきり、彼女は黙って、僕のちりとりに掃き始めた。
掃除が終わってから、彼女はまた頭を振った。パラパラと数本、金髪が肩に落ちてくる。気付かず歩き出したのを、僕は肩を掴んで止めた。
「ああ、待って。切れた髪が残ってる」
客も出入りする場所に、髪が落ちるのは良くないだろう。僕は自分の櫛を取り出し、彼女の頭頂部からゆっくり梳っていく。肩に落ちてきたものをペシペシ叩く。
「濡らしてから切るといいよ。それからケープも。何より鏡を。そもそも店に行ったほうがいい」
「……怒らないのね」
不意に、アナスタジアが呟く。僕は聞き返した。
「ん、なにを」
「あたしが髪を切ったこと」
「なんで僕が怒るんだい?」
本当に意味が分からなくて、再び聞き返す。しかし彼女は「なんでもない」と首を振った。また黙り込んで、作業場へ向かうアナスタジア……ボリュームのある髪を切ったせいだろうか、一回り小さくなったような彼女の背中に、僕は肩をすくめた。
「ああ、母親は君の金髪に固執してたんだっけ? 僕はそれ関係ないし。初めて会ったときからその長さだもの、何も驚かないさ」
「……ああ。そっか。そうね」
鼻で笑うような呟き。そうそうと頷き、僕はいつも通り笑っていた。
――嘘、だった。
僕がアナスタジアを初めて見たのは、男装姿の『アーサー』ではない。実はもっと昔、四年くらい前に一度、社交界で会ったことがある。
十六歳、社交界デビューを果たしたアナスタジアは、その日から大輪の花のように輝いていた。
腰よりもずっと長い波打つ金髪、日に当たったことがないんじゃないかと思わせる白い肌、サファイヤのようなブルーアイ。サロンに入ってきた瞬間、その場にいた全員が息を呑んだ。誰よりも美しい少女がどの貴婦人よりも愛想良く微笑んでいる。
あっという間に男達に囲まれ、花や酒、チョコレート、宝石、ラブレター、そして現金が贈られる。それらは一度アナスタジアの前に積まれたが、すぐに真横、父親へと流れていった。
贈られても奪われても、彼女の表情は、何も変わらなかった。
甘やかな笑みを彫刻された据え置き用のお人形――
――ああ、あの娘は、僕と同じだ。可哀想にな。
そう思った記憶がある。
それだけで、僕は彼女への興味も記憶も失っていた。
だけど、今は。
作業用の低い椅子に、大きく足を開いて座ったアナスタジア。僕に背を向け、前屈みになる。
カツカツと硬い音。きっとまた釦だかブローチだかに、細々した細工を彫っているのだろう。僕がこの工房にいる間、ほとんどの時間、彼女はそうして過ごしている。僕はそれを眺めて過ごす。
振り向かない、笑わない。
反応を期待するでもなく僕は言う。
「今日の手土産はちょっとイイモノだよ。次の休憩で食べるといい」
「またサンドイッチ?」
作業しながら聞いてくる。そっちも買ってくればよかったかな、と少しだけ後悔しながら、僕は懐から小物入れを取り出した。合貝の形を模した薬入れだ。
「騎士の戦馬調教師御用達のハンドクリーム。手荒れによく効くと評判で」
「さっき、食べろとか言わなかった?」
「食べられないことはない、天然素材だよ。美味しいかどうかは食べたことがないから分からないや」
――クッ。小さくしゃくり上げるような音。アナスタジアの背中が小さく震えたような気がした。
しばらく、沈黙。やがてまたカツカツ、作業の音が再開する。
「ていうか、ハンドクリームって何。騎士の戦馬? 調教師?」
「動物の世話は水と力を使うから、ケアは欠かせないのさ。市場には出せない最高の品質だよ。馬に嫌がられないよう匂いも無いし、ベタつかないから作業中でも塗っておける」
また、クッと小さな音。
「女の子への贈り物としては、色気なさすぎじゃないの」
「そうかい?」
「だって普通は――ドレスとか、髪飾りとか。……化粧品とか」
ふむ、と僕は唸った。
アナスタジアへの手土産として、考えなかったわけじゃない。実際、今まで女の子へのプレゼントはそういったものを選んできた。
だけど彼女は飾り釦の職人だ。市場で買った宝飾品を本職相手に贈るのは、高値でも安物でもどうかと思う。まったく喜んでもらえないとまでは思わないけど――
「君には綺麗な服や髪や、顔よりも、手のほうが大事だと思ったんだよ」
アナスタジアが、視線だけ振り向いた。
「僕の知るアナスタジアは、その短い髪に男の子みたいな格好をした、スミス・ノーマンの一番弟子だ。熱湯で染めたり木を削ったり麻紐を縒ったり、それで手が荒れて、商品に血でもついたらやり直しだろ? きっとすごく神経質に、大事にしてるだろうから」
「……そう」
彼女はまた、前を向いた。
「そっか」
「ここ、置いとくよ」
こっくり、前に頭が傾く。受け取ってはくれるらしい。
それで僕は満足して、リビングテーブルに腰を下ろし、勝手にくつろいだ。今なにを作ってるのか知らないけど、一段落ついたら眼鏡のことを切り出そう。大体、僕の用事や手土産なんていつだってついでなんだ。こうして一所懸命働いてる、彼女の背中を見つめ続けるのが本懐。
カツカツ、カツカツカッ――
「ねえ、あんたってさ」
「何だい?」
「なんで、この工房に通ってるの」
背中越しに問われる。僕は答えた。
「好きだもの」
「嘘。自分もちょっと手伝わせてとか、こういうの作ってほしいとか言ってきたことないじゃない」
僕は上機嫌で首を振った。
「自分が好きなことをやっている、君を見ているのが好きなんだよ」
アナスタジアは作業を再開した。
カツカツ、カツカツカツ――小さな硬質音に、クックッと、低い声が混じる。
その二つの音がする頻度、割合が逆転するまでは短い時間だった。
アナスタジアは、クックッと唸りながら肩をふるわせ、とうとう手を止め、俯いてしまった。なんだろうかと気になって、近づいてみる。
肩を掴もうとした手を払われた。アナスタジアは僕から顔を背け、大きく溜め息をついた。
「ああ、だめ。やっぱりだめだ、あたし……無理だわ」
「な、なにが?」
短い髪の隙間から、濡れた瞳が見えた気がした。僕はギョッとした。慌てて彼女の肩を掴み、振り向かせる。
今度は無抵抗に顔を上げたアナスタジア。目元はやはり涙で潤んでいた。赤らんだ目元を人差し指で拭い、
「あたしって子どもの頃からずっと、可笑しくも嬉しくもないのに笑ってたのよ」
彼女はそう言った。向かい合う僕に、ふにゃりと眉を垂らして。
「だから……クッ。初めてなんだ。可笑しくて、嬉しいのに、笑わないように我慢するなんて。嬉しくないフリなんて、したこと……ない、だめだこれ、全然だめ。クッ、ククッ……」
「ア、アナスタジア?」
「無理――くふ――はは。うははははっ。あっはっははははは無理がまんできない、止まんないわはははははは!」
アナスタジアは顔をくしゃくしゃにして、およそ男爵令嬢らしくない、大きな声で笑った。片手でお腹を押さえ、もう片方の手で僕の胸をドカドカ殴る。ヒイヒイ苦しそうに喘ぎ、涙を零しながら、彼女はひたすらに笑っていた。
僕はただポカンと、笑う彼女を見下ろしていた。身長差がかなりあるので、至近距離だと彼女のつむじしか見えない。何が可笑しいんだ? 僕、なにか変なことを言っただろうか。
ずいぶん長い時間をかけて、笑いの波を押さえ込んだアナスタジアは顔を上げる。
潤んで輝く青い目が、僕を真っ直ぐに刺してくる。
「ありがとう。超うれしい」
ニィッと口を真横に広げ、どこか野性的な笑顔でそう言った。




