どうぞまたお越しください
それから、わたくしとマリーはすっかり打ち解けて、ともにお茶を楽しんだ。貧しい田舎者という偏見を無くしてみれば、彼女は舌を巻くほど聡明だった。そんな彼女に関わるものに心を惹かれ、わたくしは色々と質問攻めにしてしまった。
「その素敵な男装服は、なんという職人に仕立てさせたのですか?」
「これは職人街の、釦屋ノーマンというお店に、職人見習いの少年がいて……」
「わたくしも欲しいですわ。自分では着られないでしょうけど、侍女の制服に採用します!」
そんなお喋りをしている間に、すっかり日が暮れてしまった。他人とのお喋りがこんなに楽しいなんて知らなかったわ。そろそろ……とリヒャルトに促され、わたくしは名残惜しくも立ち上がった。
「――では、レイラ様、リッチモンド様。今日はありがとうございました。またいらしてくださいね」
「また遊んでくださるの?」
「ええ、もちろん」
「あの……それで、わたくしと、と――友っ……」
「はい?」
にこにこしながら首をかしげるマリー。わたくしは言いかけた言葉を飲み込んで、マリーの手を取った。
「必ずまた来ますわ」
正門まで来ると、数時間前に通してもらったあの若い門番が立っていた。なぜかわたくしたちに背中を向けている……と思ったら、どうやら来訪者らしい。ちょうど到着した馬車を城内へ誘導していた。
あら、立派な馬車ですこと。王宮用の華やかなデザインとはまた違うけど、黒鉄の車体にキラキラ光る螺鈿が組み込まれ、馬も手入れが行き届いているのが分かる。どちらの王侯貴族がご来訪かしら。
ぼんやりしているわたくしの横で、マリーが歓声を上げた。
「キュロス様のお帰りだわ!」
えっ、キュロス様!? い、いけないっ。そうだわたくし、身分を偽って侍女見習いとしてここへ来たのだわ。キュロス様に遭遇したら、マリーを騙していたことがバレてしまう……!
慌ててリヒャルトの後ろに隠れ、姿を隠しながら、そうっと目だけ出して見る。狭い視界に、キュロス・グラナド伯爵の姿が映る……。
……ああっ……やっぱり、すさまじく格好良いっ!!
かつてお見かけしたときより八年分、大人の男になったキュロス様は、もう筆舌に尽くしがたいほど見目麗しい男性だった。かつても十分に凜々しかったけど、背丈も伸び全体的に一回り逞しくなったように思う。腰まで伸ばした黒髪は女性的な色香を感じさせるのに、これ以上無く雄々しいの。
馬車から降りてくる長い足、手摺を掴む指先もいちいち絵になる。全身から素敵オーラを振りまきながら、まっすぐにマリーへ歩み寄ったキュロス様は、まずクスッと小さな笑い声を漏らした。
「ただいまマリー。今日はずいぶん凜々しい姿だな」
「あっ、これは……リッチモンド様が……」
言葉を濁すマリーに、キュロス様は眉をひそめ、今更気付いたようにこちらを見た。わたくしの盾になっているリヒャルトを数秒見つめ、アレッと素っ頓狂な声を上げる。
「リヒャルト殿下ではありませんか! なぜこちらに」
……あっそうか。キュロス様は兄とも面識があるんだった……!
慌てるわたくしに、助け船を出したのは、驚くべきことにマリーであった。人差し指を唇に当てて、キュロス様を諭したのだ。
「キュロス様、いけません。リヒャルト殿下は、今日はリッチモンド様です」
「うん?」
「レイミア様は、レイラ様です。お二人とも従者の見習いとしてお越しくださったので、お見送りするまではそうお呼びしたほうがよろしいかと――」
――え!?
王子と姫の名を聞いて、キュロス様は目をぱちくり。わたくしを上から下まで見つめて、またアッと声を出す。
「おお、本当だレイミア姫だ。お久しぶりです」
「キュロス様もレイミア様と面識があったのですね。王女様は社交界デビュー未満のお年で、王宮からお出にならないのかと思っていました」
「ああ、もう八年も前に一度だけな。学園の長期休暇明けに、ちょうど夜に教会で儀式があるとかで、ルイフォンを送りにきた馬車に王女も乗っていたんだ。挨拶程度だったし、言われなければ気付かなかっただろうが」
キュロス様はわたくし達に向き直り、改めて正式なお辞儀をしてみせた。とても丁寧に「お美しくなられましたね」とのお世辞をもらえた。
「それで、本日の御用向きは何か――侍従の見習いとは?」
「待って待ってその前に、マリー、わたくしたちの正体に気がついていたんですの!?なぜ、いったいいつからっ!?」
大騒ぎするわたくしに、当のマリーはキョトンとした表情。気がついていることに気がついていなかったのか、という意外そうな顔で、
「……乗ってこられた馬車に、王家の紋章がついていたので……」
「んああぁぁっ!?」
「そうでなくても、彼女は最初からおれたちのことを知っていたよ」
リヒャルトまでが半眼になってわたくしを見下ろす。彼はマリーに気付かれていることに気付いていて、やはりわたくしが気付いていないと思っていたことにも薄々気がついていたらしい(ややこしいですわ!)。
「彼女の部屋にあった書籍、ディルツ王家の縁と歴史の本だった。紋章はもちろん、まだ新しかったからおれたちの名と肖像画くらい載っていただろう」
「そんな……じゃあ本当の本当に、最初から、なにもかもバレてましたのね……」
がっくりうなだれるわたくし。ごめんなさい、とマリーは頭を下げた。
「騙されているフリをしていたつもりはなかったのです。お二人のご兄弟、ルイフォン様はこういった遊びがお好きでしたので、同じご趣味なのかなと考えまして」
「彼女はゴッコ遊びに付き合ってくれてたんだよ。おれたちがポロポロうかつな発言をしても全部聞き流してくれながらな」
なんてこと……。わたくしは脱力するやら恥ずかしいやら、いたたまれなくてその場にしゃがみ込んでしまった。
状況から置いてけぼりのキュロス様は、怪訝な顔をしながらも、誰のことも追及しなかった。詳しくはあとでマリーから聞くつもりだろう。わたくしたちが帰り際だと察すると、再び貴族らしい上品な礼を取った。
「今度お越しの際には、グラナド城自慢の晩餐で最高のもてなしをさせていただきます。本日はお出迎えすらせず、無作法な対応となってしまいたいへん申し訳ございませんでした」
「と、とんでもありませんわ、急に来たのはこちらですもの。それに、マリー様との時間はとっても楽しいものでしたわ!」
思わず大きな声で主張すると、キュロス様はふと貴族の相好を崩した。細めた目から、妻が褒められて嬉しかったのが分かる。ほんの小さな痛みがわたくしの胸を刺した。
「リヒャルト様、今度は本の感想を聞かせてくださいね」
にこやかに言うマリー。しかし、リヒャルトは表情を曇らせた。一瞬だけキュロス様に視線をやって、二人ともから顔ごと逸らす。借りた本を隠すように抱いて、ああ、うん……などと呻いていた。
……? なんだろう、また何かこじらせているのかしら。
「……おれはもうこの城には……だから、感想は、あなた宛に手紙で出す……」
「えっ?」
「い、いや手紙だと侍従が先に開けるよな……じゃあ、王宮に、今度はあなたが訪ねてきてくれたら」
ブツブツ言って、結局また黙り込むリヒャルト。もうなんなんですのこの兄。めんどくさいですわっ。
なんとも煮え切らない兄に、どう応じて良いか戸惑っているマリー。その間に、ズイと強引にキュロス様が入り込んだ。キュロス様はここにいる誰よりも背が高い。平均並みのリヒャルトの視界から、ヒールを履いたマリーを隠すように立ち塞がる。気圧され、思わず後ろ足を引く兄に、キュロス様は一礼した。
「次にいらっしゃるときは、どうか先にご一報をください、リヒャルト殿下。……私だけでなく妻も、今度はしっかり準備をしてお迎えしたいので」
「あ……いや……別に……」
「どういう意図だか知りませぬが、妻はいつもこういう格好をしているわけではありません。普段はこうして、長い髪を垂らして」
と、マリーの軍帽を奪い取り、ヘアピンまで抜き取る。長く広がった髪を撫でるように梳かす。
「ドレスや化粧で着飾り、俺を出迎えてくれるのです。今日は紅すら引いていない……」
褐色の親指が、マリーの白い頬を擦る。その瞬間、マリーの頬が赤く色づいた。顎をクイと持ち上げられて、なにかを予見したのか慌てて顔を背ける。
「キュロス様、あのぅっ、人前……!」
問答無用。キュロス様はマリーの腰を抱き寄せると、その唇をぱくりと咥えた。
「うわぉっ!」
思わず声を上げ、のけぞるわたくし。隣でリヒャルトも石化する。
深く、長い口づけだった。もがくマリーの手首を掴まえ、強引に貪る。口唇の膨らみを食み、甘噛みでなぞる。吸い付く音がこちらまで聞こえてくるほど、キュロス様は激しくマリーにキスを捧げていた。
うわ……うわああっ……!
わたくしは声にならぬ声をあげ、顔を手で隠し目だけは開いて、二人の情事――情事としか言いようがないわ――に見入ってしまう。ええっ嘘、貴族同士や親兄弟との挨拶と全然ちがうわ。これが恋人同士のキスなの? いや社交界ではけっこうあちこちでチュッチュしてるのも見ましたけれど、こんな至近距離……日の高いうちから屋外で! こんな……こんな情熱的なもの、部外者に公開してはいけないのではないかしら! せめてお金を取るべきなのではないかしらっ!?
マリーの弱々しい抵抗をもって、キュロス様は唇を解放した。
長いようでごく短い時間のキス。だけど、マリーの様相は一変していた。
まとめて帽子に詰め込んでいた髪は、腰の下まで伸び、豊かに広がっている。恋人に吸われた唇は赤くなり、ふっくら膨れていた。先ほどまでは凜々しく怜悧だった目は潤み、蕩け……目元も頬も、化粧紅をはたいたようにバラ色に染まっていた。
自分の姿を自覚したのだろうか、マリーは両手で顔を隠し、キュロス様の胸をポカポカ叩いた。怒っているのか甘えているのかよくわからない。キュロス様は、そんな婚約者が可愛くて仕方ないのだろう、彼女の腰を抱き頭をヨシヨシ撫でる。
そして彼は、顔だけでこちらを振り返った。びくり――リヒャルトの肩が縦に震える。禍々しい、そう評される緑の瞳に見つめられて。
「必ずまたお越しください、殿下。妻が一番美しいのは、私が彼女の隣にいる時なのですから」
そう言って、キュロス・グラナド伯爵はニッコリと、これ以上なく甘く優しく微笑みかけたのだった。
ガタゴト揺れる馬車の中、わたくしはぼんやり、過ぎゆく町並みを眺めていた。
ご機嫌というわけじゃなかったけど、溜め息はつかなかった。ここでふくれっ面をしていたら、自分は本当にコドモだという気がして。
……そうしなくても十分、コドモ以外のなんでもないですけれど。
ほんの数時間前まで、わたくしは無敵だった。八年前、一度挨拶をしただけの兄の友人に懸想し、相手もまた自分を悪からず想っていると確信していた。婚約してもまだ自分にチャンスがあると思っていた。家臣や身内、社交界に集まったひとたちからお世辞を言われ、自分は美姫だと思い上がっていた。王族は何でも思い通りになると思っていた。
わたくし、とても狭い世界で生きていたのね。マリーとは二歳ほどしか変わらないはずなのに、キュロス様の隣に並ぶには、足りないものが多すぎるってやっと気がついたの。
……本当に、完膚なきまでに鼻っ柱をおられましたわ……。
はあ、と大きく息を吐く。それは溜め息ではなく、深呼吸だった。
――わたくしはコドモだった。だけど少しだけ、成長できた気がする。わたくしは顔を上げ、向かい席に座る兄に笑いかける。
「今日は楽しかったですね、リッキ兄様。また近いうちにグラナド城を訪ねましょう。今度こそわたし、マリーに友達になってと伝えたいの」
リヒャルトは、頬杖をついたままじっとしていた。視線すらくれず、自身の手の中にぼそりと吐き出した。
「おれはもうあそこには行かない」
「えっ?」
「少なくともマリー・シャデランとは会わない。連れが欲しければ従僕か、ルイフォンにでも頼めよ」
「ど、どうしてですのっ? リッキ兄様も、マリーのことが気に入っていたではありませんか!? あんなに仲良く話せた女性は他にいないでしょう、どうして」
「……うるさい……」
「キュロス様もまた来てくださいっておっしゃってたのに」
「うるさいって言ってるだろっ! おれは二度と、グラナド城には行かないんだ!!」
ガラス窓がビリビリ震えるほどの大声で、リヒャルトは怒鳴った。その剣幕に、さすがにわたくしも二の句を継げなかった。
不満はありつつも、黙ってまた景色を眺めていた。
次回のエピローグを持って、王子&姫のグラナド城襲来編は終了です。




