とける、魔法。
「……誰のためって。化粧や服のこと?」
あたしが聞いても、妹は真顔のまま無言。あたしはパタパタ手を振った。
「もしかしてマリーも、お母様達がまた何か出張ってきたんじゃないかって心配した? なら大丈夫! あれから全然連絡取ってないし、そもそも職人になったことも知らせてないもん、工房に突撃できないって。もし来たって、また生卵ぶつけてやるわっ」
そう笑って言ったのに、マリーの表情は変わらなかった。
「大した意味などないの。ただ先日、お客様から口紅をもらって――あっそうだマリー、あなたでしょあたしの店を、王女様に紹介したの! 貰った住所を見て驚いたわ、あの子の家って王宮なんだもの!」
「……王宮まで、納品しにいくのですか?」
「いや、納品じゃなく採寸で……」
あたしは身振り手振りを交えて、大げさなくらいに軽く事情を話す。
王女様からあたしの服を大量注文頂いたこと。ゆえに近々、王宮を訪ねること。もしかするとお茶くらい呼ばれるかもしれないこと。
「その時、いつもの小汚い作業服っていうわけにいかないでしょう? だけどあたしそれらしい服なんて持っていなくて、せめて顔や髪くらい、小綺麗にしていこうかと思って――」
「必要なのは正装であって、女性のメイクアップではないですよね、お姉様」
妹の声に、あたしはギクリと身をこわばらせた。
ああ……これはさっきの、チュニカさんと同じだ。あたしが本心をさらけ出してないって、もうすっかりバレている。
あたしは少しだけ沈黙し、やがて、肩をすくめた。
「まあね。男子の正装なら、マリーの婚約式のやつがあったし。けどなんとなく、久しぶりにスカートを穿きたくなったのよ、悪いっ?」
「……良いことです。お綺麗です。とても」
マリーはそっと、あたしの手を取った。
二つ下の妹、マリー・シャデランは背が高い。女性の平均並みより小さなあたしからは見上げるほど。そんな凜々しい妹は、優しく甘く、まるで王子様がお姫様にそうするみたいに、あたしの指先にキスをした。
「あなたはとても魅力的な女性です」
「な、なに……ありがと? いやなんなのよ」
「あなたが望めば、この世のほとんどの男性はあなたに傅き、尽くすでしょう。いいえ男性だけじゃないわ。あなたの支えになりたいひとはいくらでもいる。わたしだってそのひとりです。お姉様、あなたには幸せになって欲しい。お姉様大好き――」
蕩々と語る妹、そのコトバのほとんどを、あたしは理解できなかった。だからぼんやり、彼女の震える瞼を見下ろしていた。だからつい、聞き流してしまったの。続けて彼女が言った、短いコトバの意味が分からなかった。
「ルイフォン様は、無理です。恋はどうか、他によい男と」
……何を言っているのか、分からなかった。
「……なんで……ルイフォンの名前を言うのよ……」
呟きは掠れていた。だからあたしは喉を湿らせ、もう一度言った。今度は笑顔で。
「なんであの馬鹿王子が出てくるの? あたしがあいつのために着飾ったとでも思った? あははは嘘でしょ、どこから来たのよそんな話」
「王族との恋愛結婚は不可能です。伝統とか親が許さないといったものではない。国法にも明記されていました。過去には裁判まで起こされましたが、すべて棄却や敗訴。王子や王女が、伯爵以上の上級貴族もしくは異国の王族以外と婚姻できた事例はありません。一度も」
えっ、それ全部調べたの? どんだけ本を読んだのよっ?
妹の読書力に一瞬怯んでしまってから、また笑顔の形を作る。
「だから、関係ないって。その……身分のことならあたしだって分かってる。王族と貧乏男爵の娘、しかもあたしは家出してるもん。無理、ありえない、分かってます。ていうかアイツ他に婚約者がいっぱいいるらしいし――あっもちろんそういうご身分の姫君ばかり。初めて会ったときから何回も聞いたわ」
「ええ、いま思えば、あれはルイフォン様なりの牽制だったのですね」
あたしはアッと声を上げそうになった。牽制。そう、アイツは女の子を誘うとき、必ずその『事実』を言う。自分には婚約者が何人もいて、自分で選ぶことも出来ないし逃げられない。だから、本気にならないでくれよという牽制……そうだったのか……。
そこで初めて、マリーは苦笑いをした。少し怒っているように、眉を左右非対称にして嘆息する。
「なら最初から、思わせぶりな態度をしなければいいのに。あれじゃ女の子が可哀想。ルイフォン様は、残酷ですね」
ん? その言い草は、なんだかカチンときた。
残酷だなんて――そこまで言わなくてもよくない? ルイフォンだって、女性を傷つけようとしたわけじゃないでしょう。
なんか、むかつく。何か言い返して、妹に発言を撤回させないと気が済まなかった。
「……マリーは、社交界に出たことないし、王侯貴族との交流もここ数ヶ月で数えるほどよね」
優雅な笑顔のまま、あたしは言った。
「だからかしら、少し潔癖すぎると思うわ。王侯貴族の男と女は、あなたが思うよりずっと強かで享楽的よ。婚約者がいても、結婚までは遊んで構わない。なんなら結婚してからも寵妃を取るの。それは正妃も承知の上よ。それもまた外交だもの、王族との恋愛ってそういうものだって、口説かれた方だって分かってる――」
「ええ。それでお姉様が幸せならば、わたしからは何も言いません」
マリーの、山吹色の強い瞳があたしを見つめる。
「そうでないならば。一度、ルイフォン様とお話をさせてください。キュロス様やリュー・リュー様、アルフレッド・グラナド公爵も交えた席を設けたく思っています。
お姉様、あなたの幸せのためにわたしはできるだけのことをしたい。たとえ外道な手段を使っても、悪役になろうとも。
お姉様、わたしは、あなたに幸せになって欲しいの」
「――なにが、あたしの幸せのためだーっ!」
叫びながら、枕を壁に叩きつける。ノーマンの釦工房に帰ってからも、あたしは苛々が収まらなかった。
「馬鹿にすんな! お節介! 妹のくせに! 保護者面すんなよただでさえ老け顔なのにっ! おねーさまは知らないだろうから教えてあげるみたいな顔して、当たり前の、分かりきったことばかり並べて! 知ってるわ! 分かってるわ! 馬鹿にすんじゃあねぇーわよバーカバーカ馬鹿妹、あんたなんて男の子は父親が産むもんだと弟が生まれるまで思ってたくせにーっ!」
ベッドをバフバフ叩いて叫びまくる。ああああはらたつむかつく、悔しくてたまらない。
なにが一番むかつくって、こんなに嫌な気持ちになってるのに、マリーへの憎しみが生まれないことだ。それは妹可愛さだけじゃない、マリーの言うことが本当に正論で、あたしの胸を穿ったから。
そう、マリーの言うことは何もかも正しかった。
知ってたわよ。でも分かってなかった。
当たり前だと思ってた。だから自分も、そんなふうに振る舞えるって思ってた。だけど覚悟はしていなかった。考えてなかった。
あたしの胸の奥にある、ちいさな灯火が何なのか、気付いてなかった。いや、気付かないようにしていた。気付いていないふりをしていた。
……恋だなんて、大げさなものじゃない。ただちょっと楽しかっただけ。
顔が無駄に良すぎるなあとか、あたしの正体を知ってるぶん、気が楽だとか。あたしが作る服も着せたら似合いそうだなとか、不味いコーヒーをそれでも必ず飲み干すとか。
あれで案外、聞き上手で、あたしが喋り出したら口を挟んでこないとか。
帰り際、本気で名残惜しそうな顔をするのが可愛くて、切なくなってしまうとか。
ただ、それだけで……恋なんてものじゃ、なかったはずなのに。
「はず、なのに……」
めちゃくちゃになったベッドに身を投げ、天を仰ぐ。
いつのまにか頬が濡れていた。指で拭うと、色が付いた。涙で化粧が溶けたのだ。
アタマも心もカラッポな小娘を、お姫様に仕立てた魔法は、涙で解けてしまうのね。
どろどろになった顔を手で覆い、あたしは大きく息を吸った。
もう一度、マリーの馬鹿と叫ぶつもりだった。
だけど代わりに出たのは、弱々しい嗚咽だけだった。




