カラッポ姫に紅を引け (後編)
「こんにちはー」
軽い調子で声をかける。と、物々しい城門の前で、少年がきょとんとした。グラナド城の門番、トマスさんだ。彼はしばらく不思議そうな顔をしてから、ギョッと目を見開いた。
「あ、アナスタジアさん!? どうしたんです、その格好はっ」
彼は突然の訪問ではなく、あたしの衣装のほうに言及した。釦のデザインを見せるようのサンプル、安物のワンピースとはいえ、れっきとした女性服。
「ん、ちょっとね、久しぶりに着てみた」
「男の子のフリはもうやめたんです? あの、お母さんがまた何か言ってきたとかじゃないですよね……?」
ひどく遠慮がちに聞いてくる彼。
そういえば彼は、シャデランの家に来たことがあるらしい。そして母の『人形遊び』を見た。それは関係者みんなが知ってることだけど、ほかの誰よりあたしに同情的なのかもしれない。
なんとなく気まずさを感じて、あたしは曖昧にヘラヘラ笑った。トマスさんはそれ以上は突っ込まず、やはり気まずそうに背を向ける。
「マリー様は今の時間、図書館にいると思います。案内しますね」
「あっ待って! 今日はマリーを訪ねたのではないの」
「えっ? 旦那様はお仕事だけど――」
「伯爵でもなくて。あの……チュニカさん。時間が空いていたら、会わせてもらえないかな」
「チュニカさんに、アナスタジアさんが?」
年若い門番は小麦色の眉を垂れさせて、心底不思議そうな顔をした。
チュニカさんは、お風呂と美容のスペシャリストであると同時に、文字通りの「湯の番人」でもある。グラナド城の薪、燃料の在庫、敷地内に張り巡らされた水路の水質衛生管理までが彼女の担当。実際の作業は家政婦や従僕が行うだろうけど、その最終チェックや責任はチュニカさんに一任されているらしい。
あんな言動だけど、侍従衆ではトップクラスの要職だ。あんな言動だけど。
忙しそうだな……。彼女にとってあたしは雇い主の妻の親族、むしろあたしは居候中、お世話になっただけだ。門前払いになる覚悟で訪ねたのだけど――あたしの顔を見た瞬間、彼女はにんまり笑った。
「あらあらあら、まあまあまあ。アナスタジア様。お久しぶりですこと。おげんきぃ?」
彼女はあたしの格好に何も言わなかった。相変わらず、ちょっと独特な空気感の彼女。あたしは肩の力を抜いた。
「ええ元気よ。お忙しいところに突然訪ねてごめんなさい」
「平気です、今は休憩中なのでぇ。私に何の御用でしょうかぁ?」
「……あ……あのう。化粧品を……売ってほしくて」
チュニカさんの眉がぴくりと動く。それ以上の反応をしてくれないので、あたしは言葉を変えた。
「口紅を……ね、ひとから貰ったんだ。それがすごく鮮やかな赤色で、すっぴんに塗ったんじゃ浮いちゃってさ。しょうがないから、それに合わせて白粉とか頬紅とか、いろいろ着けようとしたけど、そういえばあたし実家の荷物ぜんぶ失くしちゃってるからさ」
「ふふん。私、化粧品屋ではございませんよ」
「わ、わかってるけど、他じゃ買えなくて。ほら、オイラ商店街じゃまだ男のフリしてるから――」
「工房で雑貨として取り扱うかもーとか言えば仕入れできますよねえ。隣町に行くって手もあるしぃ」
チュニカさんの表情は全く変わらない。あたしの言葉に嘘があることを見抜かれ、待たれている。あたしはとうとう言った。
「……何を買って、どうやって着けたらいいのかわからないの。シャデランの家ではいつもお母様が買って、勝手に塗ってた。あたし、自分でお化粧したこと一度もないんだ……」
――にっこり。そんな擬音が背後に見えるような満面の笑みを浮かべる湯番。
その口紅の送り主とか、男装はやめるのかとか、何のために化粧をしたいのかなんて尋ねてこなかった。
ただ風呂場へ繋がる扉を開き、あたしの手を取る。まがまがしいほどに優しい微笑みで、あたしに甘く囁いた。
「畏まりました。すぐに美肌湯の準備を致します」
「えっ、お風呂? あたしはただ化粧を」
「いーから、このチュニカにお任せを。女が化ける魔法を、すべて教えて差し上げますわ」
全身から、爽やかで甘い花のにおいがする。
ここ数ヶ月、井戸水と石鹸で洗っていた金髪は、謎の洗剤やオイルで梳かされ、つやつやでフワフワ。髪結いの完成形は決して贅沢ではない。淡い水色のリボンを一緒に編み込んで、すっきりとハーフアップにしただけ。それだけで、宝石付きのティアラを重ね付けしたくらいに華やいでみえた。
「アナスタジア様は、お顔立ちに華がありますから。盛るより見せるほうがいいんです」
そういって、彼女が押し付けてきたドレスはやはりまたシンプルだった。リボンと同じ明るく鮮やかな水色一色で、ヒラヒラのフリルやレースも無い。シルエットこそプリンセスドレスの形だけど、落ち着いたデザインだった。オフショルダーでむき出しにした肩が差し色だというのだろうか。そんな馬鹿な――なんて笑えない。実際、あたしの白すぎる肌は真珠のネックレスみたいにドレスを飾り、確かに彩りよく見えるのだ。
そして、赤い唇。頬紅は無垢な少女らしいピンク色ではなく、オレンジがかった珊瑚色。アイシャドウはブラウンに近いゴールド。
あたしはゆっくりと手を上げて、鏡に映る、自分に触れた。
「……青い服なんて、初めて着た。それにこんな、大人っぽいメイクも」
ふふっ、と笑い声を上げるチュニカさん。
「素敵でしょう?」
「あたしには絶対、似合わないと思ってたわ」
「あら、どうしてぇ?」
問われて、どうしてだったろうかと思い返す。
ああ、そうだ……お母様がそれを許さなかったからだ。
あたしは母の『作品』だった。メイクも衣装も髪型も、母が見立てたものを着けてきた。そのセンスが悪かったわけじゃなく、実際、あたしには少女らしいピンクのメイク、フリフリヒラヒラのプリンセスドレスがよく似合った。シャデラン家の自慢の娘――小柄で童顔で、いつまでも少女のよう、お人形のよう、無垢な天使のようだと、男たちからそう褒められてきた。
だからあたしも、そう思っていたんだ。大人の女性のフリなんて、似合うわけがないって。
「似合わないわけがないじゃないですか。あなたは大人の女性ですもの」
『魔法使い』はなお呪文を囁く。
「ひとは、自分がそうなりたいって強く思えば、そういう顔になってくるものです。
お綺麗ですよ、アナスタジア様。今のあなたならきっと、王子様だって夢中になるでしょう」
それからチュニカさんは、使用した化粧品に、その塗り方のメモを付けて渡してくれた。お金を払おうとしたけど、「グラナド商会のサンプル品でいっぱいありますから」と受け取ってくれなかった。
上から下まですっかりドレスアップして、庭園を縦断し、門のほうへと戻っていく。居候中は嫌になっちゃうほど長いと思っていた回廊が、今日はなんだか、いつまでも歩いていたい気持ち。それでいて焦れったい、早くここを出て家まで帰りたい気持ち。街を歩いてみたい気持ち。
……なんだかな。なんだろうなあ。
勝手に顔がニコニコしてくるの、なんだろう。
ほんと、なんなんだろう。
誰かに、今のあたしを見せたい気持ち。会いたい気持ち。
今ここにいないのに、嬉しくなってしまう。そんな自分が、ちょっと可愛いような気がしてくる。それがくすぐったくて可笑しいの。不思議な気持ち、なんだろうな。
「ぐふっ」
つい、笑い声が漏れた。あんまり可愛い声ではなかったので、あたしは慌てて口元を押さえ、自分にしか聞こえない声でクックッと笑った。
グラナド城の門前まで来ると、そこに門番のトマスさんと、妹、マリーがいた。
トマスさんから話を聞いていたのだろう、あたしの訪問にマリーは驚かなかった。
しかし笑顔でもなかった。少し久しぶりに会ったのに、妹はにこりともしない。
長身の妹は、そうして静かに佇んでいるとどこか怖い……威圧的な迫力がある。
思わず怯みながらも、手を振るあたし。妹はそれにも応じなかった。ただ静かに、叱るような厳しい声で、あたしに言った。
「お姉様。そのお姿は、誰のためのものですか」




