夜に憂う
少しお待たせしてしまいました!
マリー・シャデランは怒っていた。
「俺が悪かったってば、もう許してくれよ」
「許しませんっ」
何度目だかの謝罪を述べる俺に、マリーはそっぽを向いたまま言う。
……とはいえ、マリーがいるのは薄化粧の奥にあるそばかすまでが見える距離。
マリーの私室、四、五人が並んで座れる長椅子で俺のすぐ隣に座り、マリーは怒っていた。
「キュロス様ったら、人前であのような……はしたないにもほどがあります。は、恥ずかしい……っ!」
「婚約式でも誓いの口づけはしたじゃないか。もっと何百人もの前で」
「あれは儀式のようなものですし、もっと全然別物でした」
「まあ……だけどお互いコドモじゃないんだし、そんなに照れなくても」
「コドモじゃないからこそです。いい大人なら恥じらいをもつべきです。これは照れてるとかじゃないですっ」
俺に背を向けたまま、俺の腿をポカポカ叩くマリー。その所作はあまり大人の女性らしくはない気がしたが、可愛いのでよし。
「前々から、キュロス様は人前でわたしとくっつきすぎだと思ってました。夫婦仲がいいのとはしたないのとは違います。ああいうのはもっとこう秘め事というか、人目を避けるべきでは? 人払いをしてからにすべきでは? キュロス様はいつも急なんです」
「仕方ないだろ、いつだって抱きしめたいし、顔をみるたびキスをしたくなるのだから」
びくっ、とマリーのお尻が縦に揺れた。俺は反射的に腕を回し、マリーを背後から抱き寄せる。……おっといけない、今まさに怒られたばかりだ。俺は背後を振り向いた。
そこにはいつもの通り、老執事がいる。
ウォルフガングはホホッと笑った。
「それでは、僕は払われます」
一礼してすみやかに退室する。扉が閉まるなり、俺はマリーの頬をつまんだ。そうして催促すると、ちゃんと振り向いてくれる。合わせるだけのキス。マリーは小さく嘆息した。
「ウォルフとミオなら、いてもよかったのに」
そんなことを言う。どうしてと問うと、俺の肩に顔を埋めた。
「執事と侍女は、だいたいいつでもそばにいるもの。いないときを見計らってたら、あなたとくっつけないわ……」
俺はいよいよ強く彼女を抱きしめた。あー。可愛い。
そうだよなあ、俺は仕事が無いときなるべくマリーの近くにいるが、それでも二人きりになれる時間は少なかった。夫婦の寝室はまだ改装中だ。それを待っていられないのが新婚というものである。長椅子でキスを重ねながら、俺はマリーをくすぐった。
「ひゃっ」
「来客中にしたのは悪かったよ。マリーの言うとおり、はしたないことだった」
「そうよ。しかも、よりによって王族のご来賓をお見送りするときだなんて」
くすぐっていた手をペチンと叩かれる。あ、これは本当に怒っているな。いつも穏やかで控えめなマリーは、怒ると怖い。これは笑ってごまかしていてはいけないと察し、俺はちゃんと詫び、説明することにした。
「相手が王族だからこそだ。そうでなければ、あんな小物を相手に牽制しない」
「……王子様なら、わたしが靡くとでも思ったの?」
「いいや全然。見るからにあっちの岡惚れだ、嫉妬のしようもない」
「キュロス様、わたしもう自分で言えます。わたしの夫はキュロス・グラナド。生涯、彼以外を愛さないと」
マリーの声は力強く、一片の隙もなかった。挙げられた名が自分自身のでなければ、どんな偉丈夫だって気圧されるほど。どうやらマリーもリヒャルトの好意にはちゃんと勘付いていたらしい。マリーは自分を過小評価しがちだが、他人の感情や視線に鈍感ではなかった。
彼女の言葉は疑いようもない。それでも、俺は言った。
「マリーの心がどうであれ、その身を攫うことが出来る――それが王族だ」
「……王の権力は、まだそれほどに強いの?」
俺はうなずきも首を振りもしなかった。
「いいや、王が絶対の支配者でいられる時代は終わった。普通に考えて、グラナド家の力に関係なく、他人の心身をおいそれと奪えはしない」
「普通ではない手段で、計画的にならばということでしょうか」
「否定は出来ない。たとえば俺に叛乱指揮の疑惑をふっかけて、王国審判の留置所に拘束するとか」
マリーは山吹色の目を見開き、俺の顔を凝視した。ちょっと脅かしすぎたと反省し、笑って首を振る。
「忘れてくれ、極論だ。そんなことは不可能だし、父アルフレッド公爵だって黙っていない。ましてリヒャルトは小者だ、どうにもできない」
「ではどうしてあんな牽制を」
「あいつだけなら問題ない。だがあの上に、ライオネルがいる」
ライオネル――その名前を、マリーは一度呟いて、眉根を寄せた。
ディルツ王国の第一王位継承者、ライオネル・ディルツ。現王はすでに、政治をこの長子に任せきりだと噂されている。実際、王家承認の書面には数年前よりライオネルと署名されていた。
「ライオネルは、油断ならない人物だよ。俺と同じ学園の卒業生だが、後輩に語り継がれるほどの優等生。座学は全教科、芸術教養や娯楽のゲームですらも、ライオネルの記録が塗り変わることはなかった。しかも武芸にまで通じていて、この国に勝てる者はいないといわれるほど」
「剣も、騎士団長のルイフォン様よりお強いのですか?」
問われて、俺は少し悩んでから頷いた。
「競技大会で、末弟が長兄に打ち勝ったことは一度も無いな」
「……ではキュロス様よりも……」
マリーはそれで大きなショックを受けたらしい。俺は肩をすくめた。
「俺と直接対戦したことは無いが、成績だけで言えばそうなるな。ライオネルは、そういう男だ。おそらくはこの国で唯一、権威としても男としても俺の『上』をいく男――次兄リヒャルトは何も怖くないが、あの長兄に『おねだり』でもされたら厄介かもしれん。リヒャルトにはきっちり意気消沈してもらわないと」
「それって、ああして見せつけるみたいにすれば諦めるものなのですか?」
俺が頷くと、マリーは不思議そうな顔をした。どう言ったら良いのか……これは男性同士でないと理解できないかも知れない。
リヒャルトは小さな男だった。王位継承者である長兄の補佐といいながら、実際できるのは教科書通りの座学のみ。社交性は地に落ちていて、政治にも経済にも、軍事にも役に立たない無能者である。おそらくそれを自覚もしているだろう。
だからこそ、彼はマリーに惹かれた。ありのままの自分を肯定してくれる、『手の届き易い女』として。
だがそれはあいつの錯覚だ。マリーは易いどころか、俺の知る何処の美姫よりも得がたい女性だった。俺だって今も昔も彼女をつなぎ止める努力を続けるつもりでいるのだ、あんな小者にどうにか出来る女じゃない。
それを思い知らせたくて、見せつけた。
「この女はもう俺のものだ、手を出すな」――ではない。「お前には高嶺の花だよ」と。
リヒャルトにはどちらの意図で取られたのかは分からないが、いずれにせよしっかりダメージを与えられたようだった。去り際の背中は可笑しさよりも憐憫すら覚えるほど小さくなっていた。
なのでそれは、無事解決したと考えるとして……。
「これからも、こういった輩は現れるのだろうな。マリーは本当に綺麗になったから。今度はもっと自信満々の色男が、本気で口説き落とすつもりで来るだろう」
「わたしが揺れることはありません。攫われないようにだけ、護ってくださいませ」
そう言って、手を握られる。
これで燃えない男がいるだろうか。俺は彼女を抱き潰してしまわないよう、力加減にたいへんな苦労をした。
お互いの髪を掻き混ぜ、背中を撫で、俺の肩に顔を埋めて。
マリーは、ふと俺に問う。どこか苦いものが混じった声で。
「……もしも……本当に二人の想いが通じ合ったとして、王子様と男爵の娘が結ばれることは許されるのでしょうか」
リヒャルトとマリーがそうなることはありえない。だから俺は、簡単に答えた。
「無理だな。正妃には身分の下限というものがある。側妻にするにも政治的価値が求められるだろう。下級貴族の娘では、非公式の愛妾くらいが精一杯だ」
「……そう、ですよね……」
「少なくとも、上級貴族との政略結婚は避けられないだろう。それが王族の宿命。女嫌いには地獄のような環境だな」
「……ですよね…………」
目を閉じ、静かな嘆息をするマリー。リヒャルトに同情しているのだろうか。優しい彼女を慰めることに徹した。
夜――自室での書類仕事を一段落させて、そろそろ休もうとしたとき。
コツコツ、窓ガラスを固いもので叩く音がした。カーテンを開いてみると、闇色の鳥が留まっていた。
「烏? いや、黒い鳩か。なんだ?」
俺が窓を開けても逃げず、むしろ部屋に入り込んできた。
首輪に、小さな紙の巻物が挟まれている。
開いてみる。それは想定通りの人物からの手紙だった。
『結婚式の承認について ライオネル王子の関与の可能性あり。王宮に潜入しますので日数をください』
……俺は眉根を寄せ、呻いた。どちらかというとこの続きに、幻想的というより不気味なものを感じて。
『追伸 伝書鳩の躾がうまくいきました。夜便も大丈夫です』
俺は紙切れにペンを走らせた。
『結婚式については理解した。それはそうとして、いつのまに鳩使いになったんだ?』
細く丸めた手紙を、鳩の首輪にかませる。それですぐ心得たように、闇色の鳩は飛び立っていく。
月の無い夜、その羽ばたきはあっというまに見えなくなる。窓の向こうには闇だけが広がっていた。
……少し、嫌な予感がした。




